極論すれば、私にとって英語とは、常に言語では有り得なかった。それは暗号に他ならなかった。英語によって意思を通わせられたことなど、産まれてこの方一度もないと断言できる。
いや、人間、どうにもならない苦手というのはあるものだ。どれほど必死に足掻いても、「学び」の効率が頗る悪い。進歩の実感が伴わないから学んでいても楽しくないし、むしろ学べば学ぶほど大嫌いになってゆく。私の不幸はその苦手の対象が、よりにもよって現代教育過程に於いて最重要視されていると言っていい、「英語」であったことだろう。
日本人は英語の読み書きは割と達者にこなせども、話すことには極めて不得手――こんな風聞を耳にする度、じゃあ読み書きの段階からしてもう覚束ないおれは何だ、いったいどれだけ低脳なのだと我と我が身を引き裂きたくなる衝動がこみ上げてきて、血も逆流する気分になった。
多年に亘って劣等感に苛まれたものである。
こうして培われた英語というか、アルファベットに対する強烈なコンプレックスが、私をして
逆に言うならこの地球上で唯一つ、「日本」だけが私の生存を許してくれる国なのである。これで恩を感じなければそいつは人非人だろう。どうして愛さずにいられようか。周囲皆敵の被害妄想、偏狭排他な島国根性と言わば言え。この国に対して私はほとんど、慈母でも仰ぐような想いを抱いた。それこそが偽り無き実感である。
よって日本という国家の存続を切に願うし、繁栄しても欲しいと思う。零落国家の悲惨の中では何が起きても不思議ではない。主要言語の交代でも起きてみよ、私にとっては世界の終りも同然だ。そんな日には喉でも裂いて死ぬしかなくなる。
絶望した
そのうち日本趣味にも凝りだして、作務衣を纏い、緑茶を啜り、近所のちょっとした買い物へならその格好のまま下駄をつっかけ赴いて、恬として恥じぬまでに至った。模擬刀が無性に欲しくなり、購入後は折角揃えた大小に埃が積もっては大変と、こまめな掃除に気を配る。そうして整えた部屋の中、座布団を敷き、独り静かに腰をおろしてゆっくり読書に耽るのが、私の何よりの楽しみとなった。
その読書も、専ら古書を愛読し、中でも特に戦前に刊行された思想家・経世家の著作物にはたまらぬ魅力を感じている。これほど聡明な人々が在ってなお、あの結果を防ぐことは出来なんだのかと日々驚きの連続だ。
見事に染まりきった観がある。
だが、後悔はない。
「私の一生が真の愛国者のそれであったと呼ばれる日が来たならば、私にとって、より以上の光栄と満足はないであろう」
少年少女の情操教育に資するところ計り知れないグリム童話の作者でさえも、このような発言を残しているではないか。
これでいい、否、これでこそよかったのだ。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓
エッセイ・随筆ランキング
にほんブログ村