思いもかけず前中後の三部構成になってしまったこの稿も、そろそろ終わりが近付いてきた。
表題に起用させていただいた阿部守太郎政務局長は既に逝かれた。あとに残すは暗殺の実行犯たる岡田のみ。この男の始末をつけて、ひとまず幕を下ろすとしよう。
岡田満が死体となって世間に姿を現したのは、阿部守太郎が息を引き取ってから二日後の、九月九日のことである。
牛込築土町に居を構える法学士、
その様子を子細に述べると、まず中国の大地図を床に敷き、その上に正座したのち、着物をはだけ腹をくつろげ、用意していた短刀を――阿部局長を刺した匕首とは別物である――えいやと臍の左下あたりにぶち込んだ。
腹膜を裂き、腸に食い込んだ刀身を、そのままきりきりと右に向かって引き回し、やがて大根でも引っこ抜くかのような豪快さで抜き取ると、今度は首筋に当てて引き擦り、頸動脈を切断し、己が命を終熄させた。
古式に則った、堂々たる切腹である。
死体の頭部は血染めの地図の、丁度満蒙あたりに伏していたから、まず偶然ではないだろう。強烈なメッセージ性を帯びている。この十八歳の青年は、己が死さえもみずからの政治的信念の表明に利用したに違いない。
メッセージと言えば、死体の傍らにはきちんと遺書が残されていた。本人の血に染まりきってはいたものの、判読上問題にはならなかった。
遺書の冒頭で岡田はまず、「何故自分が阿部守太郎を刺したその場で即刻腹を切らなんだのか」を説明しているからたまらない。この時代、刺客は標的を仕留めると即刻自分を始末するのが一般的な習わしで、大隈重信に爆弾を投げた
「臣が事、
と宮城を拝して叫ぶや否や、懐の短刀をすっぱ抜き、自分で自分の首を半分まで切断して果てている。
そうした例に倣わなかった理由として、岡田は「効果の如何を見届くる迄、しばし
また、岡田満は遺書に於いて「実行者は己一人」と敢えて虚偽の報告をなし、相棒の宮本千代吉を擁護している。が、その程度の工作に惑わされるほど警察という国家機関は甘くない。
宮本は大阪まで逃げ、そこから「嘉義丸」なる船に乗り込み、遠く大連へ落ち延びようとしていたが、途中船が宇品港に寄った際、既に手が回っていたのだろう、乗り込んできた警官隊に捕らえられ、東京へと逆戻りした。
岡田満と宮本千代吉、両名の墓石は台東区谷中の全生庵に今も在る。
この寺は山岡鉄舟が国事に殉じた人々の菩提を弔う目的で、明治十六年に建立したものである。
以下、蛇足やもしれないが少々余談を許されたい。
岡田満にその邸宅を切腹の場として使われた、角岡知良に関連したことである。
筆者は当初、
――本懐を遂げ、悔いなく逝けた岡田満はいいものの、勝手に部屋を血塗れにされたこの角岡なる法学士こそいい面の皮だったろう。
と密かに同情を寄せたものであったが、次第にこの角岡知良と名乗る男も、一筋縄ではいかないやつだと判明してきた。
何せこの男、後に五・一五事件の軍事裁判で陸軍側被告の弁護人を務め、彼らの「殉国の志」を熱烈に訴えたりなどしている。
永田鉄山が斬殺された相沢事件にも「角岡知良」の四文字がちらほら窺え、とにかく右翼団体との結びつきが非常に強かったのは紛れもない。それも一朝一夕ではなく、おそらくはこの大正二年の段階から既に
となると彼と岡田との関わりは、本当に切腹の一件のみであったのだろうか? また、宮本千代吉が相棒にのみ腹を切らせて独り大連を目指したのは、あながち命惜しさでも、苦しまぎれの逃走でもなく、背後に何らかの組織による手引きあっての、つまりは十分な成算が見込める挑戦だったのではあるまいか? ――そんな想像がつい浮かぶ。
中国兵がその伝統的な習性を発揮し、結果惹き起こされた南京事件。その影響はめぐりめぐって日本の右翼青年を走らせ政府高官の命を奪い、今日に至ってもなお多くの謎を残すのだ。
混沌めいた大陸情勢に、なんと酷似していることか。
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