穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ひいばあちゃんの知恵袋・前編


 ――ランプの輝度を上げるには。


「最も純粋の固いパラフィン二分と、純粋の鯨蝋一分と混じ、此混和物を石油に加へて使用すれば、消費量を増さずして、著しく光量を増すの効能があります、さうして此の混和物〇、三グラムは〇、五リットル容れのランプに於て、四日間効能を持続します、但し石油は必要に応じ時々之を補充すべきは勿論です」


 斯様な記述が百年前の婦人雑誌の隅の方に載っている。

 

 

 


 節約術、生活の工夫の類であろう。「おばあちゃんの知恵袋」でも、特に古色蒼然とした代物であるに相違ない。


 アウトドアによほど凝ってでもない限り、石油ランプを用いる者なぞ現代社会に稀だろう。むろん筆者わたしの手元にもない。「鯨蝋」とやらに至っては、どこであがなえばよいのやら、正体さえも不明瞭。つまりはまったく使い処を見出せぬ、無駄な知識で、記憶するだけ脳の容量の空費であると看做すべきだが――どういうわけだか気がつくと、指はペンをひっつかみ、サラサラ紙面に抜き書いている。この手の本を見かけるたびに、期待で脈が早くなる。


 要不要ではない。ただ知りたいのだ。識ることが面白くて仕方ないのだ。


 自己の本質が蒐集家だと痛感するばかりであった。


 お蔭で溜まりに溜まったり、時代遅れな故智どもが――。


 以下、選り抜きを列挙してみる。百年前の庶民生活の実態を垣間見るの興趣をも、あるいは引き出し得るだろう。

 


〇石油に塩を入れて燈を点すときは、火止石油に少しも異ならずして、油の減り方も少なく、光量も強く、又油煙が立ちませんからホヤも煤けません。


〇手などに付いた石油の臭ひを消すには、烟草の粉なり番茶なりを火に燻べて其の上で手を揉めば忽ち消へてしまひます。凡て石油の臭ひは番茶の煙に当てればよく消へるものです。

 


 これまたランプに関する四方山。


 前者はともかく後者の方は、石油ストーブをいじくる際に、あるいは役に立つやも知れぬ。

 

 

 


〇新しい漆器の臭ひを取るには、米櫃の中に入れて置くか、米泔水こめとぎみずを温めて注いでもよい、漆器に脂肪の着いたのは青菜の葉で洗ふと、よく取れるものであります。


〇新しき木具の臭を消すには、蕎麦粉を少し入れて、そこへ熱湯を注ぎ、冷へるまで蓋をして置くと宜しい。


〇凡そ焼物は、瀬戸物でも硝子器でも、塩水で煮てしづかに冷まして使へば丈夫であります。

 


 もったいないの美徳に基き、物を長持ちさせるため、先人は努力を惜しまなかった。


 そういう意味でも、東郷平八郎の精神性は、まさに当時の亀鑑として相応しい。


「国民的人気」を博したのも必然だったというわけだ。

 

 

東郷平八郎と孫)

 


〇寒中硯水の凍らない様にするには、硯水の中に胡椒を四五粒入れて置くが宜しい。


雨の後井水が濁ることがあります、其のときは桃仁、杏仁を別々に磨り潰し、順次濁り水の中に入るれば、暫くの間に濁水は底に沈み上は清水になります。

 


「仁」とは種の中にある核の部分を一般に指し、桃のそれもアンズのそれも、生薬として使われる。


 井戸水に放り込んでも安心安全であったろう。

 


新しい手水鉢、石燈籠、敷石等に古びを付けるには、黐を塗って其上へ落葉をふりかけて置く時は、露霜の為め落葉は朽ち果て、後へ白苔が付きます、又青苔を生えしむるには蝸牛を砕いて其汁を石にすり付け、木蔭に置き水を灌げば美事に生えて古くなるものであります

 


 新品を古物に化けさせるの法。


 新品は「侘び・寂び」に欠けるとの感性からか。


 よしんばそうであったとしても、カタツムリを擦り付けるのは、なにかこう、名状しがたい嫌悪感が沛然として胸に湧く。


 寄生虫の巣窟という印象が、あの軟体生物に対しては、どうしても拭い去れないゆえであろうか。とにかく気持ちが悪いのだ。

 

 

武田神社の「さざれ石」)

 


烏賊の黒味に生麩糊を磨りまぜて書けば、其時は普通の墨色でも、漸次色が薄くなり、三年以後には全く白紙となってしまひます。證文など先方で書いて来たものは、迂闊には受け取られません。

 


 冗談みたいな詐欺のカラクリ。


 人間の悪知恵には限界がない。


 まさか、と疑いたくなるような奇天烈な技を平気で編み出す。きっと本当にあった事件、実際に使われた手口に基き、叙された文であったろう。


「男といふもの閾を跨げば七人の敵ありとは、まだ世の中の容易かりし昔の事、ますます複雑にして陰険なる今日の社会は、いかなる敵いかなる暗闇に潜むやら、或意味に於て門外一歩の目に触るゝところ悉く皆これ敵なり」。――村上浪六の言う通り、大正末には性善説など到底通用しないほど、険悪な世相になっていた。


 文明化とはいついつだとて、そういうリスクと背中合わせで成るものだ。

 

 

 


〇桐の花の散ったのを掻き集めて紫蘇の肥料とすれば非常によく繁茂し色も香もよく出来ます。

 


 箱にするだけが桐の効用でないわけだ。


 当たり前ではないか。私は何を書いている。


 五月の陽気の所為であろうか、感情の振れ幅がやけに大きい。


 ちょっと頭を冷やさなければ。

 

 

 

 

 


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軍人直話 ―「いこかウラジオ、かえろかロシア、ここが思案のインド洋」―


 日露戦争の期間を通し、大阪毎日新聞はかなり特ダネに恵まれた。どうもそういう印象がある。


 一頭地を抜く、と言うべきか。


 例の手帳はもちろんのこと、海軍にその人ありと謳われた不世出の作戦家、秋山真之参謀相手にインタビューを試みて、


 ――ここが思案のインド洋。


 の囃子文句を喋らせたのも、実は『大毎』記者なのだ。

 

 

(昭和初期、大阪毎日新聞社

 


 これを「恵まれた」と評価せずしてなんとする。


 明治三十八年二月一日の號である、そのインタビューが載ったのは――。

 


バルチック艦隊果して来るや否やはロジェストヴェンスキーに聞いてみなければわからないが、ロジェストヴェンスキーも内外の複雑なる事情と自己の責任の重大なるため容易に進退の決心が出来なからう、マア『いこかウラジオ、かえろかロシア、ここが思案のインド洋』とでもいふ様な境遇に居るものと判断するのが至当と考へる

 


 これが秋山の発言だ。


 今日に至るもなお廃れない七・七・七・五は、斯くの如き文脈のもと生起したるものだった。


 その脈を、更に更に辿ってみると、

 


まあ何れにしても我々には差支えはないけれども此バルチック艦隊が地球の表面の何処に存在してもナカナカ口をきく奴だからどうにかして全滅してやりたい、今の様に距離が遠くては砲弾も水雷も迚も届きやうがないから今少し東洋方面に寄り附くか、又は此方から出掛けるかどうかせねば物にはならない、実は我々も敵の逡巡せるには少々閉口してゐるのだ」

 


 こんな展望が開かれる。


 いやさまったく、なんと強気な姿勢であろう。


 語り口の軽妙さ、陽気さときたらもう堪らない。秋山の言葉を吹き込まれると、胸がむくむく膨らんで、バルチック艦隊の撃滅なぞ草いきれのする畦道で手づかみカエルを獲るような、そういうひどく他愛もない、児戯にすら似た容易な所業に思われてきて狼狽える。

 

 

Akiyama Saneyuki

Wikipediaより、秋山真之

 


 相手の心をゴム鞠みたく弾ませる能力ちから。なるほど人間の玄人だ。目から鼻に抜けるが如き凛々たる才覚が、たったこれしきの短文上にも濃く濃く匂い立っている。


 以降、暫らく秋山は、駆逐艦水雷艇の能力を多少誇張を交え説き、

 


「兎に角戦争は必ずしも駒が沢山揃ってなければ出来ぬといふ訳ではないので、金や銀は少なくても桂馬や香車が沢山あれば将棋には勝てる、ソコが即ち用兵の妙だ。旅順艦隊の手並から判断すると新来バルチック艦隊の技倆も大抵分って居るから我百錬の艦隊は飛車角将を下しても決して不覚は取らないと確信して居る、殊に我艦隊は充分駒が揃って居るから此勝負に就て国民は毛頭懸念するに及ぶまいと信ずる、唯だ一日もすみやかバルチック艦隊が東洋に来るやうに祈って貰ひたい。之が残って居ては何分にも我々の職分が終らんやうな心がして酒を飲んでも旨くなし、眠っても寝醒めが悪い、シカシながら敵もバルチック艦隊を全滅されては国家の存亡に関するから余程考へ込んで来るだらうよ

 


 素ん晴らしい大風呂敷・大気焔をぶち上げたるものだった。


 本当は「寝醒めが悪い」どころではない、ノイローゼ寸前の精神状態、青色吐息もいいところな臨界点に立ちながら、身体のどこをどう押して、これほどまでに景気のいい音を出したのか。


 英雄人を欺くとはよくも言ったり。脱帽以外の何ができよう、斯くも巨大な演技力ないし弁才の発露を前にして――。

 

 

Mikasa-Bridge-Painting-by-Tojo-Shotaro

Wikipediaより、日本海海戦・旗艦「三笠」艦橋)

 


「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」。くだんの珠玉の名言が、その場限りの偶然の産物でないのだと、心の底から納得させていただいた。やはり当時の大阪毎日新聞は、あらゆる意味で恵まれている。

 

 

 

 

 


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満洲移民五十万 ―第二次日露戦への備え―


 児玉源太郎の訓示を見つけた。


 あるいはその草稿か。


 満洲鉄道会社創立委員長として、同社の使命――大袈裟に言えばレゾンデートルとは何か、杭でも叩き込むような力強さで定義づけたものである。


 蓋し味わう価値がある。

 

 

Gentaro Kodama 2

Wikipediaより、児玉源太郎

 


日露の戦争は満洲の一戦によって了局すべきに非ず、第二の戦は果して何れの時に来るか、勝算未だ立たずんば自重して時を待つべく、仮令再戦して勝を得ざるも、猶前後の余地を留むべく、」

 


 のっけからして凄まじい。


 冒頭部分だけでもう、陸軍がロシアの復讐を――第二次日露戦争を、どれほど差し迫った危機として捉え、恐れていたかが窺える。


 原田指月だけではなかったのだ。


 あの陸軍尉官が大正二年、『遺恨十年 日露未来戦』で明かした通り、帝政ロシアは捲土重来の野心に燃えて極東軍の増強を年々着々進め続けた。時至らばまるで堰を切るように、満鮮一帯を兵馬の濁流で押し流すべく、集積に余念がなかったのである。


 実際問題、欧州情勢があのように――バルカンの火薬庫が天をも焦がす大爆発を来さなければ、代わりに極東の大地に於いていくさの火の手が上がっただろう。


 そうならずに済んだのは、日本にとって幸運だったか、不運だったか。


 際どいところだ、容易に判定つけかねる。

 

 

(亡命後のヴィルヘルム二世)

 


 児玉訓示の続きを追うと、

 


「要するに我が満洲に於て常に主を以て客を制し、佚を以て労を待つの地歩を占めざるべからず」

 


 以佚待労――孫子からの引用が見える。


 明治大帝も愛読なされた春秋時代兵法書


 ああ、やはり。やはり児玉も学んでいたか。


 そりゃあそうだ。鴨緑江渡河作戦が成功するなり、直ちにイギリス東インド会社の事績調査に奔走しだした、あれほどマメな人物が、紐解いてないわけがない。


 最古にして最高とも謳われる、あの戦争の手引書を――。

 


「その然るを得る所以の計は、
  第一 鉄道の経営
  第二 炭坑開発
  第三 移民
  第四 牧畜諸業の施設
 にして就中移民を以てその要務と為さざるべからず。今鉄道の経営に依り十年を出でざるに五十万の国民を満洲に移入することを得ば露国倔強なりと雖、慢に我と戦端を啓くことを得ず、和戦緩急の制令は居然として我手中に落ちん

 

 

Mantetsu Honsha

Wikipediaより、南満州鉄道本社)

 


 平和というのは――少なくとも「屈辱」の二文字を伴わない平和というのは――互いが互いの首筋に、ひたひたと白刃を添えている状態でこそ成立するのだ。


 とある海軍少将は、これを「抜かぬ太刀の功名」と呼んだ。「日本刀は容易に抜くべきものではない。抜くべき時は、それこそ最後の時だ。本来なら抜かず仕舞にせねばならぬ。使はずして使った以上の効果を現はさねばならぬ。之を日本では昔から『抜かぬ太刀の功名』といって居る。一国の軍備も全く之と同じだ」と。


 橋亭主人「軍備はむろん装飾である、但し美術的に於いてでなく、威力的に於いて装飾である」も発想の軸は同一だろう。


 多門二郎「軍人こそ平和論者の第一人者なるべし」とて、あるいは含めて良いやもしれず、――要するに当時の軍人に珍しからぬ思考であった。


 児玉の狙いも煎じ詰めればこの一点に尽きている。


 軍事力の均衡こそが平和を生むと、そう信じていたようだった。

 

 

 


 もちろん水面下では絶えず睨み合いが継続するが、なあに、どうせ人間世界など、最善の状態に置かれていてもあまり喜ばしいものではないのだ。人類皆兄弟、神話の代から兄弟間で殺し合いをやっている。どこの歴史も血塗れだ。人間をあまり買いかぶり、過度に理想化した場合、大抵地獄の門が開く。「殺したいけど、殺ればこっちも破滅する。だから実行に移せない」。このあたりで妥協して、満足するのが吉だろう。

 


「今若し第二満洲戦の軍備二十億を要すとせんに戦期緩締年間の我満洲経営費をして之が利息に準ぜしめば、平和維持の費も亦廉なりと言ふべし」

 


 もちろん上に掲げた四つの施策を実現するには、大蔵省の役人どもがこぞって発狂するような、途方もない予算を要すに違いない。


 が、第二次日露戦争が起きてしまった場合の出費は、それに幾層倍するか、見当もつかぬ域である。


 それを防げると思えば安いものだと、児玉はそのような論を用いる。


 そろばん勘定の心配までやってくれる軍人は、素敵に頼もしいものだ。


 しかし児玉は満鉄の誕生――明治三十九年十一月二十六日を待たずして、同年七月二十三日、脳溢血で急に現世を離れてしまった。


 彼がぶちあげた雄大な構想――満洲移民五十万」は十年どころか二十年経っても実現されず。昭和五年段階でさえ、あのあたりに住んでいた日本人の合計は二十万を超えるか超えないかに過ぎなかった。


 更に打ち割って覗いてみれば、その二十万人も過半数が満鉄社員とその家族、ないし官庁の吏員らで、残ったぶんも大地に根を下ろさない商工業者がほとんどを占め、肝心要の農業移民に至っては、総体のほんの三分でしかない、なんともお寒い有り様だった。

 

 

満洲移民村の主婦)

 


 満洲移民が五十万を超えるのは、昭和十年、満洲国をでっちあげて以後であり。


 満鉄設立からほぼ三十年目のことだった。

 

 

 

 

 


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続・大正科学男ども


 ――これからの時代、産業発展の鍵となるのは合理化だ。


 大河内正敏がその信念に到達したのは、明治の末期、私費で挑んだドイツ・オーストリア留学が寄与するところ大という。


 本人の口から語られている、


「工業用アルコールの値段ひとつ比較してもわかることだ」


 と。

 

 

Masatoshi Okochi

Wikipediaより、大河内正敏

 


 当時の日本で最も廉価にアルコールを醸造つくっていたのは台湾であり、これは彼の地が「砂糖の島」であったのと無関係では有り得ない。つまり製糖作業の副産物たる糖蜜を原料にとっているからであり、この糖蜜というもの、製糖業者にしてみれば碌すっぽ使い道のないくせに放っておくと腐敗して、悪臭を放ち胸をむかつかせるという「厄介者」に他ならず、引き取ってくれると言うならばタダでもくれてやりたい位の代物だったわけなのだ。


 そこからアルコールを醸造つくるのだから、


「つまり原料は無代価同然」


 と、大河内は大胆にも言い切っている。一ポンド十銭という日本最安のアルコールの実現は、そのような仕組みであるのだと。


 ところが、である。


 奇妙としかいいようがない。同時期のドイツはジャガイモという、人の口にも家畜の口にも用のある、極めて価値の高い資源でアルコールを醸造つくっているにも拘らず、その価格は一ポンドせいぜい六、七銭と、台湾製を遥かに下回る低空飛行であったのだ。

 

 

Blackstrapmolasses

Wikipediaより、廃糖蜜

 


 この奇妙の因って来たる所以はなにか。


 大河内本人の言葉を借りて説明しよう。

 


「ドイツでアルコール醸造が計画せらるゝと、まづその醸造工場で使用する大部分の馬鈴薯を耕作し得る地方の中央に工場が建てられる。同時に醸造の際生ずる粕を全部消費するに足るだけの養豚場が工場の周囲に建てられる、醸造の際生ずる芋の粕で豚を養ひ、又畑から出る馬鈴薯の葉でも茎でも、それぞれ皆豚の飼料に供せられて、一物の廃品になるものはない。そして養豚場は又馬鈴薯畑の肥料の一部を供給し、或る場合には醸造の際生ずる炭酸ガスまでも畑に導いて肥料とする。
 豚の肉は生のまゝで或ひは加工して市場に供給され、毛、革、骨、血その他すべてのものが工業の原料となる。ゆゑに当初の目的であったアルコール醸造は副産物の形となって、その生産費は著しく低下される。斯くの如くして有価の原料を使用しても無価の原料を使用するよりも廉価になるのである

 


 何事につけても無駄のない、「理路整然」を地でゆくような堅牢なるゲルマンメソッド。


 昭和に入れば「能率」の二字も日本社会に溶け込んで、多くのことの説明をずいぶん楽にしてくれるのだが。どっこい、あいにく、上の文章が物されたのは大正時代のことである。


 従って大河内正敏も、便利至極なこの二文字をどこにも挿入していない。


 が、訴えんとするところ、要旨は同じであったろう。

 

 

(ドイツの街角)

 


 大河内はまた、人造絹糸――レーヨンにも、かなり早くから目をつけていた。

 


「米国における人造絹糸の生産は、戦前の大正二年には僅に百十八万斤に過ぎなかったが、十年後の昨年には二十倍以上に激増して二千六百八十三万斤に達してゐる。しかも価格は大体において生糸の三分の一である」

 


 大正二年の・十年後を・昨年と書いている以上、同十三年の筆致であるのは明らかだ。


 この急成長を前にして、彼はにわかに不安になった。


(人造繊維が天然繊維を圧し拉ぐ日が、遠からずして来るのでないか)


 そう、人造藍の発明が、天然藍をほぼ窒息へと追いやったのと同様に――。


(そのとき日本は、いったいどうなる)


 どこを向いても、桑畑と水田ばかりが広がっているこの国は。


 想像するだに物狂おしいことだった。このまま生糸をのんべんだらりと基幹産業に据え続けようものならば、それこそ祖国はみずから望んで累卵の危うきに立つ破目になる。大河内は焦慮した。焦慮が彼の筆先に、ある種の鬼気を宿らせた。

 


「日本は、おくれ馳せながらも、速に人絹の科学的研究に熱中し、世界のそれよりも更に一歩進んだ人絹を日本において製造し、遂には世界の人絹工業の鍵を握る覚悟が必要である。それが徹底的に敵を圧倒し去る唯一のみちである。
 わが国の農村の死命に関し、経済界、貿易界の浮沈を左右する人造絹糸に対し、この覚悟、この決心がなくて何とする。
 日本の科学者は死力を尽して人造絹糸の研究に没頭し、国家は幾千万円の国帑を費やしても、その研究を助成せねばならぬ

 


 猛然と呼ぶに相応しい、圧倒的な熱量の放出されたあとだった。


 危機感は叡智の源である。大河内の先見の明は凄まじい。大正の御代の時点で既に彼のアタマの内部には、「技術立国日本」の理想が凝然と横たわっていたのであろう。

 

 

 

 

 


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墓標めぐり ― “Respice post te, mortalem te esse memento.” ―


 九歳の少年が絞首刑に処せられた。


 一八三三年、イギリスに於ける沙汰である。


 罪は窃盗。よその家の窓を割り、保管されていたペンキをった。


 被害総額、当時の価格でおよそ二ペンス。たった二ペンスの報いのために、前途にきっと待っていたろう何十年もの未来ごと、幼い身体を吊られたわけだ。


 深く考えるまでもなく、間尺に合わぬことである。

 

 

 

 

 ドイツのとある青年は、恋人と抱擁した所為で心臓が破れる憂き目に遭った。


 熱烈な恋の比喩たとえにあらず、純粋に物理的な現象である。


 なんでも彼女のコルセットに裁縫用のピンがささったままであり、僕の腕に飛び込んでおいでをやった際、運悪くその尖端が肋骨の合間をくぐり抜け、彼の心臓を瓜の如く貫いてしまったものらしい。


 むろん青年は死亡した。


 そういう因果が判明したのは、解剖して漸くのこと。


 現場で女はわけもわからず、半狂乱で泣き叫んだに違いない。


 よしんば事情を知ったところで、それが慰めになるのか、どうか。むしろ、却って、妙な具合いのトラウマを植え付けられそうである。今後一切、コルセットなど身に纏いたくないだろう。悪戯いたずらと呼ぶには、あんまりにも悪辣すぎる運命だった。

 

 

 

 

 男が男を葬った。


「あの野郎、俺の女と寝やがって」


 それが動機のすべてであった。


 ごくありふれた事件であろう。まあ、そうなるなとしか言いようがない。下劣畜生下衆下根・寝取り野郎の首をちょん斬り、心臓をえぐり出したくなるのは人として当然の衝動だ。べそ・・をかいて引っ込む方こそ異常であって、彼の供述に何ら不自然な点はない。


 むしろ死体の生産を一つで踏みとどまっただけ――女も殺して「重ねて四つ」にしなかっただけ――理性的とすら呼べる。


 ただ、問題は、場所だった。


 それとついでに国籍か。


 被害者はロビンソンなる英人であり。


 加害者はヘザリントンなる合衆国の海軍軍人。


 場所は横浜、押しも押されぬ日本国の表玄関。時あたかも明治二十五年であった。


 これらの要素が組み合わさって本来シンプルであるはずの事態を無用にややこしくさせ、結果本件は「ロビンソン銃殺事件」などという仰々しい名を冠せられ、遙か後世に至るまで語り継がれる破目になる。


 ――頼むから他所でやってくれ。


 というのが、この問題を処理せざるを得なかった、本邦当局者全員の密かな叫びであったろう。


 なお、中間はぜんぶ省いて結論だけ記しておくと、ヘザリントン氏は無罪放免の判決を得て、悠々娑婆へと復帰する。


 彼の妻とロビンソンとの密通が、裁判所にて明確に立証されたためだった。


 正当なる報復に、罰が下されるわけもなし。桜田親義を射殺したジーン・ロレッタの判例を、なぞるが如きであったろう。

 

 

 

 

「馬小屋の糞堆藁屑などの中は夏期は摂氏四十五度位になって居て初生児死体を之に埋めると二十四時間で皮膚が煮た様になり、之を取り出さうとするとバラバラになったといふ報告がある」――昭和十二年、浅田一著『最新法医学』よりの引用。


 さりげない調子で書かれているが、そもそもなんでそんな処に、そんなモノを埋めたのだ?


 死産したのか? 不義の子か? 背景を考えると堪らなくなる。


 実際問題、十九世紀のドイツでは、豚飼いの娘が産んだばかりの私生児を、豚に喰わせて隠滅せんと試みたという途轍もない例がある。


 ちょっと前の日本でも、赤ん坊をトイレで出産、窓から投げ捨て殺してしまった事件があった。


 理不尽の極みに違いない。「望まれぬ誕生」は、あまりに惨だ。

 

 

 

 

「プロシャの古い法律では半陰陽の生まれし時両親は之を男女の何れかにきめて養育し、十八歳後は自分で男女の何れかになってもよいが、其同胞の権利が其決定によって脅されるに於ては之を鑑定によって決定さすべく裁判所へ訴へることが出来、其鑑定の結果は半陰陽者や其両親の反対があっても頓着なしに決定的となるといふ風に規定されてゐたが一九〇〇年改正のドイツ民法以後には半陰陽の語がない」――これまた『最新法医学』より。


 一周まわって、先進的な規定でないか。


 性自認だのLGBTだの何のかんのでやかましい今日の時勢に、なかなか優れた「他山の石」となる筈だ。特にそう、「其同胞の権利が其決定によって脅されるに於ては」云々のくだりが、ことさらに。

 

 

 

 

 


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大正科学男ども


「なんでそんなことしたんだアンタ」と訊かれれば、「したかったから」という以外、どんな答えも返せない。


 つまりは好奇の狂熱である。


 研究者にとり、なにより大事な資質であろう。

 

 

フリーゲーム『ツキメテ』より)

 


 沢村真は納豆菌の発見者だ。練れば練るほどねちゃねちゃと、粘り気を増すあの糸を、顕微鏡にセットして、そこに蠢く桿状菌をレンズ越しに確かめた、いちばん最初の人類である。


「Bacillus natto Sawamura」命名したその菌を、沢村は次に大豆以外の多くの豆類・ないし豆を原料とする食製品に植えつけた。


 自分が見付けた微生物の可能性、潜在力をとことんまで試してみたくなったのだろう。


 が、結果はあまり捗々しからず。これは結構有望なんじゃなかろうか――と、内心密かに期待をかけたインゲン豆でも納豆菌は根付かずに。「繁殖も悪く、粘り気も生ぜず、つまり納豆にならなかった」とのことだ。


 納豆菌との相性は、やはり大豆が飛びぬけて良好としか思えない。


 それが証拠に、豆腐には楽々作用した。素敵滅法界に繁殖し、苗床をみるみる喰い荒らし、原型のないドロドロに溶けた物体に変化かえてしまう結果を見せた。


(なんと)


 この眺めには沢村も、改めて舌を巻く思いであった。こうまで激しくタンパク質を分解するか、さても強力な酵素かな、と――。

 

 

Mr. Makoto Sawamura, professor of the College of Agriculture at Imperial University of Tokyo

Wikipediaより、沢村真)

 


 一通りの実験を終え沢村は、

 


 ――納豆を分析して見ると多量のペプトン、アミノ酸が出来て居る、此のペプトンは細菌が大豆の蛋白質を分解して生じたものである。


 ――納豆菌の酵素は頗る強盛で、殊に豆の蛋白質に対して作用することが強い、されば本邦人の如く、豆類より多くの蛋白質の養分を採るものは、納豆を毎日食へば消化を助け、栄養を増す効が少くあるまいと思ふ。

 


 と、如何にも「納豆博士」の異名に恥じぬ提言をしてくれている。


 実際問題、沢村真の納豆知識はひとり生理学的分野に限らず、文化の面でも充実していて、

 


「昔は寺から檀家に贈る歳暮や年玉には大抵納豆を使った。蓋し昔の坊さんは一切肉食をせず、其代用として主に豆類から蛋白質を摂り、精力の消耗を補ったので、豆の料理が寺では大いに発達したのである。座禅豆の如きも其一つである。
 ――ところが今日では坊さんの方が余計肉を食って、俗人の方が却って精進物を食ふやうになったから、納豆の製造も俗人がやってゐる」

 


 折に触れてはこんな具合に、軽妙洒脱にやってのけたものだった。


 よほど好きだったのだろう。


 好きな相手のことは何でも知りたくなるというではないか。その対象は、なにも人間でなくていい。それが自由というものだ。たまらぬ自由の味だった。

 

 

 


 他にもいる。


 見返りを半ば度外視し、自分の好む対象をとことんまで突き詰める自由精神の所有者は、だ。


 沢村真と同時期に、北川文男というやつが居た。


 近江の産、東京帝国大学出身、医学の分野で学位持ち。世間的な知名度はおよそ天地の開きだが、情熱はまんざら引けを取らない。


 この北川は、色素に興味を持っていた。

 

 

(東大赤門)

 


 白なり黒なり黄色なり、人間の皮膚を色付けしているなにものかの正体を闡明したいと念願し、そのために東京中の理髪店を駆けずり回って――「毛髪も皮膚の一部分であって、同じく角質から成る。爪も皮膚の一部分で、矢張り角質から出来て居る。故に爪や毛髪に就て研究すれば、色素の本体が分かる訳である」――集めたりも集めたり、三貫分ものヒトの髪の毛を手に入れた。


 身近な単位に変換すると、11.25㎏に当たる。


 この膨大な繊維質を利用して、北川文男は真理の扉をこじ開けんと試みた。


 何を措いても、まずは洗浄からである。「石鹸や曹達ソーダでよく洗ひ、次に塩酸で洗ふ。塩酸で洗ふのは、総て毛には鉄分が附着して居るので、それを落す為である。それから今度はアルコールで洗って処置するのである。さうして処置された約三貫目ばかりの毛を、稀薄な曹達液で煮ると、毛は溶けて、一石位の、黒色の粘液になる。それを硝子綿で漉し、塵埃などの無くなった液を、一分間三千回転の遠心機にかけると、やがて十匁位の色素が取れる」……おっそろしく手間暇かけた工程だった。


 再び単位に言及すると、十匁は37.5gという。十匁筒といって、戦国時代の火縄銃の弾丸が丁度これぐらいの重量である。

 

 

10 monme Japanese matchlock and teppo bukuro

Wikipediaより、侍筒こと十匁筒)

 


 11.25㎏から37.5g――。


 比率にして、実に300対1だ。


 まさに精髄といっていい。


 この「精髄」を北川は、むろんさっそく顕微鏡にかけ、思いつく限りの角度より観察したものだった。


 それでなにごとが判明したか。


 実に面白いことがわかったという。

 

 

「斯くて取り出した毛の色素を、顕微鏡下に照らして見ると、其一粒々々が皆黄金色に見える。色素の分量の多くなるに随って、褐色ともなり、黒色ともなる。西洋人の頭髪が黄金色を帯ぶるのは、色素の分量が少いからであり、日本人の頭髪が漆の様に黒いのは、色素が多量に含まれて居るからである。而して色素其者の成分は何れも同じで、黒髪といひ、金髪といふも、そは唯色素の多少に因るのであって、何等此外に特別の原因があるのではない


「皮膚の変形なる毛髪の色が、さうして出来たものである以上は、毛髪と同じ質なる皮膚の色も自然説明される。即ち白色人種は、皮膚の色素の少量なるに因り色が白く、黒色人種は多量の色素を含有するから、色が黒いので、又皮下の血管や皮膚の角質の具合で、日本人のやうな黄色にもなるのである」


人種の差別は色のみには由らない。骨格其他に於ても異なる所があるが、単に色だけで言へば其色素は本来同じ質のものなので之に優劣高下の別ある筈がない

 

 

(岡本帰一 「サンパツ」)

 


 常識だ。


 現代人なら義務教育の過程に於いて必ず習う、ごくありきたりな知識であるに違いない。


 しかし大正の御代にあっては、寝耳に水といっていい、大新発見だったのだろう。でなくば北川の喜びようが説明できない。この大正男は無邪気にも、


 ――人類初の快挙だぞ。


 とまで言い切り、弓張月さながらに、めいっぱい胸を反らしているのだ。

 


従来西洋でも人間の毛髪の色素を純粋に取り出した学者は無かった。随って皮膚の色に就ても根本的には分らなかったのである。私の取り出した純粋な色素の成分は、炭素、酸素、水素、窒素、硫黄から成るもので、如何にしても溶けた状態にはなり得ぬ、即ち膠質性のものである」

 


 以上が彼の言い分だった。


 メラニン色素の研究史には疎いゆえ、北川の言を裏付けることは出来ないが。もし真実ほんとうなら日本人は一方ならぬ碩学をみすみす埋れさせている。


 キャタピラないしレーダーあたりの「前科」をみるに、大いに有り得そうなのが、蓋し頭痛の種だった。

 

 

 

 

 


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凍てついた山陽鉄道


 工事が停止とまった。


 明治二十年代半ば、それまで順調に推移していた山陽鉄道の建設は、しかしながら最後の最後、広島・馬関(下関)の百マイル余を繋ぐ段にて、にわかに凍結させられた。


 大詰めで「待った」が入ったのである。


 いつもいつも、

 

 ――ほんの少し。


 が問題となる。宛然リニア中央幹線の開通が、静岡工区の数キロにより暗礁に乗り上げているように――。

 

 

 


 もっとも因って来たる所以の方は、だいぶ色合いを異にする。リニアの場合、大井川水系への悪影響を危惧する地元住民が、もっぱら反対の旗手に対して、山陽鉄道に異を挟んだのは現地に住んだこともない、中央の軍事論者であった。


「海岸線は危ない」


 という。


「敵軍艦の砲撃を容易に浴びるではないか」


 よろしく天然の防壁を得る、山間にこそ通すべし。中国山地をうねうねと、縫うようなルートを描くのだ。それが彼らの主張であった。


「そんな箆棒な話があるか」


 会社はむろん目を吊り上げて反撥し、商利の観点に基いて海岸ルートに固執する。ことが国防に関するだけに、相手も容易に譲らない。斯くして事態は麻の如くに乱れて縺れ、いたずらに月日を空費した。

 

 

(広島大本営

 


「何をグダグダやっていやがる」


 悶着を見かねて、また存外な大物が解決のため動き出す。


「費用を見てみろ、まずは費用を。――海岸線なら六百万で事足りるのが、山間線じゃあ二千万より更に上、三倍強の出費だぜ」


 ぱちぱちと、手馴れた仕草でそろばん玉を弾いて突き付け、軍事論者の口を塞ぎにかかるのは、ご存知福澤諭吉先生。


 明治十六年の段階で、

 


 ――凡そ開闢以来発明工夫多しと雖ども、之を人事に適用して直に勢力を逞ふし、恰も其向ふ所に敵を見ずして人間社会最上の様を専らにしたるものは鉄道の外にこれあるを見ず。

 


 斯様な言を恣にしていた彼だ。


 この種の手合い――変な言葉だが文明主義者にしてみれば、山陽鉄道の直面している遅滞渋滞停滞ぶりほど教理に反することはなく、受けるところの歯痒さは、「許し難い」のレベルだったに違いない。


「それよりここは六百万で手を打って、だな。浮いたところの一千数百万円で軍艦の三、四隻でも調達したらどうなんだ。そっちの方が、国防上にもよほど効果は良だろう」


 敵戦艦の艦砲射撃が危惧される? そもそも敵を瀬戸内海に侵入させるな、なんのための海軍、なんのための艦隊だ。制海権の掌握こそが任務だろう――と。


 自己の経営する『時事新報』、明治二十七年四月十八日の紙面に於いて、縦横無尽にやってのけたものである。

 

 

 


「百歩譲って、山間線の必要性を認めたとして。その場合、既に敷設しちまった神戸・広島間はどうなる。海岸も海岸、磯部の小貝をつい拾いに行きたくなるほど開けきった展望の、防御力ゼロ区間だぜ。ひっぺがして一から策定し直せとでも言う気かよ」


 このあたり、福澤の言をそのまま引くと、

 


 ――好し、広島以西を山間に取ればとて、俗に所謂頭隠して尻隠さゞると同様、更に国防の甲斐ある可らず。

 


 つまりはこういうことになる。


 無慈悲なまでの正論だった。


 一言一句、何処を探せど異議や文句を差し込む隙間がまるでない。


 金閣寺の一枚天井みたいな抜け道のなさで徹底的に、「山」に拘る軍事論者を圧し潰しにかかっているのがよくわかる。


 それもそのはず、福澤諭吉にしてみれば、山陽鉄道の建設は広島と下関を繋いでハイお終いとなるような、そんなみみっちい・・・・・代物ではない。


 むしろそこからが本番である。


山陽鉄道と九州鉄道は、いずれ接続されねばならぬ」


 それこそ彼の趣意だった、門司海峡に橋を架け、地続きにすることこそが――。

 

 

Kanmon-3

Wikipediaより、関門橋

 


イヨイヨ山陽鉄道も馬関に達するの暁には、爰に九州鉄道を通ぜざる可らず。連絡を通ずるには門司海峡に大橋を架設せざる可らざる訳にして、此の工事たるや中々以て大事業なり。海峡の相距る僅かに五百間内外、呼べば応ふる計りなれども、如何なる大艦巨舶にても自由自在に橋下を往来せしめ、且つ将来造船の進歩等をも考察して、充分に高架せざる可からざるが故に、其の費用も尋常橋梁の比に非ずして、方今の為替相場等を斟酌すれば凡そ一千余万円を費やす可しと云ふ。

 


 この全容は、なんとしてでも原文のまま味わうべきであったろう。


 構想自体の雄大さ。


 且つ、それを地に着け、実現させんとする努力。


 二つの要素が組み合わさって、先覚者としての福澤を、同時代人の誰であろうと及ばない「別格」の領域に押し上げている。

 

 

(関門連絡船)

 


「仮りに今明治社会の大人物を、有形上無形上より、こなごなに打ち砕いて、其長短を一つ搗き交ぜて、団子を拵へて見たら、福澤先生の団子が、遙に他の団子より大きくなると云ふ結果だらうと思ひます」

 


 そう語ったのは尾崎咢堂、晩年に於ける回顧であった。


 よく的を射た人物評に違いない。

 

 

 

 

 


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