穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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名誉の戦死を遂げた鳩 ―聖なる夜に想うこと―

 

 は一般に平和の象徴と認識されるが、果たして然りか。少年時代、彼らの共喰いを見て以来、この点ずっと疑問であった。


 ほんのたわむれにフライドチキンの欠片を毟って投げ与えてみたところ、あまりに良すぎる喰いつきに思わず寒気を覚えたものだ。いやまあ、フライドチキンは鶏肉だから、厳密な意味での共喰いにはあたらないのやも知れないが。とにかく強い印象を残したことは確かであった。

 

 

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 実際問題、鳩ほど戦争遂行に役に立った動物というのも珍しい。流石に馬には敵わずとても、犬には匹敵、あるいは凌駕するのでないか。


 むろん私は軍鳩ぐんきゅうを――軍事用に訓練された伝書鳩を言っている。


 通信技術が未発達な時代にあって、遠方との連絡をつけるにこのいきものは重宝された。彼らの飛翔能力と帰巣本能の二つとは、よく人間の期待に応えた。

 

 

Jap(anese) carrier pigeon troops LCCN2014715433

Wikipediaより、日本軍の軍鳩部隊)

 


 欧州大戦決着後、ベルギーでは勝利のための犠牲となった鳩三万羽を「名誉の戦死」と表彰し、その功績が末代まで伝わるように、首都ブリュッセルに記念碑を建て、荘重なる除幕式まで行った。


 似たような話はアメリカにもある。


 特に活躍した一羽を選んで「プレジデント・ウィルソン」の名を与え、やはり首府たるワシントンの一角に墓碑を建造、手厚く埋葬したという。


 イギリスもまた、これに酷似した方式を採択。すなわち犠牲になった無数の中から特に一匹を選び出し、剥製処理を施して、ガラスケースに格納した後「無名戦士の墓」へ運んた。

 

 

Tomb of the Unknown Warrior - Westminster Abbey - London, England - 9 Nov. 2010

Wikipediaより、無名戦士の墓)

 


 流石は紳士の国である。彼らの功に報いるに、なるほど最上の遣り口だろう。その魂は永遠に安らかな場所へ往ったと、全国民が信じたはずだ。


 ワイン片手にチキンをむさぼり喰いながら、そんなことに思いを馳せた令和三年クリスマス・イヴの夜だった。

 

 

 

 

 


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合衆国の黄金期 ―「生産、貯蓄、而して投資」―


 鉄道王の没落は、世界大戦の後に来た。


 一九一四年に端を発する大戦争。トーマス・アルバ・エジソンをして「この戦争で人類の歴史は一気に二百五十年跳んだ」と唸らせた通り、一千万の生命いのちを奪った未曾有の悲劇は、しかし同時に、地球文明そのものを未来に向けて猛烈な速度で射出する、一種カタパルト的な役目も担った。

 

 

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(人垣前列中央にフーヴァー、その左にエジソン、左端にフォード)

 


 北米大陸の交通事情も、その影響から逃れることは叶わなかった。


 もろに喰ったといっていい。それまでこの国で生きる一体誰が、鉄道王とその一族の光輝に翳りが差すなどと、そんな不遜な予測をしたか。


 居なかった。


 絶無であると断言していいほどに、彼らの勢威は圧倒的なものだった。


 例えばそう、東部の都市に本拠を構える鉄道会社の頂点が、ふと太平洋を見たくなり、大陸横断旅行へと漕ぎ出したと仮定しよう。


 使用するのはもちろん自社の特別列車だ。この場合、線路沿いのありとあらゆる州知事は、汽笛が聴こえる遥か前からプラットホームに待機して、その「臨幸」をうやうやしく迎える姿勢を取らねばならぬ。

 

 

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(大平原地帯に敷かれた鉄道)

 


 もしこの用意を怠けたり、あるいは歓迎に手落ちが見つかりでもすれば、彼らの政治生命はその瞬間に閉塞したことだろう。何故なら鉄道こそ街の興廃を握る存在、「米国の事業家が巨富を成したのは鉄道と提携するか鉄道を利用した結果で、一たび鉄道なる暴君の機嫌を損じて、貨車を思ふ様に廻して貰へなければ忽ち収穫は腐るか、腐らずとも市価が崩落して後にノロノロ運ばれる等で、ひとたまりも無く参らされて」しまうからだ。


「最もよく米国を理解した英国人」ことジェームズ・ブライス、法学者にして歴史学者にして政治家にして外交官でもあるという、まことに多才なこの人物は、不朽の名著アメリカン・コモンウェルスの中に於いて斯く述べた。

 

「是等の鉄道王は米国中の偉人中に列する人々である。否寧ろ国中の最大なる勢力者と謂ってもいかも知れん。彼等は赫々たる名声を有す。国民悉く彼等の業蹟を聞き、新聞は悉く彼等の動静を伝へる。彼等は勢力を有す。即ち其思ふ所を為すの機会を有する事、政界に在る誰よりも優れて居る。唯大統領と議長とだけには及ばぬけれども、是とても前者は四年、後者は二年の任期に過ぎざるに反し、鉄道王は或は生涯其地位に居るかも知れない」と。

 

 以ってその勢威を窺うに足るだろう。

 

 

1st Viscount Bryce 1902b

Wikipediaより、ジェームズ・ブライス

 


 大日本帝国の尺度では、とてものこと測れない。当時のアメリカ合衆国で「鉄道」が意味するところとは、動脈であり神経であり、文字通りの生命線に他ならなかった。


 なればこそソレを司るごく一握りの者達は、この人民主権の国にあってさえ王侯然たる待遇を満喫できていたわけだ。


 が、しかし、潮目の変わるときは来る。


 これは四の五の理屈を言うより、数字を見てもらうのが手っ取り早い。一九一三年、わずか百二十五万台に過ぎなかった全米自動車登録数は、欧州大戦を間に挟むや一挙に拡大、一九二〇年時点でもう、九百二十三万台を超えてしまった。


 膨張率はその後も一切衰えず、


 一九二三年で一千五百万、


 一九二五年で一千九百九十三万、


 そして一九二六年、ついに二千万を突破して、


 一九二九年の二千六百五十万台へと至る。

 

 

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(稼働中の自動車工場)

 


 登録手数料だけで三億二千二百万ドル、更にガソリン税として三億五百万ドルが毎年の如く国の懐に納まった。


 しかも政府はそのカネの、ほとんど全部を道路築造にぶち込んだから堪らない。


 まさに国土の改造である。世界の何処を探しても比較対象すら見当たらぬ、恐ろしく発達し整備された自動車網がたちどころに出現あらわれた。


 結果として、住宅地および農耕地は鉄道への依存から脱却せずにはいられない。大袈裟でもなんでもなく、歴史が変わった。同時代、日本のとある著述家が合衆国を俯瞰して、


「世界大戦前の米国は、蒸気応用と鉄道運輸による地理的辺彊開発の時代に属してゐた。大戦後の米国は電力利用と自動車輸送力による経済的辺彊開拓の時代に進み入ったのである」


 と結論付けたらしいが、至言であろう。


 何につけても景気のいい眺めであった。

 

 

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(ニューヨークの交差点)

 

 

 さもあろう、


 七百八十五億ドルの国民所得に支えられ、


 戦前九億ドルに過ぎなかった国民貯蓄は二百二十億ドルへと激増し、

 

 ラジオは年に二百万セットを売り上げて、


 劇場も空前の大盛況、一日当たりの入場者数は、ときに総計二千五百万を超え、


 男子大学生の半分は、在学中のアルバイトで学資の全部を賄えるという疑う余地なき黄金期の只中である。


生産せよ、貯蓄せよ、而して投資せよproduce,save,and investの経済指針は絶対の金科玉条として社会の隅々まで響き渡った――それこそ靴磨きの小僧の耳の奥にさえ。

 

 

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(ニューヨーク。航空機の窓から撮影)

 


 米国は「永遠の絶頂」に到達したと、誰もが無邪気に信奉していた。クーリッジ大統領その人でさえ、

 


「我が国は今や歴史上嘗てなき広汎な繁栄と恒久的平和を享受しつつある。古今に絶するこの福祉の因って来る主要源泉は、米国国民の節操と品格にある。この特質に即して行い来った我が政策が継続される限り、現下の繁栄は常に米国のものであろう」

 


 との言説を敢えてしている。


 やがて来る暗黒の木曜日を思うとき、この光景は悲愴とも滑稽ともつけがたい、ただひたすらに圧倒的な威力を伴う「何か」として胸を圧す。

 

 

 

 

 

 

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若気の至り ―八ヶ岳の麓から―


 古書を紐解く至福のさなか、頁と頁の合間とに不意に見出す前所有者の忘れ物

 

 思いがけない出逢いにはもう随分と慣れた心算でいたけれど、これは流石に驚いた。


 昭和六年、福永恭助著『挑むアメリカ』

 

 

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 神保町で買いもとめたこの本に、故郷山梨ゆかりの品が紛れ込んであったとは。

 

 井上円了『日本周遊奇談』以来のことではなかろうか。あちらは山梨県立日川中学校学友會蔵書之章」の朱印であった。今回見つけた代物はもうちょっと長い。お目にかけよう、清里村から本郷区へと送られた、一葉の郵便はがきである。

 

 

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東京市本郷区龍岡町三三
紅葉荘
橘林洋司様
     清里にて
      HIROMI

 


 と読めばいいのか?


 消印と切手から判断するに、送られたのは昭和十三年十一月の頭ごろ。


 大東亜戦争突入まで残すところほぼ三年、私の祖父の青春時代。


 自分の名前を態々ローマ字で書いているのが奇妙といえば奇妙だが、裏の文面を一読すれば、おおよそ理由は察せよう。

 

 

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 驚いたぞ此間は、寝る前に何の気なしに新聞を開けたらあの恐しの散文詩が現はれたんだからな、だが実によく出来てますよあの文句は、くやしいがよく表現されてますな、駅の・はでもよく覚えてゐて呉れたものだ、今八ヶ嶽山麓清里村から半里程の清泉寮と云ふ立教のカレッヂハウスパーティーへ来て居る、いつもは宗教団体のみなんだが今のは学生は誰でもと云ふので来て見た、外人五人(二人はもう帰ったが)と後、十五六人程、高い処ってものは実にいゝもんだね、(何しろ高い処は箱根しかしらないんだからね)君の故郷たる甲府を通ったぜ
 今これから帰るところだが こゝで書かないのはしゃくだから大急ぎで靴が帰って来たぜ、チェッかな、ぢゃあ又、 さよなら

 


 清里のことはよく知っている。子供の頃から父に連れられ何度か遊びに行ったから。

 

 

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 夏でも涼しいあの高原で、開拓の苦労を忍びつつ、頬張るアイスの快さ。市販を遥かに上回るその濃厚な味わいは、今なお記憶に鮮やかだ。


 その清里清泉寮で開催されたパーティー中に書かれたものであるらしい。


 パーティーならば、当然が伴おう。


 酔っ払ってハイになった産物ならば、なるほど時々支離滅裂な文面も、自分の名前をローマ字で書く風狂も、納得のいくことである。

 

 

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(「八ヶ岳高原線」こと小海線の通過)

 


「立教のカレッヂハウスパーティーか。光景がおのずと目蓋に浮かぶ。今も昔も、学生気質に大差なし。他人の若気の至りそのもの、大事に保管させてもらおう。

 

 

 

 

 

 

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カネは最良の潤滑油 ―「賄賂天国」支那の一端―


 北京の街を、日本人の二人組が過ぎてゆく。


 西へ向かって。


 うち一人の名は有賀長雄


 日清・日露の両戦役に法律顧問の立場で以って貢献した人物だ。ウィーン大学留学時、ローレンツ・フォン・シュタイン教授に師事し磨いた彼の智能は本物であり、旅順要塞陥落時には通訳として間に立つなど偉勲があった。

 

 

Aruga Nagao

Wikipediaより、有賀長雄)

 

 

 明治四十二年にはノーベル平和賞の候補者として名が挙がったこともある。


 その経歴と手腕を見込まれ、大正二年、大隈重信の仲介により、今度は袁世凱の法律顧問におさまった。


 以来、中華民国を名実ともに第一流の国として世界に認めさせるため、骨を折り続ける毎日である。そんな有賀博士のもとを、あるときふと、本土の旧友が訪ねたわけだ。


「よく来てくれた」


 博士の喜びはただことではなく、文字通り肩を抱いて迎えたという。思い出話や近況報告に花を咲かせているうちに、ごく自然ななりゆきで、


「おい、頤和園を見に行こう」


 という具合いに話が決まった。


 左様、頤和園


 北京西郊に築かれた、皇帝のための庭園だ。


 園内には山あり城あり湖水あり、その規模といい華美といい、真に人をして唖然たらしめるものがある。

 

 

Longevity Hill

Wikipediaより、頤和園の目玉・昆明湖と万寿山)

 


 清朝末には西太后離宮として彼女の独占に帰したものだが、国が革められて以後、有料ではあるものの一般にも開放されて、天下の耳目をいよいよ集めた。


 はるばる北京まで来た以上、頤和園を見て帰らねば嘘である。


 そういう意識が、この日本人どもの脳裏にも色濃く宿っていたのであろう。だからこうして赴いた。


 ところがである。


 いざ入園した両名は、しかし眺めに見惚れる暇もなく、困惑に次ぐ困惑を味わわされる破目になる。


 通れないのだ。


 敷地内の至る所にある扉。そこを警護する――少なくとも名目の上では――門番が、なんのかんのと理由をつけて彼らの通行を許さない。


 持って回った言葉遣いに、時折混ざる微妙な視線。思わせぶりな仕草の数々、意味するところは明白だ。


 賄賂をよこせと言っている。


 正規に払った入場料とはまた別に、この俺様にもいくらか包んで寄越しやがれ厚顔無恥にも求めているのだ。

 

 

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昆明湖に浮かぶ石舫)

 


 有賀博士が袁世凱の顧問たる、自分の名刺を出してみせても効果ゼロ。蛙の面に小便、馬の耳に念仏よろしくてんで応えた形跡がない。


 万事休すで、予想以上の重量が財布から出てゆく運びとなった。


「こんなばかな話があるか」


 既にこの地に在ること長い、有賀長雄はまだ大人しい。


 支那人気質というものが、果たして如何なる味わいか。身を以って幾度も思い知らされているがゆえ、まだ諦めもつけられる。


 しかし片方、旧友は違う。


 支那に対してまるで免疫の無かった彼は、いかにも日本人らしい廉潔ぶりをもろ・・に発揮し、さても生真面目に憤慨し、折角の景勝もなんの感動も齎さず、どころか逆に見れば見るほど胸がむかつきだすという悪循環に陥った。


 一日経ってもその焔が鎮まらず、激した挙句、たまたま顔を見知っていたジャーナリストの元へゆく。


 東京・大阪朝日新聞が当地に駐在させていた、ある特派員のところへ、だ。


 そしてすべてをぶちまけた。


 自分がどれほど不快な体験を強いられたのか、洗いざらい何もかも。


支那は是だから亡国の外ないんだ」


 と。


 それにいちいち頷いてやった特派員とは、もちろん例の神田正雄その人である。


 神田は後にこの情景を『謎の隣邦』に具している――大陸社会に賄賂の弊が如何に根深く巣食っているか、その例証の一として。

 


 支那は上、王侯から下は門番に至るまで相当の賄賂がないと動かない。清朝の末路西太后の全盛時代に於て、地方の大官が拝謁に赴くには、宮中の湖水三海を舟で渡らねばならない。若しその舟漕ぎに大枚四十両の贈金をしないと舟は故障の為めに拝謁時間に間に合はず、大失態を演ずると云ふをはじめ、清朝宮廷一として賄賂なくては物が運ばなかった。その贈り物をする方法は、親王家出入りの骨董商と牒し合せて、その店から骨董を求めて贈る。商人は早速親王家から現金で買取るといふ仕組みである。だからこの場合贋骨董も手形の代用を為す訳で、支那に贋骨董の必要のあるわけも自ら諒解が出来る。世は民国になって種々な方面に改革も行はれるが、此の賄賂は依然として衰へた様子はない。(202頁)

 

 

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紫禁城の中庭)

 


 マネーロンダリングに美術品が利用つかわれるのは常識だ。


 鉄板といっていいだろう。


 流石に支那は年季が入っているだけあって、ちゃんと基本を弁えている。

 


 支那で官庁相手の商売は、役人に対して贈り物をしなければ、如何に品物がよくて値段が安くても、買上げにならないことが出来てくる。単にそれ許りか、御得意先の門番や下男にまで毎年何回かの心附けをしないと、商売は上ったりである。大体商人は売上の五分位は「門銭」として門番に遣らなければならない風習がある。(203頁)

 


 礼教の国の実態は、斯くばかりに凄まじい。

 

 

 

 

 


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民国元年、北京掠奪 ―袁世凱の怪物性―


 一九一二年二月二十九日、北京にて。――


 支那大陸の伝統行事が始まった。


 この地に置かれた軍隊のうち、およそ一個旅団相当の兵士がいきなり統制から外れ、暴徒に変身――あるいは本性に立ち返り――、市内の富豪や大商を手当たり次第に襲ったのである。


 掠奪劇の開幕だった。

 

 

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(北京西郊、万寿山の景)

 


 蛮声と共に門扉を破り、邸内に侵入した兵士らは、落花狼藉、女子供を追いかけまわし、亭主を二三度ぶちのめし、鼻の骨ごと反抗の気を折ってから金庫の鍵を開けさせて、もう一度ぶちのめすか殺すかすれば、あとはいよいよお楽しみである。


 ありったけの金銀宝飾、財貨の類をかっぱらって次に行く。


 兵士が去って、しかしそれで終わりではない。


 嵐が吹きすさびでもしたかのような邸内に、今度は近所の貧乏人らがやって来る


 それも壮丁ばかりではなく、十に満たない幼子から七十過ぎの老婆まで、文字通り総ぐるみの態を為して、だ。


 彼らは兵士が散らかすばかりで奪わなかった什器や衣服、その他小物の類など、言ってしまえば「おこぼれ」へと殺到し、目につくものは何でも御座れと次々懐へ押し込んでゆく。


 まるで地に落ちた菓子に群がる蟻のよう。「良心の麻痺と云はうか、先天的の掠奪性と云ふやうなものがありとでも云はうか、浅ましさ、うとましさの限りである」と、神田正雄は当時を回顧し身をふるわせた。

 

 

Kanda Masao

Wikipediaより、神田正雄)

 


 東京・大阪朝日新聞が北京に配置しておいた、特派員のひとりである。


 明治十二年生まれというから、このとき年齢三十三歳。


 働き盛りといっていい。世間に揉まれ、辛酸をなめ、青臭さもだいぶ抜け、体力的にもまだそれなりに無茶が利く。海外勤務にうってつけの頃だった。


 この不祥事は神田以下、多くの外国人ジャーナリストの目の当たりにしたところであった。


 彼らが一様に不審がった現実は、肝心要の当局が、いつまで経っても騒動の鎮圧に乗り出さないことである。

 


 当時、北京には、袁配下の軍隊二万余が駐箚し、巡警総庁もまた約一万の巡警隊を有して、治安維持に当ってゐたのであるが、僅かその内の一旅団の兵の掠奪をなすまゝに放任して、商賈は焼かれ良民は殺されて、悲惨その極に達したけれども、鎮定に一指をすら染めやうとしなかったのである。(昭和三年『謎の隣邦』72頁)

 

 

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(新学堂の面々と、最前列右から三番目に神田正雄)

 


 これではいったい何のため、日々米塩を支給して訓練を積ませたのやらわからない。


 急場に臨むや脳も身体も硬直し、一歩も動けず突っ立つだけが関の山なら、案山子の方がまだ幾分か使い道と可愛気とを有していよう。


 およそ軍人にして怯懦なるほど正視に堪えない、薄みっともないものはない。それは最早、ある種の裏切りですらある。よその国のことながら、神田は義憤に歯をきしらせずにいられなかった。


 が、後日になって。


 一連の騒動の裏面が判明してくるや、かつて抱いた憤懣は、いっぺんに冷たい恐怖となって彼の背筋を寒からしめた。

 


此の兵変は袁世凱が臨時大総統に選挙せられ、その就任式を南京に於て挙行するの約を取消すに術がないのに閉口して、列国使臣の駐箚首都にわざと暴動を起させて、その結果、北京に就任の式場を変更せしめようといふ、陰謀に基づくものであったことが判ったのである。この計画はまんまと当ったわけであるが、支那政治家の大胆さ、無責任さは、国民の利害休戚なぞ全く眼中になく、ただ自分の立場一点張りで行くのであると思ひながら、これにはさすがに胆を潰した。(同上)

 

 

 そんなばかな話があるかと、日本人なら誰もが叫ぶに違いない。


 一九一二年は民国元年。新たな国のひらけゆくハレの日中のハレの日に、いったい何を仕出かしている。


 テスト厭さに校舎の爆破を計画するのと変らない駄々。中学生ならいざ知らず、仮にも国家の代表がそんなものを捏ねるなぞ、冗談にしても悪質だ。越えてはいけないラインどころかほとんど人間を逸脱している。


 だが、ああ、しかし、なにせ相手は袁世凱だ。

 

 

Yuan shikai

Wikipediaより、袁世凱

 


 清朝健在なりし日は、叛乱を鎮圧する名目で朝廷からカネを引き出し、しかもその資金を横流しして革命勢力を養うという離れ業さえ披露した、人類史上稀にみる政治的怪物のやることだ。


 ならば有り得る。


 中華民国の暁を民の紅血で彩るぐらい、この男なら鼻唄まじりにやってのけるに違いない。


 尾崎行雄の感情に、今更ながら得心がいく。つまりは彼が蛇蝎の如く強烈に、袁世凱を憎んだ理由わけが――。

 

 

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紫禁城太和殿の景)

 


 北京掠奪の一件は驚くべき速さで以って大陸全土に伝わった。


 防衛すべき戦力が如何に無能だったか知るや、人々は新政権の足下を露骨に見透かすようになる。火薬庫が誘爆する如く、模倣者が引きも切らずに出現あらわれた。「天津と保定にも、北京に劣らない掠奪が行はれて、その落零おこぼれは各地の貧民無産階級が享受した」とのことである。

 


 軍隊を有って居て他人の侵入を自らの力で防ぎ得る者でない限りは、支那に於て財産の安固を期しようなどは、以っての外の願ひであると謂はなくてはならぬ。支那に於ては帝王でない限り、富の集積、栄華の極致を遂げることは絶対に不可能であることが、これで十分に得心が行ったことゝ思ふ。(74頁)

 


 神田正雄の観察は、これ以上なくあざやかに、真理を衝いてのけている。

 

 

 

 

 

 

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夢路紀行抄 ―地下に轟く稲光―


 夢を見た。


 雷の鳴る夢である。


 私は階段を下りていた。


 幅は狭い。おちおち両手を広げることも叶わない。


 手すりもなく、バリアフリーなど思いもよらぬ旧態然とした造り。照明は薄く緑がかって、左右の壁にビッシリ描かれた落書きを、文字とも模様ともつかぬそれらを、いよいよ不気味に浮き上がらせる。


「雑然」とは、ああした場所を示すべく存在する言葉であろう。

 

 

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 下りきったところ、突き当りにラーメン屋がある。


 そこが目的地であった。


 ところがいざ暖簾が見えるやどうだろう。


 禿げた額をタオルで覆った店長が、その本来の居城たる厨房から脱け出して、腕組み門前に突っ立っている。


 一応腕時計を確認したが、間違いない、営業時間であるはずだ。


 とすれば、なにか問題でも起きたのか。


 眉間の皴と真一文字に引き結ばれた口元が、事態の如何に苦々しいかを物語る。


 訊いてみれば、案の定だ。


 床板が天井まで跳ね上がったと思いきや、大ムカデの大群がそこからうじゃうじゃ湧き出して、またたく間に店内を占領しきってしまったという。


 忌々しさに心臓が茹だりそうだった。


 ええい不届きな害虫め、大人しく岩の下にて蠢いて居ればいいものを、何を血迷って人間様の建造物を横領しよるか、斯くなる上は族滅ぞ、一匹残らず討ち平らげてくれようず――と。


 耳から煙を噴かぬのがむしろ不思議であるほどに、勇みに勇んで取り出したるは、豈図らんや竜狩りの剣槍


ダークソウル3終盤の強敵・「無名の王」の撃破によって作成可能な武器である。

 

 

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『エルデンリング』のプレイ動画はまったく目に毒だった。


 見ればこうなると分かっていながら好奇心を抑えかね、ついつい視聴した結果。アレが手元に届くまで、まだ三ヶ月弱も待たねばならぬ現実にのたうち回る毎日だ。

 

 灼けつくような歯痒さの中、


 ――だから言わんこっちゃない。


 と、幾度自分を嘲笑ったか。


 この苦しみを緩和する一策として、近頃フロムの過去作をリプレイしている。


 おそらくはその習慣が、夢に反映されたのだろう。太陽の雷をたっぷり纏わせ、縦横無尽に剣槍をふるい、ムカデを退治る快感は、到底言葉に為し得ない。

 

 

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 ここまで書いて、マルキ・ド・サドのとある言葉がふいに脳裏をかすめていった。

 

「幸福は人間の信じている原理のエネルギーによるもので、たえずふらふら迷っているような奴には無縁のものだろうよ」。――『続・悪徳の栄えに記載されたこの一節が。


 考えてみれば、これほどまでに待ち焦がれる対象を、この歳になっても持てるというのは、それ自体が既にひとつの幸福であるのやもしれぬ。

 

 

 

 

 

 

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女子高生と砂袋 ―越後高田の教育方針―


 新潟県立高田高等女学校実景ありようは、私が従来「女子校」という言葉に対して抱懐していたイメージが、如何にステレオタイプに凝り固まった的外れな代物か、痛快に思い知らせてくれた。

 

 前回同様、この地にも、岡本一平の足跡がある。

 

 

Ippei Okamoto

Wikipediaより、岡本一平

 


 ネタを求めて西に東に、ときには列島を飛び出して、世界一周旅行にさえも――岡本はアクティブな男であった。


 かてて加えて、丈余の雪が降り積もる厳冬期を態々狙い、北陸へと赴くあたり、粋と言おうか、通と呼ぼうか。


 一歩なにかが間違えば、線路も真白く覆われて、鉄道不通に、「陸の孤島」と化したその地で先の見えない隔離生活を余儀なくされる危険性とてあっただろうに。

 


 高田市街金谷薬師はスキー場として名高い所、山陰に墓地がある。墓は全く埋れて其処に臥す人々は雪を厚く且温かき衾として永遠の眠について居る。一人は鍬を一人は線香と花を携へた老夫婦らしきが首だけ出した五輪塔の傍を切りに詮索して居る、「嫁の墓は確かにこけら辺だニー」「違ふだよ、わすはヘヤもすらす東の方だと思ったニー」(『一平全集 第九巻』53頁)

 


 が、リスクを冒した甲斐あって、価値あるものもたん・・と見た。雪国情緒を存分に呼吸したようだ。


 冒頭に掲げた高田高等女学校の内側も、そのひとつに含まれる。

 

 

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(冬の高田市、現在の上越市南部)

 


 ここの室内運動上の一角には、果たしてどういうマジナイか、砂袋にがっちり縄がけしたものが、いくつも置かれていたという。


 持ってみると、頗る重い。


 ちゃんと重心を落としてから臨まねば、腰でもいわせそうである。


 案内役の校長先生、得々として語るには、ひとつあたり十貫六百目に調整してあるのだと。


 我々にとって馴染み深い単位に直すと、実に39.75㎏だ。


「なんのために、このようなものを?」


 至極当然の質問に、返って来たのは以下の通りの内容だった。

 


 校長さんの説によると女はかたづいでから手桶を提げたり可成り力業が要る。その用意だ相な。女が働くといふ越後の国の女子教育としてこの用意甚妙。「これでも女にしちゃあ一寸重荷でしょうがよ」と校長さん軽蔑らしく手を掛けたが、男の校長さんにしても重荷だったので一同どっと吹出す。女学生諸君に命ずると「わたス駄目だわよ」「わたス駄目よ」と謙遜し乍ら然も軽々と提げて往き、戻る。(305頁)

 

 

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 よく考えるまでもなく、新潟は米の主産地だ。


 米俵は一俵あたり60㎏にも達するという。


 そりゃあこの程度の砂袋、運べぬようでは良妻にはなれぬであろう。現地の事情にひたひたと添う、みごとな教育方針である。


 運動場にはそれ以外にも、登り棒の設備もあった。


 もっとも素材は鉄でなくして竹であったが、用途自体は変わらない。「校長さんの前説により推論すれば多分嫁づいてから柿の収穫などに木登りが必要ゆゑその準備知識が必要なのか」と、岡本はひとり頷いている。

 

 

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(越後米の収穫)

 


 授業の合間の休み時間には大挙校庭へ走り出て、スキーを楽しむ姿も見られた。


 校庭には先輩方が二年がかりで造営した築山があって、そこが格好のスロープを為していたそうな。

 


 スキーをつけた女学生諸君、家鴨のやうな足取りで築山の頂上へと辿り付き(中略)キャッキャ云ひ乍ら滑走し終る。中には筋斗もんどり切って雪中へ埋没するのもある。然し積雪七尺にも及んで然も綿の如く柔か、キャッキャ云ひ乍ら又起き上って来る。この国の女の雪に親しき事真に予想外である。(307頁)

 


 北越の花は強健だった。

 

 

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(スキー場の女学生たち)

 


 高田高等女学校は、その後数次の改称及び変革を経て、高田北城高等学校となり今へと続く。


 昭和五十年以降、男女共学制を採択したが、現在でもなお比率の上では女子が優位を占めるとか。


 教育目標を眺めるに、「強健な身体を育てる」の一条が。


 伝統の息吹を、勢い感得したくなる。

 

 

 

 

 


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