穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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書見余録 ―魅力的な鈴木三重吉―

 

 

 眼が大きい。それも光沢に富んだ眼だ。
 鼻梁が一本すっきり通り、その整然さは定規で引いたさながらで、この顔を前にするとき、私は如何にも明治人を見る思いがする。

 

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 この顔の持ち主こそ、鈴木三重吉すずきみえきちに他ならない。
 1882年誕生、1936年没。
 小説家にして児童文学者。
「ごんぎつね」や「蜘蛛の糸」といった、現代まで人気の衰えない数々の名作を掲載した児童文学誌『赤い鳥』の創刊者として世に知られ、日本の児童文化運動の父としても名が高い。

 

 私はどうした性分か、金がないと苛々していいものは書けない。これで今月が済んで来月の小使こづかいもありますから御安心なさいと言はれた時程のんびりすることはない。そんなときには何にも余計なことを考へないで、じっと一間に這入はいって、っくりと、書きたいものを書く。いらいらしてはいい考も出やしない。岩波書店鈴木三重吉全集 第五巻』135頁)

 

 だがしかし、私にとって鈴木三重吉の魅力とは、随筆の中で時折見せるこう云う素直さこそなのだ。
 折角なのでもう一つ。

  

 旅行は一体に嫌ひである。(中略)殊に避暑などの贅澤旅行はぜにでもどっさり持って行って贅澤出来ないぐらゐならば寧ろ行かない方が好い。僅ばかりの金を持って、金持の中にまじっておづおづしてゐなくてはならぬやうだと、癪に触って仕様がない。(同上、358頁)

  

 まったく何と正直な男なのだろう。それはそうだ、人格の独立はついに経済の独立に依る以外ない。金もなしに心の安定を得られるものか。


 金、かね、カネだ。資本主義、黄金万能こそ過去から現在まで時代を貫き滔々と流れる、この世界の主潮なのだ。金さえあれば文士に良作を書かせることも可能だし、教授だの何だのと偉そうな肩書を貼り付けた連中にだって好きなことを喋らせられる。実際問題、人間を操るという一点に於いて、日本銀行券以上に強力なおふだ・・・はないであろう。住吉も貴船も熊野だろうと、全然物の数ではない。
 金なんぞには目もくれませんと言わんばかりの清廉高潔の士を創作上に登場させてみせたところで、何のことはない、結局作者はその作品を売ることで金を稼いでいるではないか。大体こういう、金銭を塵芥視せよとのたまう輩こそ却って腹に黒々としたものを抱えているのだ。


 よいではないか、みな三重吉の如く金の魔力に素直になれば。平手で頬を打たれたのなら土手っ腹を蹴り抜くけれど、それが札束でであったなら、へへへ旦那ぜひもう一度と腰を屈めて揉み手しながら逆の頬を差し出すだろう?


 結構結構、どうせ阿弥陀も銭で光る世の中だ、何を憚る事やある。家内安全学業成就無病息災、すべて任せよ。なんてめでたいお金様!

 

 

 

 


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