穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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続・屠殺街 ―肉食系の中心地―

不思議なものだ。 日本で過ごしていた頃は油絵を長く観ていると陶酔よりもくどさ(・・・)を感じ、濃厚すぎる色彩に胸がむかつくばりであった。 ところがひとたび海外に出て、獣肉を常食にしてみたならばどうだろう。 かつてあれほど不快に感じた油絵が、ま…

栗本鋤雲を猜疑する ―彼の伝えたヨーロッパ―

身を滅ぼすという点で、疑心暗鬼も軽信も、危険度はそう変わらない。 しかるに世上を眺めるに、前者を戒める向きは多いが、後者に対する予防というのは不足しがちな印象だ。「疑う」という行為自体に後ろめたさを感じる者も少なくないのではないか。ことによ…

RAGE ―「千倍にして返すべし」―

いやもう、怒髪天を衝かんばかりと言うべきか。 公使遭難の報を受け、当時滞在中だった英国人らは軒並み色めきたってしまった。彼らの激昂ぶりたるや、予測を遥かに上回る、日本の要路一同を冷汗三斗に追い込まずにはいられない、猛烈無上なものだった。 慶…

血で血を洗う

行き過ぎた精神主義が齎す害を、日本人はきっと誰より知っている。 八十年前、骨身に滲みて味わい尽くしているからだ。「痛くなければ覚えない」。苦痛とセットになったとき、記憶は最も深刻に、脳細胞に刻印される。あの戦敗は、計り知れぬ痛みであった。 …

洋行みやげ ―文久遣欧使節団―

馬のみならず、ロバにも乗った。 福澤諭吉のことである。 文久二年、エジプト、カイロに於いてであった。 咸臨丸で太平洋を往還してから、およそ一年七ヶ月。福澤は再び洋行の機会に恵まれた。幕府の遣欧使節団に選ばれたのだ。幸運でもあり、実力ででもあっ…

馬上風を切る

「ものども、よろしく馬を飼え」 こういう趣旨の「お達し」が、政府の威光を以ってして官吏どもに下された。 明治十七年八月一日の沙汰だった。 世に云う乗馬飼養令である。 内容につき要約すると、 「官員にして月給百円以上の者は最低一頭、 月給三百円以…

相模の水がめ

心如水――心は水に似ると云う。 「堰けば瀑津瀬(たきつせ)、展ぶれば流(ながれ)、澱ませれば水底に雲が行くかと思ふばかりの碧を凝らす深淵となる。淵、瀑津瀬何れを取っても水であると同時に直にそれをもって水を定義することは出来ない。それと等しくか…

三千世界の何よりも

「汝の妻を汝の霊の如くに愛せよ。而して汝の毛皮の如くに打て」「最愛の人の殴打は痛くない」 ロシアの古い諺である。 夫の暴力にさらされないと妻は却ってこれを侮辱と認識し、「不実」となじり、本気になって憤る。あの国の下層社会にはどうもそういう精…

奇妙な肉の舌触り

「…頬は唯々筋肉のみから出来て、笑窪さへなければ、奈良の三笠山の様な平凡極まるものでありますが、例へば庭園の芝生と同じ様に、之が広いか狭いか、又どんな形をしてゐるかゞ目、鼻、口等の道具を引立てるか、見殺しにするかの、重大なる役割をするのであ…

御稜威かがやく地の事情

ちょっと信じ難いような話だが――。 京の街では昭和三年に至るまで、江戸時代が生きていた。なんと牛車が街中を相も変わらず往行し、その巨体が、体臭が、日々の暮らしの風景に、ごくさりげなく溶けていた。 (昭和初頭の京都駅) 牛車といっても貴人が使う、…

追憶・東京日日新聞

『東京日日新聞』の調査に信を置くならば、満洲・ソ連国境地帯はキナ臭いこと野晒しの火薬庫も同然であり、昭和十年と十一年と、たった二年の期間の中に四百を超す不法行為がソ連側から仕掛けられたそうである。 もっともこれはあくまでも、「事件」として表…

語り部、ふたり ―咸臨丸夜話―

咸臨丸の航海は次から次へと不便続出、安気に暮らせた日こそ少ない、冒険というか、苦行であったが。わけても特に苦労したのは、水に関することだった――。 当の乗組士官たる、幕臣・鈴藤勇次郎はそんな風に回顧する。 左様、鈴藤勇次郎。 江川太郎左衛門に兵…

志士の肖像 ―板垣退助、会津戦争の戦利品―

中江兆民は奇行で知られた。 とある酒宴の席上で、酩酊のあまりにわかに下(・)をはだけさせ、睾丸の皮を引き伸ばし、酒を注いで「呑め呑め」と芸者に迫った件なぞは、あまりにも有名な逸話であろう。 その兆民の語録の中に、 「ミゼラブルといふ言葉の標本…

「勝ったものが強いのだ」――ver.1939

数理で全部を割り切れるほど、闘争とは浅くない。 生きて、物を考える、心を有(も)った人間同士が競い合うのだ。番狂わせでも何でも起きる。強さは一定不変ではなく、常にうつろう(・・・・)ものだから。年がら年中、カタログスペック通りに動く機械のよ…

大演説者 ―グラッドストンの六ヶ条―

およそ門外漢にとり、財政演説ほど眠気と倦怠を催すものは他にない。 頭の中にソロバンが入っていない身としては、小難しい専門用語と無味乾燥な数字の羅列がべんべんだらだら、連なりゆけばゆくほどに、意識は白濁、五感はにぶり、阿呆陀羅経でも聴いてるよ…

志士の肖像 ―井上馨のねぎま鍋―

「おれは料理の大博士だ」 とは、井上馨が好んで吹いた法螺だった。 ――ほんまかいな。 と、疑わずにはいられない。 発言者が伊藤博文だったなら、納得は容易、抵抗らしい抵抗もなく、するりと呑み下せただろう。伊藤の素性は、武士とは言い条、下級も下級の…

凶事はいつも突然に ―日本人、ブカレストにて大震災の報を聞く―

「空気」と「爆発」ほどでなくとも、「災害」と「虚報」の相性も、到底笑殺しきれない、頗る上等なものである。 天変地異で社会がみだれ、安全保障に揺らぎが生じ、大衆心理が不安へ不安へ傾きだすと、根も葉もない噂話がまるで梅雨時の黒カビみたく猛烈な勢…

夏よ引っ込め、うんざりだ

暑い。 いつまでも暑い。 週間天気予報には心底うんざりさせられる。 「このあたりから涼しくなります」と発表されても、いざその日付が近付くと、さながら蜃気楼の如く低い気温が掻き消えて、変わらぬ夏日が顔を出す。ゴールポストを延々と動かされている気…

明治やきとり小綺譚

心に兆すところあり、浅草寺を訪れる。 日差しはまだまだ夏である。 この熱気の中、かくも鮮やかな朱色に取り巻かれていると、余計に体温上昇し、汗がだらだら溢れるようだ。 明治のむかし、この境内に飛び来る鳩を殺して焼いてかぶりつき、口腹の慾を満たし…

水銀中毒、待ったなし ―マドリードの民間療法―

アコスタが工房を訪ねると、職人どもはもう既に今日の仕事を終えており、せっせと金貨を飲んでいた。 比喩ではない。 日給を安酒に変えてとか、そういうワンクッション置いた、取引を交えたものでなく。 率直に、物理的な意味合いで――金貨を砕いて粉にして、…

引かれ合う魂

名刺が一葉、はらりと落ちた。 ついこの間の熱い盛りに、神保町で購入した書籍から、だ。 たぶん、おそらく、栞代わりに用いていたものだろう。 拾い上げ、印刷された文字を追う。 たいへん景気のいい地名、小石川区金富町を拠点としていた出版社、東方社の…

治乱興亡、限りなし

ギリシャは「勝ち組」のはずだった。 第一次世界大戦で、彼らはちゃんとつくべき側についていた。連合国に属したのである。おかげで戦後のお楽しみ、パンケーキ(領土)のカッテング(分割)にも与(あずか)れた。オスマントルコを喰い荒らし、アナトリア沿…

ラジオを讃えよ ―黎明綺譚―

ラジオが世に出たあの当時、能力の限界を測るため、それは多くの実験が執り行われたものだった。 (Wikipediaより、レトロラジオ) 何ができて、何ができないのか。 誰にも未だ知られざる、隠された効果・効能が何処ぞに潜在してないか。 そういうことを把握…

どれほど高く昇ろうと

オートパイロットの発明は早い。 第二次世界大戦以前、1930年代半ばにはもう、北米大陸合衆国にて実用認可が下りている。 従来、大型旅客機は、運航に当たって最低二名の操縦士を要したが、オートパイロットを搭載してさえいるならば、一名でも構わぬと、思…

満願成就の時は今

「正義という言葉は美しいが、鉄砲・機関銃・軍艦・飛行機はなお美しい。何故なら正義も、力の伴うにあらざれば空虚な言葉にすぎないからである」 ベニート・ムッソリーニの発言だった。 (猛獣とたわむれるドゥーチェ) セオドア・ルーズベルトにも、よく似…

数は支配す

先日の記事に、およそ一名、とりこぼしがあったことに気がついた。 松陰吉田寅次郎である。 (Wikipediaより、松下村塾) 品川弥二郎の追想談(おもいでばなし)に信を置くなら、松下村塾で彼が用いた教本は、『武教全書』に代表される山鹿流の兵学書にとど…

天地之間、黄金世界

「一に金、二に金、三に金。金も持たずに、達せられる志(こころざし)なぞあるものか」 政治家としての秘訣を訊かれ、鉄血宰相、オットー・フォン・ビスマルクが即座に返した答えであった。 (Wikipediaより、ビスマルク) 偉大な政治家は皆こう(・・)だ…

呪わしき凍土

飢餓ほど無惨なものはない。 飢えが募ると人間は容易く獣に回帰する。空き腹を満たすことだけが、欲求の全部と化するのだ。 朝めしはスープを、――それもキャベツと小魚だけがおなぐさみ(・・・・・)程度に浮いている、塩味のスープを飯盒の蓋に半分ばかり…

原点にして頂点

脱税、脱法、密輸、密造――ひっくるめて暗黒産業。 裏街道を邁進し、社会に毒を流し込み、他者の人生を磨り潰してでも金を掴み取らんと欲す、得てしてそういう輩ほど、上辺ばかりは美しく繕っているものである。 そういうことを、福澤諭吉が書いている。 酒屋…

六花と福翁

雪池という号がある。 福澤諭吉が用いたものだ。 「ユキイケ」でも「セッチ」でもない、この二文字で「ユキチ」と読ませる。 号と名前の発音を一致させたわけである。ちょっと他に類を見ぬ趣向といっていいだろう。如何にも彼の破天荒な性格を表徴したるもの…