穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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日仏変態作家展 ―続・身を焼くフェチズム、細胞の罪―

 

 ボードレール吉良吉影を知ったなら、おそらく彼の名ゼリフ、

 


自分の「爪」がのびるのを止められる人間がいるのだろうか?
いない…
誰も「爪」をのびるのを止めることができないように…
持って生まれた「さが」というものは 誰も おさえる事が できない
……………
どうしようもない…
困ったものだ

 


 天与の好悪、性癖に関するこの哲学に、満腔の賛意を示したとみて相違ない。

 

 

Baudelaire crop

Wikipediaより、ボードレール

 


 というのも、シャルル=ピエール・ボードレール、この象徴派の先駆者たるフランス人も、その個性的な趣味嗜好を満たすため、世間の常軌をときに大きく逸したからだ。


 一例を挙げよう。


 ボードレールはどういうわけだかガラスの砕ける音というのが大好きで、それ聴きたさに植木鉢をむんずと掴み、適当な店の窓に向かって放り投げたことがある。むろん、一切の断りを入れないままに、だ。


 もっとも断りを入れようにも、「おたくの窓の割り心地がよさそうなので、ひとつ割らせちゃくれませんかね」などと頼んで首を縦に振ってくれる有徳者――いや、数寄者と呼ぶべきか?――が、滅多にいるとは思えぬが。

 

 

 


 下手をせずとも不審者か、さもなければ脅迫として警察を呼ばれる憂き目に遭おう。


 どうせ「権力の犬」に追われるならば、思う存分らち・・を明けてから追われた方がマシであると判断したか。


 そういえば近頃のカラスは太陽光パネルに石を落として割って遊ぶものと聞く。


 ボードレールにはカラスの性があったのか。

 

 

 


 また、ボードレールは目も眩むような美女に向かって、


「あなたが天井からぶら下がっているところを見たい」


 と、不可思議千万な口説き文句を並べ立てたこともある。


 これはなにも「輝くような美女」をして、そのまぶしさを一個の電球になぞらえたのではむろんなく、めいっぱい身体を伸ばしきったその格好こそ、ボードレールが愛してやまない肉体部分、脚の魅力を最大限度堪能できると思ったからに他ならず、つまりはリビドーの発露であった。


 谷崎潤一郎、――短編小説「富美子の足」でみずからのフェチズムを大爆発させたあの文豪のご同類と看做してしまって構うまい。

 

 

Junichiro Tanizaki 01

Wikipediaより、谷崎潤一郎

 


 まったく男というやつは、いつの時代も、どこの国でも。こいつらの墓前にライザリン・シュタウトのフィギアを添えてやりたい気分だ。

 

 

 

 

 


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奸商、姦商、干渉ざんまい


 西暦一六四一年、江戸時代初期、三代将軍家光の治下。寛永の大飢饉がいよいよ無惨酷烈の極みへと達しつつあったその時分。幕府の命で、三十人の首が斬られた。


 比喩ではない。


 そっくりそのまま、物理的な意味で、である。


 彼らに押された烙印は「奸商」ないし「姦吏」のいずれか。


 囲炉裏端の筵を刻み、煮込んで喰らう。そんな真似さえ百姓たちの間では常態化しているこの苦しみの只中で、なおも物資を不当に溜め込み値を吊り上げて、もって私腹を肥やさんとした。そういうかどで告発されて、処刑されたものだった。

 

 

江戸城、幕末に撮影)

 


 ――ざまをみよ。


 庶民はむろん狂喜した。さもありなん、「他者ひとの膏血を啜る鬼めら」が死んだのだ。これほどめでたいことがあろうか。


 そうでなくとも、金持ち連中の不幸ほど貧乏人の耳に快い話柄というのもないだろう。


 このあたり、江戸幕府はよく大衆の望みを理解していた。


 いつの時代、どこの国であろうとも、買い占め人は嫌われる。

 

 

長谷川哲也『ナポレオン ―獅子の時代―』より)

 


 現代日本社会でも、転売ヤーは蛇蝎視されるのが常であり、ことによっては殺人犯より同情のない、冷たい視線に晒されるのも屡々だ。


 普段嫌われ者の国税局も、唯一転売ヤーを追い込む場合に限っては拍手喝采で行動すべてを肯定される。


 徳川家とその官僚機構もこの連中の対処には随分手を焼かされたようであり、たとえば寛文六年――西暦一六六六年――の御触れなどはかなり大胆で面白い。


 米、大豆、大麦、酒、塩、薪炭、菜種、胡麻、油、魚油、そして鯨油に至るまで――。


 この年以降、江戸府内にてそういうものを買い溜めし、あるいは貯蔵するとかいう場合、幕府への届け出が必須ということになったのである。煎じ詰めれば、どこの蔵にどんな物資がどれだけしまい込まれているか、幕府が管理せんとした。


 この届け出を怠ったり、報告されていない物資が蔵から発見された場合は、本人はもとより借家・店借り・地借り・諸問屋・商人共々、皆ことごとく同罪である、心得よ。――時代名物、「連帯責任」の発露であった。

 

 

長谷川哲也『ナポレオン ―獅子の時代―』より)

 


 現実にどの程度まで機能したかは別として。この時代、既にこういうことをやろうとしていた事実そのものが興味深い。

 

 技術の進歩に後押しされて、やり方こそ変遷すれど。統治の原理は四百年前、否、ひょっとすると数千年のむかしから。――人が人を御さんとする要諦は、些かも変化かわってないのやもしれぬ。

 

 

 

 

 


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総力戦まであと三日 ―準備せよ、準備せよ、準備せよ―

 

 一九三九年九月一日、ドイツ、ポーランドに侵攻開始


「二十年の停戦」はここに破れた。第二次世界大戦の開幕である。フェルディナン・フォッシュが嘗て危惧したそのままに、世界は再び一心不乱の大戦争へどうしようもなく突入してゆく。

 

 

 


 ドイツの動きは早かった。なんといってもルビコンを渡るより以前、八月二十八日の段階で、もう食糧と一部生活必需品とが切符制度に移行している。前日、二十七日付けで公布された「生活必需品確保の暫定令」及び「農産物管理令」の効果であった。


 切り替えにあたってナチ党は、これをスムーズに運ばせるため、当時の食糧農業大臣リヒャルト・ダレをラジオ放送に当たらせて、国民一般に「政府の声」を響かせている。みごとな念の入りようだった。マイクの前で、ダレは次の如く語ったという。

 


食料品の切符による公正な配給を、既に生産が著しく減少し、癒すべからざる幾多の病弊が現れだしてから実施することが、根本的に過誤あやまりであるということは、我々ドイツ人の既に実験済みのところである。これこそ我らが我々の食糧豊富なる今の時期に、いち早く切符制の断行を決意したる根本理由に他ならぬ」

 

 

Bundesarchiv Bild 119-2179, Walter Richard Darré

Wikipediaより、リヒャルト・ダレ)

 


「実験済み」とは、むろん第一次世界大戦の惨憺たる経験を指しているに違いない。爪のない赤ン坊が誕生し、動物園の獣にまで手をつける、あの窮乏のドン底がよほど骨身にこたえたようだ。過去から学んだ成果というわけである。


 ばかりではない。


 闇市発生の防遏策も、やはりこの二十八日に施されたものだった。すなわちヒトラーユーゲント親衛隊SS突撃隊SA、その他手隙の党員をあらん限り動員し、小売店・卸商・製造業者――およそ商業関係者の保有する倉庫という倉庫を一斉捜索。


 統制品目の在庫量を調べ上げ、帳簿を作成、店主の署名を要求し、しかも今後「月別調査を行う」と宣言、そのときお前の手元の切符の数の合計と、倉庫の中身にもし不一致が認められたら、おい、どうなるか分かっているよなこの野郎、と睨みを利かせた。


 商人たちはふるえあがった。当然である。誰も彼らを臆病とは責められまい。

 

 

German Allgemeine SS black parade uniform (Sturmbannführer); Peaked visor skull cap; Odal rune; "reichsführung-SS" brassard cuffband; Himmler card; etc DSC00073

Wikipediaより、親衛隊の黒色制服)

 


 ――ざっとこんな塩梅で。


 下準備にも下準備を重ねた後に、ドイツは九月一日を迎えたわけだ。


食糧は総力戦に於ける一個の武器であり、大砲・飛行機・戦車等と同じく重要である


 この発言は、しかしヒトラーによるものでない。


 合衆国大統領、フランクリン・ルーズベルトの口唇から発射されたものである。一九四三年一月十二日の演説だった。


 演説は更にこう続く。

 


「我々の敵国も戦時に於ける食糧の使命を自覚し、戦力増強のため食糧の増産に努力しているが、アメリカの農村で生産された食糧は、世界各地の連合国を援助しつつあるのである。ゆえにアメリカ農民の任務は一層重大であり、その障害困難も一層大である。全国農民は今年中に於いて、一オンスでも多くの食糧を生産すべく努力して欲しい」

 

 

アメリカの農家)

 


 ヒトラールーズベルトを文字通り死ぬほど憎んだが。少なくとも総力戦局面下での食糧の価値判断に関しては、両者の意見は一致したに違いない。

 

 

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マッドな人たち ―八田三郎のコレクション―


 手術オペで切除した腫瘍の味を確かめるのを事とした、例の外科医先生といい。


 戦前日本の学者というのは、奇人というか、どうもマッドな香りが強い。


 植物園の住人ですら、四分五裂した人体のアルコール漬け標本を平気で持っていたりする。


 八田三郎のことである。

 

 

(北大植物園・博物館)

 


 北海道大学農学部附属植物園の管理者の任を、この動物学者が帯びていたころ。同地を当代の名ジャーナリスト、杉村楚人冠が取材しに来た。


 そのとき「珍しい品をお見せしよう」と持ち出したのが、前述のゲテモノだったというわけである。


 以下、杉村の記事をそのまま引くと、

 


 札幌神社に詣でゝ後植物園に八田博士を訪ふ、博士は珍しいものを見すべしとて、アルコールづけの大きな瓶を持ち出す。中にチョンまげがあり、サカヤキののびた頭の皮のカケラがあり、赤ン坊の手首や足がある。その手首には木綿の筒袖の端がついてある。見ても薄気味の悪いものばかり。
 博士の説明に依れば、明治十一二年の頃近所のさる家で赤ン坊の初誕生の祝宴があって、其の夜父と子と相抱いて寝てゐる処へ大熊がはひって来て、親の頭と赤ン坊を食ってしまった。それから二日経って屯田兵が打ち取った大熊の腹をさいて見たら、頭と赤ン坊の手足がそっくり出て来た。それが即ちこのアルコールづけだといふ。

 


 斯くの如き次第であるから、まあちょっとした三毛別羆事件の景色であった。

 

 

Brown bear (Ursus arctos arctos) smiling

Wikipediaより、ヒグマ)

 


 通信技術、記録方法の未発達により、世間に気付かれなかっただけで。こういう悲劇は古来より、ゴマンと繰り返されてきたのであろう。


 北海道の自然は容赦がない。


 なればこその試される大地か。

 

 

(吹雪の札幌)

 


 人々の神経が図太くなるのも、蓋し必然。去年の今ごろ、市街地ヒグマ騒動の折、忍者だの全裸男だの、おかしなの・・・・・がゾロゾロ出て来たことがあったが――いや、ちょっと待て、この納得の仕方というのはどうなんだ。


 思考がまずい方向に流れてる。


 このままだと何を言い出すかわからない。


 すこし短いが、ここいらあたりで切り上げさせていただこう。

 

 

 

 

 


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続・末期戦の一点景 ―大英帝国、備蓄なし―


 一九一四年八月四日、イギリス、ドイツに宣戦布告。


 それからおよそ二ヶ年を経た一九一六年十月時点で、小麦の値段は十三割増し、小麦粉の方も実に十割増しという、紳士たちが未だかつて経験したことのない、大暴騰が発生していた。

 

 

 


 産業革命以来、海外の低廉な農作物に頼るばかりで自国農業をひたすら等閑に附し続けてきた伝統のツケを、こんな形で支払わされたわけである。


 一九一七年二月二十三日、時の首相ロイド・ジョージが下院に於いて演説した内容は、そのあたりの消息を最も簡潔明瞭に取りまとめたものだった。

 


穀物条例廃止以来二十年間に四百万エーカーの土地と五百万エーカーの開墾地とが草地に変った。農業人口の半分は、海外かあるいは都会へ移住した。わが国の如く直接にせよ間接にせよ、農業に対して単に努力を払わないどころか、ほとんど顧みもしないといってよい文明国は他に絶無なのである。わが国で消費される重要穀物の70%から88%までが年々輸入されて来たのであった。そして今日我々の保有する食糧は実に僅少である、不安なほど僅少である、記録にないほど僅少である。このことを、国民諸君に知っていただきたいと思うのである。それ故に国家の安全のために、本年末及び来年の生産を増加せんがために、あらゆる努力を、しかも即時実行することが絶対に必要なのである」

 


 テニスコートやゴルフ場をぶっ潰してまで畑を作る、なりふり構わぬ増産への第一歩。末期戦の光景が、そろそろ顔を覗かせはじめたわけである。

 

 

ロイド・ジョージ

 


 白パンは市場から姿を消して、ライ麦、大麦、燕麦、米、玉蜀黍、豆等々――いわゆる従来「雑穀」扱いされ続けてきた品目を混ぜ、かさ増しをした「戦時パン」が代わりに抬頭しはじめた。


 ただでさえ不味い英国のめしが、輪をかけて不味くなったのである。


「俺たちにこんな真っ黒な、粗末なパンを喰わせておいて、金持ちどもは相も変わらず白いパンを喰っていやがる」と、お決まりの不平が労働者の間から出た。


 雑穀類の混用率は最初五分であったのが、日を追うごとに引き上げられて、最終的には二割五分まで到達していた。

 

 

Mischbrot-1

Wikipediaより、ライ麦パン)

 


 穀物由来の糊は生産を禁じられ、犬に与えるビスケットもまた同様の処置に見舞われる。


 ロンドンの料理店という料理店には、「パン節約」の標語を掲げたポスターが張り出される運びとなった。


 卸売業者の登録制、販売時間の制限制度、行列防止令たらいうある種時代の先取りめいたお達しまで――全く以って火の車を回しているも同然である。

 

 で、その結果どうなったか。

 


 一九一七年十一月十二日の船舶統制委員会に報告されたところによると、小麦の貯蔵は激減しつつあり、我々は手より口への生活を営んでいた。ロンドンにはあと僅かに二日の供給量しかない。従って、ロンドンは他の港より鉄道によって養われねばならない。ブリストルには、僅かに二週間分の供給量があるに過ぎない。小麦委員は北アメリカで二十万クォーターの小麦を購入したが、イギリスに運んでくる船舶がないのである。平時ならば積荷を陸揚げした後地中海を空船で帰る船舶があるのであるが。

 


 戦後物した回顧録にて、ロイド・ジョージは斯く述べた。

 

 

(山科礼蔵撮影、英国の戦時配給切符)

 


 総力戦時代の景色というのは、どこもかしこも似たり寄ったり、同じような地獄相を呈するものであるらしい。

 

 

 

 

 


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夢路紀行抄 ―液体生命―


 夢を見た。


 神の御業の夢である。


 最初はハンドクリームだった。


 真珠を融かしたかの如く鮮やかに白いその軟膏を一掬いして、きゅっとてのひらに握り込む。するとどうだ、中でどんどん体積を増し、ついには指の合間から、河となって流れ出したではないか。

 

 

 


 いつまでも尽きる気配がない。


 いい気分だった。


 まるでキリストではないか、マタイによる福音書第十四章、五つのパンと二匹の魚で五千人を満たした奇蹟――。


 今にして顧みれば的外れもいいところだが、夢の中では思考能力が一部麻痺する。床に広がる純白を、なんの自省もすることなしにただ恍惚として眺め続けているだけが、わが偽りなき姿であった。

 

 

Bible.malmesbury.arp

Wikipediaより、新約聖書

 


 そこから先、どういう経路をたどったものか――。


 エレベーターに乗ろうとしたら、「人の形に近い犬」とか、とんでもないラベルの貼られた茶色い瓶を渡されるという場面もあった。


 中身は何か、油っぽい液体で満たされている。


 その名の通り、人間に酷似した姿の犬を、妙ちくりんな技術によって一匹まるまる液状化したものらしい。

 

 

 


 どうも私は何かしらのワクチン接種に来ていたようだ。まずこの飲み薬を摂取して、肉体がどう反応するか確かめる。それも三十分ほど時間をかけてじっくりと。ご念の入ったその手続きを踏まない限り、「本命」は打ってもらえぬ決まりだ。一緒に乗り合わせた人が、懇切丁寧に教えてくれた。


 そいつは大した逡巡もせず一気にぐいっとやってたが、私は流石に心が乱れ、石像にでも化したが如く蓋を凝視しているうちに、目覚めの時刻と相成った。


 吉夢では確実にないのだが、悪夢と断じるのも違う。


 名状し難い後味が、その後しばらく尾を引いた。

 

 

 

 

 


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末期戦の一点景 ―餓鬼道に堕ちたヨーロッパ―


 戦争は次のステージに進んだ。


 畢竟、勝利の捷径ちかみちは、敵国民の心を折って戦意を阻喪せしむるに在り、その目標を達成するに「兵糧攻め」――慢性的な食糧不足を強いるのは、大規模な空襲と相並んで極めて有効な一法である。


 今日でこそありきたりな認識なれど。一九一九年の段階で、早くもこれに気が付きかけた山科礼蔵という人は、なるほど確かに慧眼だった。

 

 

長谷川哲也『ナポレオン ―獅子の時代―』より)

 


 彼は実業特使としての任を果たす傍らで、ドイツ、フランス、イギリスなどの欧州列強各国が大戦中に施した食糧政策を細かく調査。


 その結果、以下の如き知見を得た。


 まず、山科に言わせれば、「凡そ戦時に於ける食糧政策は、之れを四大別することが」可能とのこと。すなわち、

 


一、食糧増産に関する政策
二、食糧の国内取引及び価格に関する政策
三、食糧の輸出入に関する政策
四、食糧の消費節約に関する政策

 


 この四つに、だ。


 こう前置きしてからそれぞれの解説に及ぶわけだが。個人的に最も大きな興味を以って読めたのは、「一」の食糧増産につき述べ立てたる章だった。


 なんといっても大英帝国、あの格式を重んじること病的なまでの連中にしてから、戦争末期はテニスコートやゴルフ場――いわゆる「紳士の社交場」をぶっ潰してまで畑を作り、めしの確保に走ったという。

 

 

Centre Court roof

Wikipediaより、ウィンブルドン選手権

 


 仰天すべき実例が、次から次へと出てくるのである。


 目を皿にせずにはいられまい。


 とにかく人手が足りないことから、捕虜を農業に服さしめるのは何処の国でもした・・ようだ。常套手段といっていい。フランスではそれに加えて、召集された兵士中、農業の熟練者に関しては種蒔き休暇を与えたり、繁忙期にはなるたけ郷里に帰れるような仕組みを作ってやったとか。


 それでも穴を塞ぎきれない。


 であるが以上、残された道は一つであろう。「外国農業移民事務局を設け、ベルギー・スペイン・イタリアより出稼人を輸入し、アルジェリア及び仏領インドシナ等の植民地よりも労働者を移入して、農業労働に従事せしめ」たのである。


 こういうことをやらかすと戦後の混乱がひどいことになるのだが、とにかく「今」を凌がなければ戦後もなにもあったものではないと考えたのだろう。


 地雷で足を吹っ飛ばされた兵士に向かい、モルヒネは依存性があるから打つのはやめた方がいいぜ――なんて、そんな忠告、誰に出来るか。


 背に腹は代えられぬと云うやつだ。

 

 

アルジェリア、ビスクラ市のカフェ)

 


 ドイツはドイツで豚の大量屠殺を決行、目的は肉の確保というより、この四ツ脚どもが飼料とする穀物類を節約するにあったらしい。


 代用食も凄まじい数考案された。コーヒーだけでも五百十一種、ソーセージに至っては、八百三十七種ものレシピが存在したという。


 おそらく精査の行き届いてない、よくよく調べ上げたなら、ひとまとめにしても構わないのが相当以上に含まれていると推察するが。それにしたって驚異的な夥しさだ。


 このほかにも、

 


 ドイツに於ては、中央労働紹介所を設けて、農業労働に対する需給の円滑を図り、(中略)収穫を援助する者には鉄道の無賃乗車を許可した。更に学生をして農業労働を援助せしめ、俘虜を使役し、一九一六年十一月には戦時経済局を設置して、農業労働の補充・労役馬匹の配給並に機械及び作業用品の分配を司らしめたのである。(大正十二年『大改造期の世界 坤』166頁)

 


 対応に狂奔する当局者が目に浮かぶ。


 が、むなしかった。これほどの努力を払ったにも拘らず、大戦末期のドイツでは爪のない赤ン坊が誕生するなど、栄養失調の徴候が社会各所に散見された。

 

 

長谷川哲也『ナポレオン ―獅子の時代―』より)

 


 ベルリンでは配給切符の偽造事件が発覚し、地方は地方で農園に対する盗難被害が無視できない規模となり、憲兵どもが列車に乗り込み手荷物検査を強いるのがごく日常の風景として――まあ、要するに。行き着く果てまで行ってしまったわけである。


 動物園の獣どもを喰い尽くすのもむべなるかなだ。

 

 ちなみにアメリカ合衆国はひとたび宣戦を表明するや、


 ボルドーその他の根拠地に四ヶ月分、


 ツール附近の中間基地に一ヶ月半分、


 イス=シュル=ティーユ附近の前進基地に半ヶ月分、


 しめて六ヶ月分の食糧を出征軍のため先ず集積し、懸絶の国力を見せつけている。


 怪物としかいいようがない。

 

 

アメリカの小麦農家)

 


 そのむかし、第三代パーマストン子爵、ヘンリー・ジョン・テンプルは英国下院議会にて、


「英国は世界のいずれの国にも勝りて、その軍隊の健康と慰安とに注意する、従って一朝有事の際には、英陸軍は世界いずれの国にも勝りて、多大の軍兵を戦場に送り得る」


 と自信たっぷりに演説したが、欧州大戦経験後、この名誉は完全に、アメリカの手に帰していた。

 

 

 

 

 


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