チャウシェスクの末路を眺める度に浮かぶのは、チェンバレンの逸話である。
ナチよりも共産主義こそ脅威度は高しと判断し、1930年代イギリスのナチス・ドイツ宥和政策を主導した、ネヴィル・チェンバレンのことではない。その父親、ジョゼフ・チェンバレンにまつわる逸話である。
舞台は英国有数の都市、バーミンガム。当時イギリスはおよそ半世紀もの長きに亘って自由貿易を続けていたが、チェンバレンはこれがもはや時代の要求に適わぬと断じ、保護貿易に切り替えよと叫ぶ熱烈なる論者であった。
この政策に目の色を変えて反対したのが、社会の大多数を占める労働者たち。自由貿易ならば関税がかからず、生活必需品が安く得られる。ところが保護貿易になると、生活費が高くなる。得をするのは一握りの上層部のみで、俺達貧乏人の生活はひたすら苦しくなるばかりーー。
おそろしく簡略化された構図だが、労働者たちはおよそこのような認識のもと、保護貿易に反対していた。
然るにチェンバレンが乗り込んだのは、その労働者を数多抱える工業都市バーミンガム。
さながら敵地の真っただ中で、しかしチェンバレンは大胆にも常の通り保護貿易の重要性を強弁し、「苦しいのはわかりますが、そこをなんとか」と下手に出て機嫌を取るような気ぶりは毫も示さなかったという。
演説は時を追うごとに熱を増し、舌端火を噴くようになり、そしてとうとう、
「自由貿易死せずんば英国死せん」
の絶叫が飛び出した。すると打てば響くの見本のように、忽ち二階の一隅から、
「汝死せずんば我ら死せん」
との声が響き渡った。
さしもの聴衆達も、これには息を呑んだという。
ことによれば血をみる展開になるやもしれない、否、きっとそうなる。緊張は当然の反応だろう。一瞬、場内は静まり返った。
ところがチェンバレン当人はさして狼狽えた風もなく、おもむろに声の上がった方向へ向き直ると、言った。
「私は君が長生きせんことを願う。――今少しく賢き者とならんが為に」
このとき聴衆中に在って、一連のやりとりを遺漏なく見届けていたのが後の大日本帝国衆議院議員永井柳太郎。
オックスフォードに留学中だった柳太郎はよほどこのチェンバレンの姿に感銘を受けたらしく、以来談話や講演に際して屡々引用するに至る。
もし1989年12月21日のチャウシェスクにこの半分も機知と胆力が備わっていたなら、あるいは歴史は変わっていたろう。
ブカレストに於けるあの運命的な演説の場で「お前は嘘つきだ」と叫ばれた際、チェンバレンの如く振る舞えていたなら、少なくともあのような末路は防げたはずだ。
ところが彼は最もまずい手を打った。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして絶句している合間に、35歳の技師によるたった一つの叫び声はあれよあれよと誘爆し、ついには津波の如き抗い得ぬ大勢力と化してしまった。
ルーマニア史はこの瞬間より革命へ向けて大傾斜を惹き起こす。
チャウシェスクは毛沢東や金日成に心酔し、親交を結ぶより先に、地理的にもよほど近い英国政治家からこそ多くを学ぶべきだったろう。
三枚舌は伊達にあらじ。舌の使い方について、彼らはプロだ。口喧嘩に勝ちたくば、彼らを師と仰ぐが良い。
キリスト教も信ぜよ、ポーカーもやれ、ダンスも覚えろ、何でもやれ、そして彼らの思想で、彼らの経済主義で、彼らの武力と文化で、彼らを斃すまでやり抜け。(『殉国憲兵の遺書』35頁)
英霊もこう言い遺してくれている。いざ虚心坦懐に学ぶべし。
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