穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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彼岸の友よ ―老雄綺想―


 大町桂月は酒を愛した。


 酒こそ士魂を練り上げる唯一無二の霊薬であり、日本男児の必需品と確信して譲らなかった。


 何処へ行くにも、彼は酒を携帯していた。その持ち運び方が一風変わって、通人らしくまた粋で、竹のステッキの節をくり抜き、スペースを確保、たっぷり酒を詰め込んで、旅行はおろかちょっとした散歩にもこれを伴い、欲するままに呑んだというからたまらない。ぞくぞくするほどいなせ・・・な姿であったろう。

 

 

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平福百穂『桂月先生』)

 


 礼儀とは、ようするに、人に快感を与ふること也。少しも不快の感を与へざること也。然るに人を見ると、すぐに己の不幸を訴へ、いつもしかめっ面を為して、にこともせず。人の気をしてめいらしむ。金こそ乞はざれ、要するに人の同情を強要する一種の乞食也。

 


 寸鉄人を刺す如き、鋭利極まる彼の言葉は悉皆酒で錬成された鉄腸より絞り出されたものだった。


「水ばかり飲んで葡萄酒の味も知らない奴に、いい詩がつくれるわけがない」と放言したのは、確か古代ギリシアの、クラティヌスたらいう詩人だったか。時空を超えて邂逅したなら、さだめし桂月と気が合いそうだ。彼はまったく、当代有数の酒徒だった。

 

 

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 東京帝大国文科の同窓で、畏友として相許した文人登張竹風も、壇上桂月を語るにあたって、やはり酒を絡ませている。

 


 文科大学に入ってから後の学友で、今は亡き人の数に入ってゐる人々に樗牛があり桂月があり柳村があります、田岡嶺雲があります、佐々醒雪があります、白川鯉洋があります、内海月杖があります、坂口昂があります、少し遅れて久保天随があります、深田康算があります。これらの人々は何れも稀な天分を以て生まれたもので、友人といふのは甚だ勿体ないやうな気持がします。その一人を説いても三十分や一時間では言ひ盡せないほど豪かった人達ばかりです。

 


 この講演を収録している『遊戯三昧』は昭和十一年の産。


 登張竹風は明治六年の生まれだから、せいぜい六十二・三の歳に過ぎない。


 にも拘らず、これほど多くの同窓生が既に亡いとはなんたることか。当時の健康事情が窺い知れて、寒心せずにはいられない。結核が未だ死神の有能な尖兵として猛威を振るっていた時代、人は本当にさくりさくりと死んだのだなと――。

 


 今仮に僕が飄然とあの世へ行ったとします、そしてこれらの諸君と会ったとします、定めて喧々囂々当るべからざる光景を呈するであらうと思はれます。樗牛はあの鋭い目をぎらりと光らせて、「君は僕の二倍も生きながら、何をして来たんだ」と真っ向ふにやっつけて来ませう。桂月は「君は碁が強くなったさうだね、さあ四目か五目か」と咄々焉として遣り出すに極まってゐる。それから屹度「一杯」と来ますね。(中略)かう想像するだけでも愉快です、早く逝ってみたいやうな気持がしますが、また、も少し生きてゐたいやうな気持もするのです。

 

 

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(登張竹風)

 


 彼岸の先の知己朋友に想いを馳せて、


 いざみずからが三途の川を渡った際に彼らがどんな面構えで迎えてくれるか予測して、


 静かに微笑わらう老雄という、この構図がなんともいえず私は好きだ。


 場所は日の当たる縁側で、猫の欠伸が隣にあれば更に良い。


 庭には松があるだろう。素直に天を目指したりせず、いびつに捻じれているだろう。


 埒もない想像ではあるが。想い描けば郷愁にも似た寂びた情緒が肺腑を満たし、物狂おしくもなってくる。

 

 

Tobari Chikufu

Wikipediaより、1951年の登張竹風)

 


 登張竹風はこれより更に十九年、昭和三十年まで生きた。


 享年、八十一歳。土産話をたっぷり背負って此岸を離れたことだろう。ああ、この想像も悪くない。

 

 

 

 

 


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総督府の農学博士 ―加藤茂苞、朝鮮を観る―


 米の山形、山形の米。果てなく拡がる稲田の美こそ庄内平野の真骨頂。

 

 

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 古来より米で栄えたこの土地は、また米作りに画期的な進歩をもたらす人材をも育んだ。


 加藤茂苞しげもとがいい例だ。


 大正十年、日本最初の人工交配による品種、「陸羽132号」を創り出し、やがて「コシヒカリ」や「ササニシキ」へと派生してゆく壮大な系譜を拓いた人物。


 紛れもない東北農業の大功労者、わが国品種改良の父。そういう男が庄内藩士の長男として生まれたことは、あんまりにも順当過ぎて天の作為を感じたくなる。


 まあ、それはいい。


 今回重要となる情報は、この加藤茂苞農学博士の経歴中に朝鮮総督府の五文字が見出せることだ。


 昭和三年から同九年にかけて。農事試験場技師として、彼の半島に渡ったとある。

 

 

Kato Shigetomo

Wikipediaより、加藤茂苞)

 


 ふとしたことから当時の著述を発見し、興味深く読ませてもらった。


 東北農業改良の父の両眼に朝鮮農業、殊に稲作はどう映ったか?


「褒めるところがまったくない」の一語に尽きる。

 


 従来朝鮮の農家は、一般に施肥観念に乏しく、麦作には少量の肥料を施すが、堆肥などこれを有効に使用せず、人糞尿も多くは糞灰として、その効力を著しく失はしめ、稲作に対しては一部分の地方を除けば、殆ど無肥料状態にあった。(昭和五年『日本地理風俗体系 朝鮮(上)』274頁)

 

 水稲は夏季降雨の多少により豊凶に大差がある故、内地に比し年と場所とによりその豊凶の差が特に著しい。しかし最近三箇年または五箇年平均による時は一千五百万石を平均年作とすべく、これを内地の六千万石に比すれば約四分の一に過ぎぬ。また平均段当り収入は内地の約半分で、一石内外とする。これは朝鮮水稲の大部分が天水稲と称し、全く水利の便を欠き、降雨のみによって水稲を栽培するものが全水田面積の約四分の三を占めてゐるため、頻りに旱害を被り、稲作不安定であると共に、(中略)殆ど無肥料状態であるによる。(278頁)

 

 

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(朝鮮の農家)

 


 施肥もせず、灌漑もなく、給水は完全に天候まかせ、運まかせ。


 これはもう、苗に対する虐待だ。


 さながらムスタファ・ケマル台頭以前のトルコの如し。

 

 彼の国に於ける農業も「農作物の生育する土地に種子を蒔き一年中五、十月に降る降雨によって収穫を待つのみで、雑草を刈ることもなく灌漑工事を施すには余りに資力がなく採算がとれない。自然を征服するための方法は一切講じてなく、また及びもつかないことだから、雨量の少ない年は一溜りもなく不作に泣き、牛を売り羊を手放して生活する外はない」という、目も当てられないみすぼらしさであったのは、こちらの記事で既に一通り書かせてもらった。


 その原因が苛斂誅求を強いるばかりでまったく人民を導かなかったスルタンどもにあることも。


 奇しくも――と、言っていいのか、どうか。この構図は、そっくりそのまま朝鮮にも当て嵌まる。


 両班もまた、明けても暮れても何の生産性もない、不毛そのものな党争ばかりに齷齪し、現実の民を導く能を毛ほども持っていなかった。


 永きに亘って蓄積された膨大なツケ。その清算に、


 トルコに於いてはムスタファ・ケマルが、


 朝鮮に於いては総督府の日本人が、


 それぞれ取り組んだといっていい。

 

 

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朝鮮半島、田舎の景色)

 


「当事者」の言葉を再び引こう。

 


 従来朝鮮の水稲品種は雑駁な在来種のみであったのを、始政以来勧業模範場において選出育成した優良の内地品種に更新して奨励すると共に、乾燥、調整の指導と相まって、爾来産米は著しく収量を増加すると共に、その品質を向上するに至った。(278~280頁)

 


 ちょうど専門分野とも被る。


 加藤茂苞の主な仕事は、このあたりにあったのではなかろうか。


 実際問題、朝鮮に於ける在来種から優良品種――日本稲への入れ替えは極めて速やかに遂行された。大正四年の段階では全体の二割程度であったのが、昭和五年に入るともう七割を突破している。


 さても勤勉な働きだった。


 あともう一つ、総督府の巨大な悩みのタネとして、火田について触れておきたい。


火田」――すなわち焼畑農業によって生計を立てる人々である。

 

 

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火田民の住居)

 


 農法自体は珍しくない。


 かつてはこの日本でも、そこかしこでぽつぽつあったことである。


 北海道の開拓移民に至っては明治維新後も暫くの間やっていた。苛酷な冬が来る前に、圧倒的な自然力を急ぎ駆逐し、生活空間を確保するため、やむを得ない措置だった。


 だがしかし、朝鮮のそれは次元が違う。規模が違う。

 

 加藤茂苞の赴任当時、昭和の御代に至っても、未だ百二十万人もの人間がこの原始的な農法で暮らしを立てていたというから、仰天するほかないではないか。

 


 朝鮮殊に北朝鮮地方における農業状態において見逃すことを得ず、また朝鮮の農業に特有なものは火田民の存在である。火田民は北朝鮮一帯高峻な山岳の重畳起伏連亙せる一大地域に蟠居し、永年に亙る農林政の不振に乗じて生み出された帰結に他ならぬ。即ちかれ等の多数は随意に国有林に侵入してその樹木を焼き払ひ一時的の住家を建て、自由勝手に己が欲するままに開墾し、既墾者はその父子兄弟を呼びよせて次第に独占地域を広め行くのである。
 かくて焼き払った土地は全く無肥料で耕作し、土壌肥料分がつきれば、家族と共にまた新しい地域を探し求めて移動し、この方法を次から次へと繰りかへし、漂白から漂白への旅を続けるのを普通とする。(277頁)

 

 

Bald mountains in Korea

Wikipediaより、火田民らによって荒廃した朝鮮の禿山)

 


 半島を禿山ばかりの景色にしたのはこの連中の働きに与るところ大である。


 おかげで地盤は大いに緩み、洪水が頻発、財も命も何もかもを泥の下に埋めるという、惨憺たる様相が繰り返し繰り返し上映された。

 


 ――満洲は宜く放棄すべきものなり、満洲のみならず、朝鮮も亦宜く放棄すべきものなり、露国の更に来て満洲を取る可なり、更に来て朝鮮を取る更に可なり、英国はノルマンデーとブリタニーとを捨てて始めて海上に雄飛したり、露国にして鎮海湾に拠る、日本は始めて海国として自覚すべし。

 

 

 朝鮮について知れば知るほど、茅原華山のこの絶叫が説得力を増してくる。

 

 

 

 

 


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入浴以外の温泉利用 ―薩摩の場合、奥飛騨の場合―


 入浴ばかりが温泉の利用法でない。


 鹿児島県の指宿温泉あたりでは、大正時代の後半ごろから昭和中期に至るまで、これを製塩に活用していた。

 

 四角ばった呼び方をすれば泉熱利用製塩法


 発案者は黒川英二工学士。


 80℃を超す高熱の湯を鉄管に引き、その鉄管を海水槽の中に巡らし、漸次あたため、蒸発させて塩を製する。言葉にすれば単純な仕組み。指宿温泉の特徴――豊富な湯量と場所によっては100℃に届く湧出温度はこの仕組みの実現に十分な条件を整えていた。


 幸運にも、草創期の写真が残されている。


 昭和四年、未だ同業者のない時代。もっともらしい科学知識をタテマエにした詐欺事件はこのころ既にありふれている。これはいったいどちらであるか、本当に採算が合うのか否か、期待と疑念を綯い交ぜにして世間が見詰めた、黒川英二の塩田の景――。

 

 

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 一見して、すぐさま草津温泉の「湯畑」連想おもった。


 しかしここに満ちているのは湯ではない。


 海水だ。


 湯は鉄管の中を走って人目に触れぬ。勘違いするなと、私は私を誡めた。

 


 場所を移して、おつぎは本州ど真ん中、飛騨高山の奥深く。

 


 上高地にもほど近い平湯温泉一帯ではその昔、温泉水の農業利用が行われていたと聞く。

 

 

Hirayu onsen04s3200

Wikipediaより、平湯温泉街)

 


 当地の標高は実に1200m以上、山深さとも相俟って、夏であろうと涼風の吹く過ごしやすい場所である。


 避暑地とするには最適だろうが、およそ農事を営む場合、この涼しさが曲者だった。


 水温が稲の生育にどれほど強く影響するかは、本職の農家ならずとも、『天稲のサクナヒメ』に触れた方ならたちまち了解されるであろう。


 更なる裏付けを望むなら、あるいはこんな報告もある。

 


 山葵田は、その水が低温で、しかも冬夏の温度の差の少ない、極めて清澄なのを必要とする。清澄なことは米田に適するけれども、温度においては寧ろ米作には障碍となるので、山葵田から流れ落ちる水は直ぐに米田には使われない、若しこの水を使用する場合は、一度貯水池で水温を高めるのが普通であるから、山葵田で直ちに米作は出来ず、又米田で直ちに山葵は出来ない。(昭和九年発行、内田寛一著『経済地域に関する諸問題の研究』20頁)

 

 

 月山などではまさにこの――貯水池により水温を高める方法で、いっとき山頂近くに於いてすら水稲耕作を営んだという。

 

 流石米の庄内平野、稲作にかける執念は並々ならぬものがある。

 

 

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 が、奥飛騨平湯の住民は、あらゆる意味でそうでない。


 彼らはまず早々に、この環境での米作りを諦めた。


 諦めて、もっと寒冷に耐性のある穀物を育てることにした。


 稗を常食に充てたのである。


 ところが平湯の谷川ときたら、想像を超えて低温だった。


 そのまま田に流そうものなら、なんと稗でさえ不作を来す。温度調節は必須であった。


 この命題に、人々は至って直接的な解を見出す。そう、冷た過ぎるなら温かいのと混ぜればよろしい。ちょうど近所に適当なのが、尽きることなく湧き出し続けているではないか――。

 

 

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(平湯峠の開墾地)

 


 どのようにして湯を引いたのか、具体的な設備についてはわからない。


『経済地域に関する諸問題の研究』も、「平湯では、温泉の湯を稗田に灌いで、低い気温を補ってゐる」と短く触れるのみである。「何故そうしたか」は明瞭なれど、「どうやってやったか」が不鮮明。この点、ひどくもどかしい。


 ただ、このようにして栽培された稗たるや、さだめし滋味に富んだろうと思うのだ。


 私は山梨に生まれた。


 有名無名とりまぜて、温泉の多い地域の中に実家はあって。地元民の有利を活かし、存分に浸かったものである。


 浸かるのみならず、平生これを飲みもした。


 ポリタンク持参で温泉スタンドに赴いて――この施設の説明をしようと思ったが、やめた。あんまりにも名前そのままであるからだ――、たっぷり湯を汲み、帰ってからペットボトルに移し替え、冷蔵庫にぶち込んで、よく冷やしてからあおる・・・のだ。


 クセは強いが、一度慣れると病みつきになる。

 

 

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(『Ghost of Tsushima』より)

 


 そんじょそこらのミネラルウォーターなどではない。単価が遙かに安いから、気兼ねは無用、どばどば使えるのもありがたかった。ああ、あれで調理つくったインスタントラーメンの味わいたるや、幾歳経ても忘れられない。舌が踊るようだった。本当に同じ食い物なのかと真面目に考え込むほどに、水道水とは別物になる。


 同じ効果が、稗にも齎されはしないだろうか?


 湯に育まれた身としては、どうしても温泉水の神秘的な効果とやらを信じたくなる。所詮私も、迷信から脱しきれない俗人だ。

 

 

 

 

 

 

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夢路紀行抄 ―亜大陸―


 夢の中では往々にして感覚器官が鈍磨する。


 特に舌はその影響が顕著であろう。


 今朝方とても、酒瓶ほどの太さを有するソーセージに齧りついていたのだが、何の味もしなかった。

 

 

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 そこはインドの料理屋で、いや日本にあるインド人が経営する店でなく、本当にあの逆三角の亜大陸の上に立つ、どのチェーンにも属さない、個人経営のこじんまりしためし屋であった。


 古い馴染みの友人二人と観光旅行の道すがら、たまたまこれを発見し、そろそろめし時、小腹も空いた、おあつらえ向きではないかねと、暖簾をくぐることにしたのだ。


 その結果、私は濡れた厚紙を延々咀嚼するかの如き拷問を味わわされている。


 そう、 されて・・・いる・・のだ。強制である。一度註文した以上、食べ残しは許されない。完食せずに席を立つのはこの店の重大なルール違反で、みだりに犯そうものならば、たちまちのうちに奥の店主が包丁振り上げ襲いかかって来るからだ。

 

 

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 抵抗という発想はなかった。


 店主の戦闘力が高いというのはシレンにせよトルネコにせよ不思議のダンジョン界隈では常識だし、よしんば返り討ちに成功しても、どうせ次にやって来るのは怒り狂った地元住民によるリンチであろう。


 抜け道はない。


 正攻法が唯一の生還手段と見るべきだった。


 友人たちはとうに食事を終えている。


 彼らの手元の、何も載せない白い皿に追い立てられるようにして、私はどうにかこの難局を乗り切った。


 青色吐息でよろばうように店を出る。すると連れの片方が、


「見ろ」


 巖頭に立つ預言者さながらの威厳で以って、すっと彼方を指差した。


「あれがカラコルム山脈だ」


 弾かれるように頭を上げると、なるほど確かに、白雪戴く峨々たる峰が延々連なり、地平線を埋め尽くしている。


 7000m超の高山を60以上も抱え込む、荘厳なる「世界の屋根」。南極、そして北極に次ぐ、「第三の極地」をこの眼で拝んでいるかと思うと、背骨に甘美な痺れが起きた。

 

 

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 だが、しかし、それにしても――何故ヒマラヤではなく、カラコルムを選択したのか。


 日ごろ目にする文字列は、前者の方が圧倒的に多いというのに。


 目覚めてからも、そのことばかりが不審であった。


 毎度々々のことながら、私は私の無意識に、首をかしげずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

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ポルトガルの独裁者 ―外交官のサラザール評―


 1910年、ポルトガル革命が勃発。


「最後の国王」マヌエル2世をイギリスへと叩き出し、270年間続いたブラガンサ王朝を終焉せしめ、これに代るに共和制を以ってした。


 ポルトガル共和国の幕開けである。

 

 

Estremoz13

Wikipediaより、革命の寓意画)

 


 この国が「ヨーロッパのメキシコ」と渾名されるに至るまで、そう長くはかからなかった。


「彼等の首は三ヶ月ごとに挿げ替わる」と英国人が言ったのは、必ずしも皮肉のみとは限らない。


 実際問題、ポルトガルでは1910年から1926年――たかだか16年かそこらの間に、内閣の更迭されること、実に48回の多きに及び。


 大統領中、四年の任期を全うし得た者たるや、アントニオ・ジョゼ・デ・アルメイダただ一人という情けなさを露呈していた。


 常軌を逸した目まぐるしさといっていい。


 これで何か、脈絡のある政策が行われたらそれこそ奇蹟だ。ポルトガルの運行は酔っ払ったチンパンジーにハンドルを任せたバスさながらに、盛大に道を踏み外してゆく破目となる。

 

 

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(ブドウを収穫するポルトガル人)

 


 欧州大戦に首を突っ込んだ代償として財政は極度に逼迫し、


 一億エクスードに達しない正貨準備にも拘らず、紙幣発行高は二十億エクスードの多額に上り、


 兌換券とは名前のみに堕ち果てて、


 貨幣価値は下落に下落、戦前1ポンド=6エクスードであった相場は1924年7月時点で1ポンド=160エクスードを刻み込み、


 必然として物価は騰貴、国民は塗炭の苦しみを味わわされた。


 それでもなお政府が有効な対策を施せなければ、次に来るものは一つであろう。


 赤色革命の好機至れりと、マルクス教の宗徒どもが勢いづくのだ。


 生活苦の土壌の上に、アカの菌糸はよく伸びる。その不気味な生育を、間近で捉えた者がいる。


 彼の名前は小峰俊一。在ポルトガル日本公使館に勤務する――早い話が笠間杲雄の同僚である。

 

 昭和六年に彼が物した葡萄牙共和国の鳥瞰』を参照すると、

 

 

…欧州戦後澎湃として世界に瀰漫した社会主義及び共産主義運動は恰もよし、民衆の生活困難と合して葡国に大恐怖時代を出現せしめ、労働争議、罷業続発し、暗殺強盗等も絶ゆる所なく、警察力のみを以ては治安の維持困難となり、有産階級者は資本を国外に移して自己の安全を計るに汲々たる有様であったため事業界の不振も言語に絶した。

 


 わかりやすく、末期の様相を呈していたのが窺える。

 

 

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(収穫したブドウの運搬)

 


 1926年、果たして革命の火の手は上がった。


 ただし実行したのはアカどもではない。小峰や笠間が言うところの「気骨ある軍人」達が主体となって、逸早く事に踏み切ったのだ。


 国民の熱烈な支持のもと、このクーデターは成就した。小峰はその淵源を、政党政治の積年の弊害に苦しんだポルトガル国民はイタリーに於けるムッソリーニファシスト独裁政治の成功と、隣国スペインに於けるプリモ・デ・リベラ将軍の軍人独裁政治の功績に刺戟せられ、ポルトガルにも独裁政治の出現を望むの風潮は可なり濃厚だった」ゆえであると、当時にあって分析している。


 概ねその通りであったろう。


 アカを防遏する方便としてファシズムを採る。ムッソリーニの筆法を勤勉になぞることにより、爆誕した独裁政権。その運営は、やがて孤独を愛する経済学者、アントニオ・オリヴィエラサラザールを迎え入れ、イニシアチブを委ねたことでいよいよ盤石の重きに至る。


 彼と、彼の手により生まれ変わったポルトガルの新たな姿を、笠間杲雄は非常に高く評価した。

 


 門や塀などに砲弾や、銃弾のあとが、在りし日の修羅場の名残を止めてゐるが、市民は穏やかに其の日を楽しんでゐる。これは大学教授から総理大臣に成り下・・・がった・・・リヴィエラサラザールの鉄腕で、政党を徹底的に解消し、菲政をあらため、国策の基礎を確立して、庶政一新国家更生に見事な成功を克ち得たお蔭である。
 さまざまの名物がなくなった。
 其筆頭の革命騒ぎが先づ止んだ。官吏の宴会が無くなった。財政の赤字は三十年振に黒字に替った。乞食の影も消えて行った。(『東西雑記帳』134~135頁)

 

 

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(アントニオ・オリヴィエラサラザール

 


 べた褒めである。


 この毒舌家が、そうそうあることでない。


 更に笠間は引き続き、

 


共産主義は太古以来しばしば実行された。しかもいろいろな形、いろいろな方法、いろいろなイデオロギーの衣を被せて実行されたが、いづれも失敗に終った。根底に無理がある。私は学者の立場から、古くて試験済のマルクシズムには断然反対する」


「私は他人が自分と違ったイデオロギーを持つのを認める。併し街頭を煽動して、卑怯にも直接行動を採らしむることは断じて認めることが出来ぬ」

 


 といったサラザール自身の言葉を引いて、その人格さえ称揚している。

 

 独裁者と呼ばれる人々が持つ、一種魔的なまでの魅力。御多分に洩れずサラザールにも、その傾向があったのだろうか。


 そういえば杉村楚人冠、筆に毒を含ませること笠間以上なあの人物も、サラザールに関しては、割と好意的だった。

 


 ポルトガルの首相サラザール博士は十年国政に尽瘁した廉によって、つひこの頃国民議会から表彰された。
 博士は元コインブラ大学の経済学教授であったのを時の政府から財政長官に招請され、しぶしぶその任には就いたものゝ、在職僅か五日にして、又元の大学へ還った人である。併しこの五日間に博士の才幹と人格とが認められて、二年後再び蔵相の職に就かせられ、次いで首相を兼ねることになった。それから十年経ったのである。
 彼は表立つことが嫌ひ、長演説が嫌ひ、喝采が嫌ひで、曾て一度も制服といふものを着たことがない。首都リスボンで催された彼の表彰式にも、彼は遂に出席しなかったといふから、甚だ愉快である。(『十三年集・温故抄』230~231頁)

 

 

Antonio Salazar-1

Wikipediaより、1940年のサラザール

 


 ファシズム国家ポルトガルが、曲がりなりにも1974年までその命脈を保ち得たのは、ただ弾圧が巧かったからではないのだと、自ずと察せられるであろう。

 

 

 

 

 


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英霊への報恩を ―日露戦争四方山話―


 胆は練れているはずだった。


 間宮英宗は臨済宗の僧である。禅という、かつてこの国の武士の気骨を養う上で大功のあった道を踏み、三十路の半ばを過ぎた今ではもはや重心も定まりきって、浮世のどんな颶風に遭おうと決して折れも歪みもせずに直ぐさま平衡を取り戻す、そういう柳の如き精神性を獲得したと密かに自負するところがあった。


 その自負が、試されるべきときが来た。――明治三十七年、鉄の暴風吹き荒れる、屍山血河を歩むという形で以って。


 日露戦争に従軍したのだ。

 

 

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(東鶏冠山敵堡塁爆破の様子。明治三十七年十一月二十六日撮影)

 


 神職と異なり、仏教徒には徴兵上の優遇措置など存在しない。国家が必要としたならば、否応なく銃を手に取り戎衣を纏って戦地へ征くが義務である。


 それも尋常一様の戦場ではない。間宮英宗が叩き込まれたのは第三軍、よりにもよって悪夢の、烈火の、旅順要塞の攻め手であった。

 


…見ますと云ふと、胴体の半分無いのがあれば、片腕片足の取れたのもある頭が千切れて皮だけで引っ付いて居るのもあれば、靴の中に足の肉が一杯詰まって棄てられたのもある。それを焼くと云ふと丸で腐れ魚の黒焦のやうなもので誰の息子か何処の若旦那か分ったものじゃない。恐らく地獄の絵にもこんな惨酷な絵はありますまい。(昭和二年発行『人生八面観』940頁)

 


 現代戦の洗礼は、言語を絶して酷烈だった。

 

 さしもの不動心をしてさえも、底の底まで戦慄せずにはいられぬほどに。


 が、腥風満ちる鉄血界のさ中にあって、それでもなお死者の霊を慰むるため、

 

 

萬骨の
荼毘の煙や
胡地の月

 


 涼やか至極な、こういう詩を詠めたのは、やはり禅の賜物だったか。

 

 都合七ヶ月に及ぶ時日と、五万九千名もの死傷者。


 気の遠くなる犠牲を代価に、明治三十八年一月一日、旅順要塞は漸く陥落ちた。


 その間、攻撃を指揮する乃木希典に対しては、本国の自称軍事通からその無能を叱責し、辞職と切腹を勧告する意味の手紙が来る日も来る日もひっきりなしに舞い込んで、その紙屑の山たるや、総計二千四百通にも上ったという。

 

 

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(池田牛歩「旅順要塞陥落」)

 


 旅順の地に散華した数多の英霊――。


 その中には、当時に於ける鐘紡総裁・武藤山治の弟の名も含まれていた。


 この弟の戦死がやがて、武藤をしてある種の政治活動に没頭させる、起爆剤の役目を果たす。


 大正十三年新緑の候の講演で、武藤は以下の如くに吼えたのだ。

 


 日露戦争の時、旅順の二〇三高地に於て、私の弟が戦死致しました。その当時私の弟は上等兵でありましたが、私の弟の遺族に賜りました恩給金は、一年僅かに五十七円であることを聞きまして、私は非常に驚いたのであります。

 


 一年五十七円ならば、ひと月当たりの割り振りは四円と七十五銭の計算。


 大正元年に於ける一円を現代の貨幣価値に換算すると、ざっと四千円相当と物の本でいつか見た。


 すると四円七十五銭は、我々の感覚に於ける一万九千円ということになる。


(なんということだ)


 これでは武藤ならずとも、眩暈を覚えたくなるだろう。


 むろん弟の遺族については、武藤自身が責任をもって扶養する。


 しかし鐘紡総裁を身内に持たない、それ以外の人々はいったいどうなる? 大黒柱を、働き手を喪った家庭に対して、月一万九千円の支給で以ってどう生計を立てろと言うのだ? それを思うと、武藤の胃の腑はキリキリと、引き絞られるように痛むのだった。

 

 

203 Meter Hill

Wikipediaより、二〇三高地

 


 日露戦争の当時出征を命ぜられて戦死し、又は負傷して廃兵となったものゝ総数は十万の多きに達しました。而して是等戦死者の遺族又は廃兵の家族、その主人が戦死し又は廃兵となったため生活困難に陥る者が多きを占めて居りました。
 諸君、私は国のため義務として出征を命ぜられて戦死したる者の遺族、負傷して廃兵となった者の家族を、生活困難に陥らしめ、これを恬として顧みざる我国のやうな国家が果して永く国家として存在し得るものなるや否やを疑ふに至りました。

 


 正論である。


 一字一句、何処にも反論の余地がない。


 しかも武藤の素晴らしさは、この日本が「永く国家として存在し得るものなるや否やを疑ふに至」ったところで、かと言って日本を見棄ててどこか別の住みよいところへ引っ越そうという発想を、塵ほどにも持ち合わせていなかった一点にこそ見出せる。


 むしろ祖国の前途に暗雲が立ちこめれば立ちこめるほど、力の限り奮闘してこれを晴らしてくれようずと血を熱くする性質だった。

 

 

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靖国神社にて、玉串を捧げる武藤山治

 


 こういう型の実業家は、明治・大正を盛りとし、以後時代を下るに従って減少してゆく観がある。令和三年の今となっては、もはや絶滅危惧種であろう。


 全身で国難にぶちあたる、武藤はまったく漢であった。

 


 世の中には不公平なことが沢山にあり、又悪いことが沢山にありますが、これほど正義に反する不公平なことはないと考へまして、東京に事務所を置き、足掛け四年間此事のために尽力いたしました。皆様の内には或は御存知の方もあらせらるゝことと考へますが、今日我国の軍事救護法なるものがあって、いさゝかながらも戦死者の遺族や廃兵の家族の中で生活困難に陥る者に対し、救護することが出来るやうになりましたのは、四年間の努力の結果であります。然しながら私は此事を諸君の前に御吹聴申上げるのではありません。私は此話を茲に申上げるのは四年間此問題のために尽力する間に、私は我国の衆議院の代議士及び貴族院に於ける貴族の多くが、如何に国家を思ふ念に乏しきかを痛切に感じたからであります。

 


 あるいはこの憤懣と失望が、後にみずから政界へと打って出る原動力ともなったのか。


 まあ、それはいい。


 算盤勘定を投げ捨てた粉骨砕身の運動は、上記の通り、大正六年、軍事救護法の制定によりまず一定の実を結ぶ。


 それより溯ること三年余、第二次西園寺内閣を葬って大正政変の引き金を引いた二個師団増設問題につき、実業之世界社編集局から意見を求められた際の彼の答えが面白い。

 


 不賛成。

 帝国の強弱は師団の数に非ずして士気の如何に在り。士気を維持するの道は廃兵及び戦死者遺族に対する国家の待遇を厚くするに在り。故に予は根本を忘れ其末に走りたる師団増設に反対す。

 

 

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 短いながらも抜群の切れ味、正宗の脇差にも匹敵しよう。


 武藤山治人間性がこれでもかと凝縮された、珍重すべきものである。

 

 

 

 

 


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待ちわびた黎明の物語


『テイルズオブアライズ』を購入。

 

 

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 ゲームを新品で買うのは久しぶりだ。『サイバーパンク2077』以来ではないか。およそ九ヶ月ぶりの決断になる。

 

 このブランドとの付き合いも長い。


 一番最初に触れたのは、確か『ファンタジア』のps1移植版であったはず。呪文の詠唱を暗記するという、現代式の日本男児通過儀礼も本作によって――インディグネイションによって済ました。


 私の趣味の形成に、大きく寄与した作品といっていいだろう。


 以来、タイトルの殆どを網羅してきた。


 六年前、ゼスティリアという地雷も地雷、超特大の核地雷をまんまと踏み抜かされた際に於いては、流石に愛想も尽きかけたが。――続く『ベルセリア』の出来栄えにより、一抹の希望は繋がれた。まだ『テイルズ』は死に体ではないのだと、持ち直す芽はあるのだと、そう思わせてくれたのだ。

 

 

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『アライズ』はそんな流れの突端にある。


 本作の良否が意味するところは極めて大きい。


 ブランドの将来を占いさえするだろう。となれば是非とも我が眼と心で確認したいと、居ても立ってもいられぬ気分になってしまった。


 財布の紐が緩むのも、むべなるかなというものである。


 この先更新が滞るような事態があれば、つまりそれだけ『アライズ』に熱中しているものと考えて欲しい。他のことが手につかなくなるほどに、みごとな「仕上がり」だったのだなと。


 それではいざ、起動のときを迎えよう。


 期待以上に、頼むぞおい本当にという懇願めいた想いが強い。


 どうか杞憂で済みますように。

 

 

 

 

 

 

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