穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

古書

仏教徒による大暴動 ―1938年ビルマの夏―

ビルマで暮して四十年、山田秀蔵はいみじくも言った。 ビルマを理解したいなら、まず宗教を理解せよ。 ラングーンの天を衝いて聳え立つ、黄金の仏塔――シュエダゴン・パゴダが象徴するそのままに。 ビルマは仏教国である。 人々の日常生活は仏教文化と非常に…

古き文士の女性観 ―この窮屈な現世こそ―

生方敏郎、 竹久夢二、 徳冨蘆花、 小酒井不木――。 文芸史上に光彩陸離たるこの人々も、しかし時折女性に対してひどく辛辣なことを言う。 お前ら女関係で、何かコッピドイ目に遭ったのかと勘繰らずには居られぬほどに。 生田春月はそれが、それのみが男の偉…

ビルマに跳梁する華僑 ―日貨排斥華僑同盟―

盧溝橋事件が突発する少し前、1930年代半ばごろ。中華民国は世界各地に散らばった華僑の数を統計し、そのデータを発表している。 国民政府僑勢委員会たらいう組織が調査を主導したようだ。 それによると、 まず、タイに於いて二百五十万、 次いで英領マレー…

南洋に夢を託して ―ビルマ生活四十年史―

ミャンマーについて知ろうという気になったのは、直近の軍事クーデターが絡んでいること勿論である。 泥縄式としか言い様がなく、この点我ながら汗顔の至りだ。 幸いにして、良書を得た。 昭和十七年発行、山田秀蔵著『ビルマ読本』がすなわちそれだ。 著者…

謎の元勲・山縣有朋

伊藤公はネタの尽きない方である。 これは伝統的にそう(・・)なのであって、明治時代の新聞記者は三面記事に悩むと直ぐにこの「今太閤」を担ぎ出し、その私生活を赤裸々に暴いて悪口を吐き、ヤレヤレこれでシメキリ破りの罪を犯さず済んだワイとほっと胸を…

伊藤公は本が好き ―維新政府随一の書痴―

淫するほどに書物を好む輩を指して「書痴」という。書に痴れきった、なるほど納得の文字列だろう。 大隈重信は耳学問の人であり、自ら読書する習慣は薄いと、そういう噂が既に盛時から高かった。 まあ、 大隈の外務大臣たりし頃、尚ほ少年者の如き、精力充溢…

不意の出逢いに疼く脳 ―帝都初のプラネタリウム―

とんだ「拾い物」をしたことだ。 頁(ページ)と頁の合間から、このようなものが転(まろ)び出てきた。 「プラネタリウムで美しい星の世界」 「有楽町」 「帝都に出来た新名所」 「東日天文館」 諸余の単語を綜合するに、昭和十三年十一月三日、東京日日新…

ニューギニアの日本人 ―南洋興発株式会社苦闘録―

大日本帝国とニューギニア島の本格的な接触は、どうも昭和六年に始まるらしい。 このとし、同島に開発権を保有していたドイツのとある拓殖会社が経営難に陥った。 すかさず権利を買い取ったのが、南洋興発株式会社だ。南方開発の大手たること、「海の満鉄」…

失われたトコベイ人形 ―在りし日の南洋土産について―

トコベイ人形を初めて見たとき、私はとっさにシュメール人を想起した。 (トコベイ人形) (Wikipediaより、シュメール人礼拝者の像) 思いきって眼が大きく、何を考えているかわからない、無性に不安を掻き立てさせる漆黒が瞳の奥に蟠っているあたり、よく…

医者と世辞 ―吐きたくなくとも嘘を吐け―

良医というのは、ときに詐欺漢の才能を必要とする。 宇佐美洋医学博士がそう悟ったのは、駆け出しのころ、己の不注意な一言で患者の命を縮めてしまった、その後悔が原因だ。 小林という、結核で入院している患者であった。 未だ三十代でありながら、病の進み…

医者のジンクス ―カラス・せっけん・反射鏡―

「医者こそは誰にもまして『科学する心』を持たねばならぬ」 そう自戒しつつも、ついついゲンを担いでしまう。 出勤途中、妙にうるさくカラスが啼くと、 ――さてこそ、あの患者が死んだかな。 不吉な予感が頭を擡げ、そのあたりが沼に化(な)ったような心地…

人の内に潜むもの ―リアル雛見沢症候群―

久方ぶりに医者の随筆を手に入れた。 昭和十七年刊行、宇佐美洋著『耳と鼻』なる一冊だ。 既に日米戦の火蓋は切られ、砲火も酣な時期であるのに、「聖戦」とか「共栄圏」とかいった単語がちらりとも顔を出さないあたり、貝田勝美の『研究室余燼』に酷似して…

焔の上に舞う鷙鳥

駄目だ。 なんというか、本当に駄目だ。 花粉の野郎がいよいよ猛威をふるい始めた。 粘液の分泌が止まらないのだ。ティッシュペーパーの消費量は増すばかり。身体の内側、掻きたくても掻けない場所が痒いというのは人間性をガリガリ削り、自制も理性も餡を抜…

金の亡者でなぜ悪い ―ゴールドラッシュにあてられて―

「どうも、ちかごろの連中は」 カネの扱いが粗末でいかんと、楚人冠が吼えていた。 狭いガマ口に突っ込めるよう、屏風折りに折り畳まれた紙幣の数々。ごくありふれた生活上の創意工夫が、しかしこの偏屈漢には無性に癪に障ったらしい。一見些末に思えるが、…

豊穣なるラテン・アメリカ ―リマ宣言に至るまで―

第二次世界大戦前夜、ラテン・アメリカは「争いのリンゴ」と目されていた。 列国を魅了した彼の地の価値は、すなわち厖大な食糧及び天然資源。アドルフ・ヒトラーが 「我らはこの大陸に於いて、およそ必要なる総てのものを見出す」 と演説すれば、イギリス人…

遥か南の稲作事情 ―ジャワ米にまつわる四方山話―

――外米でも、ジャワ米だけは別だ。 不味くないどころか頗る美味い。豊葦原瑞穂国の外側に、あんないいコメが存在するとは。イヤサまったく驚かされたと、そう述懐する南洋生活経験者は数多い。 ニャミル椰子園の和田民治もその一人だし、「南洋の貿易王」岡…

天国への直行便 ―エンプレス・オブ・ジャパン号の遭難―

沈没する船の中。日本人は笑顔で酒を酌み交わし、大いに埒を明けていた。 明治三十三年十一月五日の深夜、北緯五十度を上回る、冷え冷えとした北太平洋での一幕である。 船の名前はエンプレス・オブ・ジャパン号。ヴィクトリアの港から、日本へ向けて太平洋…

嗚呼みちのくに電波舞う ―東北ラジオ開局の歌―

奥の細道ラヂオで拓け四方の便りも居ながらに はやて来るよとラヂオの知らせ着けよ船々鹽釜へ さあさ漕げ々々ラヂオで聴いた沖は凪だよ大漁船 仙台局の放送開始を記念して、と『マイク放談』(昭和十年、国米藤吉著)には書いてあるから、おそらく昭和三年六…

実戦本意の弁論部 ―赤門を出た男たち―

鶴見祐輔在籍当時の東京帝大弁論部では、屡々閑孤(かんこ)演説というのをやった。 字面が示すそのままに、極めて少人数を対象とした演説である。 しかしながら会場は普段同様、講堂を――ゆうに千人でも収容可能な広間を使う。 聴衆役は空間を贅沢に使用して…

練習帆船おしょろ丸の奇禍 ―拿捕され続ける日本船―

昭和十二年八月某日、オホーツクの沖合で、一隻の日本漁船が拿捕された。 船は二代目おしょろ丸。函館高等水産学校の練習帆船として十年前に竣工されたものであり、その日も同校の生徒二十名を甲板に乗せ、蟹刺網の操業実習を行っているところであった。 (…

漁師たちの暇潰し ―ハコフグ製のタバコ入れ―

人間とは悲しいまでに文化的ないきものである。 無聊に対する慰めなくして、三日と生きれるものでない。 明治三十七・八年、満洲の曠野に展開し、ロシア軍と血で血を洗う激闘を繰り広げていた日本陸軍にあってさえ、ときおり歌舞伎の興行をやり退屈を紛らわ…

滄海を征く ―「地洋丸」の岡本信男―

船員法の話をしたい。 在りし日の第十二条は、こんな文面であったという。 船舶ニ急迫ノ危険アルトキハ船長ハ人命、船舶、又積荷ノ保護ニ必要ナル手段ヲ尽シ且旅客、海員其他船中ニ在ル者ヲ去ラシメタル後ニアラザレバ其ノ指揮スル船舶ヲ去ルコトヲ得ズ。 不…

浪漫の所在 ―沈没船プラネット号―

故郷を遥か9000マイル。プラネット号と銘打たれたその船は、1907年以降およそ7年間余に亘って赤道付近の海洋調査に従事した。 船籍は、帝政ドイツのものである。 当時彼らがこの一帯に保有していた植民地――ドイツ領ニューギニア――経営の一環たる施策であった…

人民の 尻を蹴飛ばす 太政官 ―明治初頭の貿易赤字―

前回の補遺として少し書く。 貿易を搾取の変態と見、西洋人を膏血啜りの巨大な蛭種と看做したがる傾向は、日本人の精神風土によほど深く根付いてしまっていたらしく、維新後も暫くなくならなかった。 明治初頭の十五年間におよそ三百五十回ほどの農民一揆が…

「黄金の国」いまいずこ ―なにゆえ国を鎖したか―

三代家光の治世に於いて、徳川幕府は国を鎖した。 南蛮船の入港を禁じ、海外居留の日本人にも帰国を許さず、ただ長崎のみをわずかに開けて、オランダ・支那との通商を、か細いながらも確保した。 動機は専ら、キリスト教の浸潤を防遏するため。幕府の求める…

金子堅太郎かく語りき ―憲法制定の四方山話―

大日本帝国憲法起草の衝に当たった四人の男。 伊藤博文、 井上毅、 伊東巳代治、 そして金子堅太郎。 彼らのうち二人までもが、昭和どころか大正の世を見るまでもなく死んでいる。 まず井上が、肺結核の悪化によって明治二十八年に。 次いで伊藤が、テロリス…

春風駘蕩インフェルノ

春の足音は恐怖でしかない。 花粉が飛散するからである。 涙と洟とあと色々で、顔面がグッチャグチャになるからである。 今日も朝から頭が重い。 ティッシュペーパーの使用量と反比例して磨り減る鼻下の皮膚層が、またぞろ神経をささくれ立たせる。 ああ、ジ…

酩酊小話 ―口噛み・猿酒・古い酒―

あるいは引っ掛け問題として、漢検にでも出題(だ)された例(ためし)があるんじゃないか。 「酒」の部首はサンズイではない。 酉(とり)である。 こいつをパーツに含んだ文字は、大抵酒か、さもなくば発酵製品にかかわりが深い。 酌、酔、酩、酢、酪、醤…

釈迦が中道を説いたワケ ―山上曹源の見たインド―

「釈迦がどうしてあれほどまでに中道の徳を熱弁したか理解した」 斯く述べたのは山上曹源。霊岳を号する曹洞宗の僧であり、学究の才すこぶる厚く、第十三代駒澤大学学長の座に着いた者。 「およそインド人ほどに、両極端に突っ走りたがる民族というのもない…

忘れ難きめしの味

良きにつけ、悪しきにつけ。 めしにまつわる記憶というのは容易に希薄化をゆるさない。 生存に直結する要素だからか、当人自身意外なほどに後を引き、ふとしたはずみで表面化して、そのときの行動を左右する。 たとえば宮崎甚左衛門だ。 のちの文明堂東京社…