穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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残響、いまだ消え失せず ―いちばん最初の購入者―


 前回の補遺として、少し書く。


 引用元にさせてもらった武藤山治の『思ふまま』とは、彼が時事新報に連載していた同名のコラムをすぐって・・・・一書にまとめたモノだ。


 なんといっても毎号欠かさずの執筆という驚異的な代物のため、その記事数は相当以上の多きに及び、選定だけでもかなりの労力を要しただろう。


 これについては出版元たるダイヤモンド社創業の雄・石山賢吉その人も、

 


 武藤氏の事業に対する熱度は、非常なものであった。時事新報の受持記事は、どんな事があっても必ず書く。風邪を引いても、旅行をしても、毎日担当の受持記事は必ず書く。『思ふまゝ』の一覧は決して休まない。其の上、一週間に一度宛社説まで書くのであった。
 非常な筆力である。(昭和十二年『事業と其人の型』30頁)

 


 ほぼ手放しに称讃して惜しまなかった。

 

 

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(社長室にて、執筆中の武藤山治) 

 


 石山の言葉を信じるならば、武藤山治入社以前の時事新報は既に斜陽もいいところで、ひと月あたり八万円の赤字を出すのも珍しくはなかったという。


 それが一年十ヶ月の経営で、どうにか収支償える、トントンの域まで戻してのけた。


「流石に武藤は、武藤だけの仕事をする」


 と、関係者一同、舌を巻いたそうである。


「なんともったいない、武藤が兇刃に斃れなければ、時事の命脈も今なお続いていたろうに」


 同社の整理に関わった際、石山はしきりにこぼして嘆息したということだ。


 まあ、それは余談。


 話を手元の『思ふまま』に戻すとしよう。


 発刊は、昭和八年九月十五日。


 巻末の書き込みを参照するに、いちばん最初の持ち主が本書をその手に取ったのは、発売からおよそ半月後のこと。未だ「新刊」の瑞々しさが薄れていない、神無月の初頭であった。

 

 

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昭和八年拾月二日
 学校内にて求之
時世は憂慮に耐へぬ
 国士出でずんばやまざるの時
一読して以て微意を表さん。
           正思

 


 名前とおぼしき最後の二文字は、「まさし」と読むのか「ただし」と読むのか。


 いずれにせよ、達筆である。


 本書の如きが売店に陳列される学校――大学だろうか? 武藤山治慶應義塾出身だから、ひょっとするとそこかも知れない。


 このとき既に五・一五事件は突発し、我が代表は堂々退場した後だ。


 時代そのものが沸騰せんと滾りつつある灼熱のとき。騒然たる物情が、この短い文の上にも色濃く反映されている。


 激動する世の中に、「一読」後の購入者はどんな姿勢で臨んだのだろうか。


 それを想うと、ずしりと本書が手に重い。

 

 

 

 

 

 
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社長直々、「押し紙」暴露 ―武藤山治と時事新報―


 本邦新聞カラー刷りの草分けは、どうも武藤山治と、彼を社長に戴いて以後の時事新報に見出せるらしい。


 昭和八年四月二十五日のコラムにて、武藤はこんな記述を残した。

 


…一方ラジオは、日夜音楽を放送して耳によい感じを与へる今日の世の中に、新聞紙が全面真黒の装ひで朝夕読者にまみえるのは、喪服を着て人の家を訪問するのと同じで、到底両立するものではない。
 私はかやうに考へて、本紙に色刷の研究設備未だ足らざる昨年十一月頃から強ひて色刷を試み次第に進歩して昨今は可なりの程度にまで達した。
 我国は色刷の元祖である。版画に秀でたる我が国民は新聞色刷に於ても、外国人に負けぬ天才的技倆がある。今後大いに進歩して世界新聞紙色刷をリードすること疑ひがない。(昭和八年発行『思ふまま』328~329頁)

 

 

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 モノクロを「喪服を着て人の家を訪問するのと同じ」とは、またなんとも巧い表現をするではないか。


 実感に即すること限りない。ああ、ゲームボーイポケットからゲームボーイカラーと、携帯ゲームに色が宿ったあの瞬間の大衝撃を思い出す。


星のカービィ』『カービィ2』『コロコロカービィ』『風来のシレンGB 月影村の怪物』『砂漠の魔城』『ゼルダの伝説 夢を見る島』――青春を支えた名作たちよ。


 時計やテレビリモコン等々、家電器具からこっそり電池を拝借してまでのめり込んだものだった。やがて露見し、親から大目玉を頂戴しても、まったく懲りずにまたやった。すると今度はゲーム機自体を取り上げられて隠されて――そんな鼬ゴッコの数々も、今となっては懐かしい。


 あれから既に二十幾年いくとせ。ゲームはまさに跳躍的大進歩を成し遂げた。今はとにかく何を措いても、『エルデンリング』が待ち遠しくて仕方ない。こと趣味の領域に関しては、私もなかなか堂に入った一貫性の持ち主だと自惚れたくなる。

 

 

Nintendo-Game-Boy-Color-FL

Wikipediaより、ゲームボーイカラー) 

 


 一貫といえば。――


 と、やや強引ながら話頭を武藤山治と新聞紙とに引き戻す。


 悪名高い、にも拘らず未だに廃絶しきれていない、あの押し紙の因習も、武藤が時事新報のトップに立った昭和七年の段階で、既にしっかり業界内に根を張り切っていたらしい。そういう描写が、昭和八年七月二日の記事にある。

 


 地方の販売店の使ふ言葉に「積み紙」といふのがある。これは本社から唯紙数増加のため、無理に積み送って来る其紙を積んで置いて屑屋に売るから、之を「積み紙」と云ってゐるのである。こんな販売方法が新聞社仲間には通常のことゝして行はれてゐる。これをやらなければ紙数維持が出来ないと云ふことであった。併しながら私は断然本社の販売は之を廃止した。(350頁)

 

 

 掛け値なし、百年続く問題であるというわけだ。

 

 

Muto Sanji

 (Wikipediaより、武藤山治

 


 武藤山治は昭和九年、暗殺されてこの世を去った。


 時事新報が経営悪化で廃刊したのはそれからおよそ二年後のこと。


 敗戦間もない昭和二十一年に復活を遂げはしたものの、やはり業績ふるわなく。昭和三十年、産経新聞に合併・吸収されている。


 その産経が、ついこの間まで「押し紙」絡みで裁判沙汰をやっていた。


 皮肉といえばこれほど皮肉な構図はない。何をやっているんだと、武藤山治も草葉の陰で呆れていよう。同社に武藤の精神が受け継がれんことを切に願う。

 

 

 

 

 

 
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好悪は理屈を超越す ―原稿用紙と鈴木三重吉―

 

 奇癖といえば、鈴木三重吉を外せない。


 この漱石門下の文学者、児童雑誌『赤い鳥』の主宰人に関しては、最初の方でわずかに触れた。そう、欧州大戦勃発時、「愉快な戦争」なるドギツイ題の稿をしたため、

 


 ――私は世界的の大戦争になって来たのがわけもなく愉快でたまりません。


 ――政府も観戦将校と共に観戦文学者を欧州に送るといゝですね。東洋に戦争が波及したら、少なくとも日本の軍艦へはひとりづゝ文学者を乗せて戦争を見せるといゝと思ひます。平生だって時々招待して乗せて歩くといゝと思ひます。いろいろの意味で国家とわれわれと双方に効果があるんですがね。


 ――日本も早くどこかとやらないかな。そして軍艦へだけは乗せないかなあ。これは真面目で国家の問題にする価値があるぢゃありませんか。

 


 こんな具合に、前代未聞の物凄すぎるつらあて・・・・を嬉々としてやったあの彼だ。


 如何にも大正・昭和の文学者という感じがする、性格の偏りっぷりであったろう。

 

 

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 さて、そんな鈴木三重吉だが。――実のところこの男、原稿用紙に文字を書くのが大の苦手に他ならなかった。


 感性がするどすぎる所為であろう。


 どうもこの男、おろしたての原稿用紙に処女雪を見るような錯覚を託していたらしい。


 誰の足跡もついていない清澄なる銀世界。その静寂にいっそ神威すら覚え、破るべからずと怖じ憚るのと同様に。真っ白な紙面に向き合うと、その単調の美しさ、ひいては手触りの滑らかさについつい魅せられ、そこにペンを走らせるのがひどく無粋な行為に思えて仕方なかったそうである。


 だから、

 


…わざわざ一二行いたづら書きをしてそれを前にのべたように直線でぬりつぶして、それを五六枚用意してから文章を書きはじめる。それが比較的筆がずんずん進んで次の一枚に移る時に、最う真白い紙しかなくなると、又その勢が挫折して書けなくなる時がある。(『鈴木三重吉全集 第五巻』114頁)

 


 こんな「対策」を編み出す必要があったわけだ。

 

 

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 傍から見れば徒労も徒労、阿呆らしくもある所業だが、本人は至って真面目であり、切実である。


 笑うべきではないだろう。そも、あらゆる真面目な努力というのは、その当事者の心に添えない第三者の瞳には、なべて滑稽に映るものではなかろうか。


 私とて妙な性癖の七つや八つは持っている。


 自覚しているだけでそれだから、現実には更に数倍に及ぶだろう。


 その中から鈴木三重吉と似通う要素を抽出すると、たとえば文字の好き嫌いがあげられる。


 いったい鈴木は「玄関」という文字の並びを忌み嫌うこと毛虫よりも強烈で、作品に登場させるのを努めて避けた。どうしても描写が必要な場合は主に「上り口」と書き、結果文章全体の語感が損なわれても敢えて顧みなかった。


「関係」という単語は普通に使っているあたり、「玄」と「関」とがそれぞれ独立している間なら、まだ辛うじて我慢の範囲内らしい。しかしながら組み合わさるともう駄目だ。たちまち拒絶反応を起こして吹っ飛ぶ。

 

 

Akai-Tori first issue

 (Wikipediaより、『赤い鳥』創刊号)

 


 私の場合、「無論」という単語に対し似たような生理を抱えている。だからここまで書き連ねてきた文の中でも、常に平仮名で「むろん」と書いて使用を避けた。何故と問われてもどうにも答えようがない。

 

 

 ――好きだ嫌ひだといふのに、理屈がつくやうでは、実は真物にあらず。ただ何となく好きだ、何となく嫌ひだといふのが、ほんとうの好きなり、嫌ひなり。

 

 

 畢竟、高島米峰のこの喝破に縋る以外になく思われる。


 物事の好悪なんぞというのは、まったく超理屈的の境地にあるのだ。

 

 

 

 

 


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知の巨人の奇妙な旅行


 紀行文を読んでいるとどうしても、小泉信三を思い出す。


 慶応義塾出身の経済学者で、平成天皇、すなわち現在の上皇陛下の教育役にあずかりもしたこの男には、しかしながら奇癖があった。


 それは正月三が日の間じゅう、雲隠れをきめ込むという癖である。

 

 

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 だいたい昭和三十年前後からのことであろうか。元日の朝、拝賀を済ますと、小泉はさっそく平服に着替え、愛用しているボストンバッグに寝巻きと一抱えの本をぶち込み、そのまま家族にも行方を告げず、家を飛び出てしまうのだ。


 普通に想像するならば、伊豆なり伊賀保なり草津なりの行楽地にて羽を伸ばして、一年の英気を養っているとみるのが妥当だろう。


 が、現実の小泉は益体もない。


 そも都内から一歩も出ていないのである。自宅からせいぜい車で二十分程度のビジネスホテルに潜伏し、以降まるまる二日というもの、外部との交渉を一切遮断。サザエが蓋をするようにその一室に閉じこもり、ひたすら読書に耽溺するのが実状だった。


 ――自分がここでこうしていると知る者は、地球上に誰一人として存在しない。


 ――自分は今、世間から切り離された状態だ。


 それを思うと小泉は旅情にも似た解放感が湧くのを覚え、得も言われぬいい気持ちになり、読書がいよいよ捗った。


 ルームメイクに来たボーイに対し、今日は終日部屋から出ない、ベッドは自分で作る、部屋も散らかさないから掃除には及ばない、等々の旨を言い含めると、


「ははあ、寝正月ですね」


 と、笑いながら去っていってくれたとか。


 まんざら悪い試みでもない。責任ある男には、ときに独りの時間が必要だ。

 

 

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 三が日の消化方法以外にも、小泉信三は独創性に満ちた男で。


 その特性は、あの惨憺たる大東亜戦争の末期に於いても遺憾なく発動されている。


 制空権を奪われて、ほとんど毎日ひっきりなしに焼夷弾が降りそそぎ、都市が軒並み瓦礫の山の化してゆく、地獄の釜の底みたような状況で。――あろうことかこの人物は、日本人はもっと身だしなみに気を遣えと言ったのだ。

 


 戦争の末期であった。空襲は日毎にはげしくなる。安眠できない夜はつづく。食料は不足である。国民の疲労の色は蔽いがたくなった。別してそれを感じたのは、祝儀不祝儀の集まり、殊に葬儀や告別式の光景であった。
 一般会葬者で礼服を着て来るものは殆どなくなった。ひげも剃らず、髪はすすけ、よれよれの国民服にだらしなくゲートルを巻いた人々が、気のない焼香をして帰って行く。死んだ人間のことなんぞ考えてはおられないという風があった。
 この時期の日本人の、なりもふりも構わないという気持ちには、張りも意地も、恥も外聞もないという無気力に通ずるものがあった。私はそれを忌ま忌ましく思い、少し日本人は身綺麗にして、お洒落になるべきだと人に言った。戦争が苦しければ苦しいほどなおの事、意気地のない風態をして、こんな薄汚いのが日本人かと思われない用意を示すべきだと考えた。(『夕刊中外』昭和二十六年四月二日)

 

 

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小泉信三、昭和37年2月)

 


「正しき容儀は正しき心の現れである。同時にまた、人は容儀を正すことによって、また自から心を正すのである」


 小泉の信念である。


 信念に根付いているだけに、その実行には片鱗の迷いも介在しない。たとえ白眼視されようが罵声を浴びせられようが、彼の熱意は少しも翳ることはなく――このあたり、流石慶應義塾の、福澤の衣鉢を継ぐものだとしみじみ感服したくなる。


 まさに「闘う学者」の名に相応しい。

 

 

Main building of Keio University 1891

Wikipediaより、明治24年慶應義塾本館) 

 


 岩波文庫『学問のすゝめ』に解題の稿を添えたのも、やはりこの小泉に他ならなかった。


 蓋し納得の人選である。

 

 

 

 

 


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日本人製密造酒 ―禁酒法下のアラスカで―


 シアトルを出航してから一週間後、昭和七年八月五日。六千トン級旅客船ユーコン丸はスワードの港に碇を下ろした。


 二十世紀の当時に於いても、二十一世紀の今日でも。キーナイ半島東岸に開けたこの街が、アラスカ鉄道の終点であるのに変わりはない。

 

 

Seward Alaska aerial view

 (Wikipediaより、スワードの上空写真)

 


 矢部茂のアラスカ旅行は、ここで一つの節目を迎える。


 水路から陸路へ。船から汽車へ交通機関を切り換えて、更なる奥地を目指すのだ。


 同じ極北を突っ走る鉄道でも、シベリアの方は紀行文も結構多い。


 松波仁一郎がそうしたように、ヨーロッパ行きの足として多用されたがゆえだろう。


 が、繰り言になるが、私の知り及ぶ限りに於いて、アラスカ鉄道の味を知る大日本帝国臣民はこの矢部茂ただひとり。


 初見なだけに、その内容は瑞々しい物珍しさを伴って。飽きることなく読ませてもらった。

 


 朝七時三十分の此汽車にはユーコン丸からの人々が大部分を占めて居る。
 二台の客車に一台の展望車がついて、それに僅か十七名程の乗客である。
 ハーディング大統領がアラスカ開発の遠大なる計画の下に、大枚七千万弗を投じて建設した、(中略)フェアバンクスに達する全長四百七十哩の此の大動脈も、一週間一回の運転にも拘らずこんな淋れ方である。米本土の前古未曾有の不況の影響は、其末梢神経に当るアラスカに、かくも烈しく反映する。(『アラスカ日記』62頁)

 

 

Alaska Railroad Denali station

 (Wikipediaより、アラスカ鉄道)

 


 なお、この「一週間一回の運転」というのは五月から九月にかけてのみ、いわゆる繁忙期限定のダイヤであって、それ以外の期間に於いては更に交通量が減る。驚くなかれ、十日に一本の運転になる。


 当時のアラスカ人口は、ほんの五万八千程度。


 その内訳を更に探ると、白人二万八千に、先住民族三万という按排である。


 矢部茂の言葉を借りれば、「ドイツとフランスと英本土がぽっこり入らうと云ふ広いアラスカ」に、たったこれだけ。


 とんでもない稀薄さだった。


 この空漠ぶりが前提としてあればこそ、週に一度の運転だろうと特に苦情の声もなく、十分やっていけたのだろう。


 ついでながら付記しておくと、現在のアラスカ人口は七十万を突破して、人種構成も六割四分が白人だ。


 まさに隔世の感に堪えない。

 

 

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(エキスモーの女性)

 


 ところでこのスワードで、矢部はなかなか趣深い出逢いをしている。


 出稼ぎではない、定住する日本人が、ここにはいくらか存在していた。


 西山老人もそのひとり。六十近い独身男で、スワードにて生活すること、既に二十五年の長きに及ぶ。


 半生を捧げたといっていい。


 半生を捧げて、この男は街一番のビリヤード場を磨き続けた。


 言葉通りの意味に於いてだ。ボルネオ島バンジャルマシンの西荻青年、代金を踏み倒そうと試みた蘭人兵士を注意して、逆に暴行を加えられ、半死半生の憂き目に遭ったあの邦人は自前の店を有していたが、西山老人の場合は違う。


 床を磨き、台を整え、窓を拭く――一介の清掃員として、この異郷の地に二十五年を過ごしたのである。


 その間、幾多の変化が店を襲った。


 トップの顔にしてみても、都合三回入れ替わっている。


 されど西山が掃除番であることだけは、一貫して変化なく。


 地蔵のような顔付きで、連日連夜、黙々と職責を全うしている。


「まあ、面白い爺さんだよ」


 邦人同士の間でも、あれは一廉の奇傑なりと囃す声が高かった。


 矢部茂は、興味を惹かれた。


 ついふらふらと、街外れの彼の住居を訪問している。


 突然やってきた同郷人を、しかし西山は上機嫌でもてなした。「老人は丁度ビールを三十本ばかり密造中」であり、なるほど評判は的外れでないらしいと矢部は密かに頓悟した。

 

 

Former moonshiner John Bowman explaining the workings of a moonshine still American Folklife Center

 (Wikipediaより、密造酒の製造方法を説明する元密造者)

 


 合衆国が禁酒法の桎梏から自由になるまで、まだ一年以上の時を要する。


 実のところ、矢部は無類の酒好きであり。憂いを払う玉帚を民衆の手から無理無体にむしりとるこの政策を、「露国はマルキシズムに悪く固まって禁酒し米国では女房と牧師と道徳屋に引ずられて禁酒の愚法を施行した」と、さも直截に罵倒している。


 ユーコン丸にて北太平洋を航行していた時分から、

 


 ――かう毎日雨に降られて、酒も無しとは吾等上戸党には世界不況よりも、グンとこたへる。腹も立つ。

 


 不平不満を紙面にぶつけて憚らなかった人物だ。


 それだけに西山老人のもてなしには感じ入ったに違いない。


 嬉しそうな顔をして、この掃除番が取り出したるはウイスキー


 トマトを切ってパセリを添えて、互いにグラスを傾けながら、西山は己が数奇な人生を、矢部は最近の満洲事情を、飽きることなく語り合ったそうである。

 

 

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 あくる朝、アラスカ鉄道の車窓から、千古の景色に恍惚とする矢部茂の手元には、一握りのチューインガムが。


 態々駅のホームまで見送りに来た西山が、餞別がわりと――半ば押し付けるようにして――持たせてくれたものである。


 その食感を楽しみながら、彼はほんの数百メートルの近きに迫ったスペンサー氷の荘厳ぶりに、忘我の吐息を漏らすのだった。

 

 

 

 

 


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無何有の郷は今いずこ ―満鉄社員、アラスカを往く―


『アラスカ日記』を読んでいる。


 昭和七年、同地を歩いた満鉄社員、矢部茂による旅行記だ。

 

 

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 戦前といえど、欧米にまつわる紀行文は山とある。


 南洋だってそれなり以上の数に及ぼう。


 だがアラスカとなると至って稀で、現状私の蔵書に於いてはこの一冊があるきりだ。交通自体は割と盛んで、毎年三千からの日本人が彼の地に渡り、漁業や鉱山、缶詰工場等々で出稼ぎ労働に勤しんでいたと記録にあるが、惜しむべきかな、彼らは執筆活動にあまり向いてはいなかった。

 


 アラスカ航路で一等客の邦人は一年に一名もあるまい。大概は三等船客で出稼ぎの漁夫かコックさんだ。それで満洲から遥々遊歴に来た青年と云ふ点で、白人仲間では興味をひいてるらしく、船員も船客も、特に婦人等も心置なく打ちとけて呉れる。愉快な気分の船路である。(9~10頁)

 


 矢部茂もみずからの稀少性を自覚して、その恩恵を享受している。


 彼の乗り込んだ船の名前はユーコン丸。シアトル発、六千トン規模の旅客船。途次ビクトリア港やケチカン港に立ち寄りつつも一路北上、西海岸をなめるように沿って往く。

 

 

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(ケチカン港の漁船群)

 


 その最中、やはりいっとき脚を留めたオルソープAlthropなる港町にて、矢部はこんなものを見た。曰く、「埠頭の土間に土人の女房共が、手芸品を並べて売る。何れもアメリカナイズされて洋装で中に伊達眼鏡をかけて、コートの襟には皆毛皮を付けて居る」――。


 ごくさりげない記述であろう。


 眼前の景色をそのまま切り取っただけの描写だ。


(あっ)


 ところがこの下りを認めた瞬間、私の脳内神経回路は激しくスパーク。衝撃と共にひとつの記憶を深奥から引き上げる。


(これは山本実彦と、アイヌの構図ではないか)


 あの改造社の社長は社長で、似たような経験を積んでいた。


 やはり戦前、北海道に旅行した際、彼が目撃したモノは、もはや往年の精力を完全に失くした先住民のその姿。山本以下、観光客の姿を見るや、むしろ向こうの方から小腰をかがめて近寄って来て、


 ――写真はいかがですか。


 一枚何銭で共に写って差し上げましょうと自分を売り込む、その有り様を、山本は満腔の同情により筆を湿らせ書き綴ったものだった。


 アラスカに於ける矢部もまた、

 


 土人の信仰の対象であるトーテム・ポールは怒涛の様に侵入する弗の力の前に急速に解消して、年々歳々米本国に買出されて行く、シアトルに、サンフランシスコに、又東部諸地方の博物館等に其優秀なるものは送られる、土人の米化に伴って新しい創作はなくなって、幾十年かの後には結局アラスカ・インディアンの誇る可き雄大な木彫は絶滅するのではあるまいか。(13~14頁)

 


 少なからぬ感傷を通して、彼らの前途を予測している。

 

 

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(廃村にたたずむトーテムポール)

 


 曇天は気を塞がせる。


 この梅雨空で活動する私にも、なにやら彼らの憂愁が伝染しそうな雰囲気だ。

 

 

時代に逆行するものは、
時勢に順応せぬものは、
よく世に共に移らぬものは、
みな、滅びなければならぬのだ、
いな、敢て自ら進んで滅びるのだ。
この世を去って
不易の世に、
そのまどけき夢の世に、
無何有郷むかゆうきょうに帰らむために。

 


 本書が済んだら、久々に生田春月でも引っ張り出そうか。

 

 雨垂れに鼓膜をなぶられながら賞翫する彼の詩は、きっと格別に違いない。

 

 

 

 

 


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尾崎行雄の自己評価 ―弾劾演説、称讃不要―


 己が名前を千載にとどむ、決定的な要因にも拘らず。


「弾劾演説」に触れられることを、尾崎は厭うていたという。

 

 

YukioOzaki TaroKatsura

 (Wikipediaより、桂太郎弾劾演説)

 


 左様、弾劾演説。


 大正二年二月五日、第三十帝国議会の本会議にて。尾崎行雄が不倶戴天の敵手たる――なにせ、死後に至るまで罵り続けた――桂太郎総理に向けて発射した、伝説的な批判の矢。

 


「彼等は口を開けば直ちに『忠君』を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へて居りますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

 


 憲政史上最も成功した政府批判と讃えられ、大正デモクラシーの強烈なる加速剤の用を為し、尾崎の位置をいっぺんに「神」の領域まで押し上げたこの雄弁に、しかし当の本人は決して満足できなかったものとみえ。


 誰かに言及されるたび、まるで噛み潰した苦虫が、奥歯に挟まり取れなくなってしまったような、暗澹たる表情を浮かべたということである。

 

 

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尾崎行雄

 


「いや、あのときの君の剣幕ときたらもう」


 今にも首相の喉笛に咬みつきかねない、まさに狼を思わせる、こわいくらいの凄味があったと、ある日告げる者がいた。


 例によって例の如く、眉間に皴を寄せながら、尾崎は答えた。

 


の弾劾演説の如きは、初めの考へでは真綿で首を締める様な演説をする積りであったのが、登壇すると昂奮して遂に心ならずも猛烈になったので、弱い犬が吠える様に、自分の性質が弱いからである」

 


 要は自分の心さえ、突発的な衝動ひとつ満足に制御しきれない未熟さゆえの産物であり、褒められるような筋合いはないと。


 こんなことを言い出したから、周囲の者は一人残らず耳を疑い、反応に戸惑い、舌を失くしたかの如く沈黙するより他になかった。

 


 ――以上の噺は、昭和十一年に出版された『現代名士 逸話随筆』の内容に由る。

 

 

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 著者の名前は増田義一実業之日本社を長きに亘って牽引し、それ以外にも大日本印刷会社を興すなど、紛れもない日本出版界の雄。その交友関係が多岐に及んだろうことは、あまりに容易く察し得る。


 本書にはまた、このような記述も見出せる。――昭和十年前後にかけて、イタリアとエチオピアの関係がひどくキナ臭くなったとき。これをいちばん喜んだのは、山下汽船創業者、「海の偉人」山下亀三郎その人だったということだ。

 


…何でもイタリーがエチオピアへ兵を出し始めた頃から、戦争になれば宜いと祈ってゐた。ところで友人が往って、容易に戦争にはなりますまいと話すと、そんな不愉快な話は止めて呉れと言ったものだそうな。
 愈々開戦するらしくなると、山下氏はイの一番に船の製造註文を発したそうだ。チャーターもその前からやってゐたそうで、その抜目のない機敏さには同業者も驚いたそうな。(319頁)

 


 この下りを読み、私は正直、心底感嘆させられた。なんだ、日本にもイギリス人みたようなのがいるじゃあないかと、我が民族を見直す思いがしたからである。


 有名な話だ。


 第一次世界大戦勃発以前、帝政ドイツの盛時に於いて。彼らの海軍拡張を誰にもまして喜んだのは、当のドイツ国民にあらずして、ドーバー海峡の向こう側、英国軍艦製造会社の面々こそだったとは。――

 

 

Hochseeflotte 2

 (Wikipediaより、ドイツ帝国海軍)

 


 なんとなればドイツが一隻、ドレットノートを建造すれば、その国防方針からしてイギリスは、より多くの軍艦を建造するを余儀なくされるからである。従って会社には仕事が舞い込み、利益はいよいよ拡大される。実に単純な構図といえる。


 世間一般では死の商人などと揶揄されがちな手合いだが、私はこういう連中はこういう連中で人間味があり面白いと考える。百人や千人、この種の輩が社会に混在していてもいい。山下亀三郎への敬意がいや増したのは、そんな事情だ。

 

 

 

 

 


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