前回の末尾に、
と書いた。書いてしまった。
ならば当然、この三冊について語らぬわけにはいかないだろう。『悪徳の栄え』、『悪徳の栄え〈続〉』、『美徳の不幸』の三冊を。
この本を単なる悪趣味なだけの低俗本と思っているなら、いますぐその認識を改めた方がいい。これは至極強烈な思想書だ。
著者であるマルキ・ド・サドについて詳しく述べることはしない。私が改めて書くまでもなく、この男は有名過ぎる。サディズムの語源になった男だと言えば、大抵の方はああ、あの男かと顔をしかめながら了解してくれるだろう。
それよりも本そのものの内容について論じたい。まず、最初の数ページをめくっただけで、事前に抱いていたイメージ通り、もうエログロナンセンスの大波がこれでもか、これでもかと叩きつけるように押し寄せて来る。
極彩色に塗りたくられたその波濤の連続に圧倒されつつ、それでも意志力を振り絞り、どうにかこうにか掻き分け掻き分け読み進めると、案外その主張には、なるほどと頷かされる部分が多いことに気付くのだ。読み終わる頃には、私はすっかりサド一流の哲学の虜になっている自分自身を発見せねばならなかった。
元々、
このような短歌に喝采を送って憚らなかった私だ。素養はあったと見るべきだろう。この機会に、是非とも同好の士を増やしたい。
幸福は人間の信じている原理のエネルギーに係るものであって、たえずふらふら迷っているようなやつには無縁のものだろうよ(澁澤龍彦訳『悪徳の栄え〈続〉』329頁)
素晴らしく説得力に満ち溢れた幸福論だ。如何にも然り、人間の意志こそ彼にとっての天国であろう。
問題があるとすれば、多くの場合、それが同時に他者にとっての地獄となってしまうことなのだが。
専制主義にみちびくものは、法律の濫用だ。専制君主とは、法律をつくる者、法律をして語らせる者、あるいはまた、自己の利益のために法律を利用する者のことだよ。専制君主からこの法律濫用の手立てを奪ってしまえば、もはや暴君なぞはいなくなる。その残虐を行使するのに、法律の後楯をもっていない暴君なぞは、一人だっていやしない。(中略)暴君は法律の蔭からのみ頭をもちあげ、法律によってのみ自らを権威づける。(同上、65頁)
この説を最も見事に証明したのはアドルフ・ヒトラーではなかろうか。彼は法に則り国民に選ばれ、そして無二の独裁者として君臨した。
独裁者は馬鹿ではやれない。彼らは皆、法網を潜り抜ける術を心得ていた。
後悔という感情は、罪そのものをあらわすものではなくて、ただこれを制圧できないほど弱い一個の魂をあらわすものでしかない(同上、189頁)
なにやらニーチェが言いそうな台詞である。
私はこうした、人間の「弱さ」というものに弾圧を加える姿勢がたまらなく好きだ。近頃巷に氾濫している作品が、どれもこれも「弱さ」を赦し、あまつ赤裸々な「弱さ」を曝け出す行為に対してすら肯定的なことへの反撥もあろう。
冗談ではない、弱さは罪だ。誰よりも、自分自身にとってこその。蹴飛ばすべきものであって甘やかすものでは断じてない。
天の罰などというものは、およそこの世でもっともわれわれに縁の薄いものだよ。われわれがこの地上で行っていることは、天の気に入ろうと入るまいと、われわれを懸念させるには足りないものだ。天が人類の上にふるう偉力の弱小なることを先刻承知のわれわれは、だからびくとも
ニーチェが叫ぶよりずっと前、とうにサドは神の死滅を知っていた。
もっぱら弱者の発明品であるこの同胞愛なる絆は、あたかも羊が狼に向かって言った次の言葉――『あなたは私を食べてはいけない、なぜなら私も四脚、あなたも四脚だから』――と同じくらい嗤うべき論拠の上に立っている観念でしかない(同上、85頁)
人は容易に他者を見棄てる。
結局のところ、頼りになるのは自分のみ。己の味方は己のみと、常々覚悟しておくべきなのだ。立場も利害も異なる相手を味方だと、ちょっと会話しただけで――若しくは同じ人間だからというだけで――すぐ信じる方がどうかしている。現代の人情というものを、あまりに買い被った
現に見よ、国際世論が中国共産党のチベット虐殺を
一時フリーチベットと熱狂しても喉元過ぎればなんとやらで、ひとしきり騒いだ後はケロッと忘れてしまったではないか。目下進行中のウィグル強制収容所は? 100万人以上が人権を蹂躙され、日夜サドの脳内風景が現実に展開されているにも拘らず、その抑止に世論が何の役に立ったのだ? 国連は抑止どころか指をくわえて眺めているに等しい有り様ではないか。
そういえば中国は1945年8月15日以降、詔勅に応じて投降した日本兵にも容赦なく金属製の足枷を嵌め、畜獣に等しい扱いをした。最近も収容所から生還したウィグル人が、鎖で手足を縛られた姿を披露して、これが収容所の実態だと暴露した。
之が敗戦国民の負うべき責任とは断ずる
日支提携と言う事は不可能な事である。今迄の日支提携と叫んだ者は支那人を識らぬ者である事を明言する。民族性と言い、文化の程度と言い、日本とは全く容れざるものである。(同上、163頁)
あの国は70年前から、否、4000年前から何一つとして変わらない。
激怒のあまり憤死しかけた日本兵が遺した言葉は、今日でも齟齬なく適応可能とみていいだろう。
未亡人が喪服を着ている時ほど色っぽいものはありません。(澁澤龍彦訳『悪徳の栄え』、329頁)
これには男なら誰しもが同意するに違いない。もし頷かないとすれば、そいつはきっと真正のペドフェリアか何かだろう。
ついでながら触れておくと日本にも、
とか、
とかいったような古川柳が存在する。まったく未亡人とは字面だけを見てもなにやら小雨に濡れそぼったような儚い感じを惹起させるものであり、男にとってはそれがたまらなく艶かしい魅力として印象され、いきおい身を焦がさずにはいられぬものだ。
この傾向は『めぞん一刻』――音無響子が世に出て以降、ますます加速した観がある。そういえば『るろうに剣心』の雪代巴も見ようによっては未亡人と取れなくもないか。あの翳のある美しさは、未だに根強い人気をほこる。
所詮男などという生き物は、阿呆と野獣の混合物に過ぎないであろう。
そろそろ総評に移りたい。『悪徳の栄え』は読むと力が湧き出す本だ。
生存競争の激化した――そしてこれから、ますます熾烈さを増してゆくであろう――現代社会に生きる者には必読の書だ。
- 作者: マルキ・ドサド,マルキ・ド・サド,渋澤龍彦
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1990/10/01
- メディア: 文庫
- 購入: 12人 クリック: 137回
- この商品を含むブログ (46件) を見る
- 作者: マルキ・ドサド,マルキ・ド・サド,渋澤龍彦
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1990/10/01
- メディア: 文庫
- 購入: 11人 クリック: 63回
- この商品を含むブログ (20件) を見る
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓