前回の補遺として、少し書く。
引用元にさせてもらった武藤山治の『思ふまま』とは、彼が時事新報に連載していた同名のコラムを
なんといっても毎号欠かさずの執筆という驚異的な代物のため、その記事数は相当以上の多きに及び、選定だけでもかなりの労力を要しただろう。
これについては出版元たるダイヤモンド社創業の雄・石山賢吉その人も、
武藤氏の事業に対する熱度は、非常なものであった。時事新報の受持記事は、どんな事があっても必ず書く。風邪を引いても、旅行をしても、毎日担当の受持記事は必ず書く。『思ふまゝ』の一覧は決して休まない。其の上、一週間に一度宛社説まで書くのであった。
非常な筆力である。(昭和十二年『事業と其人の型』30頁)
ほぼ手放しに称讃して惜しまなかった。
(社長室にて、執筆中の武藤山治)
石山の言葉を信じるならば、武藤山治入社以前の時事新報は既に斜陽もいいところで、ひと月あたり八万円の赤字を出すのも珍しくはなかったという。
それが一年十ヶ月の経営で、どうにか収支償える、トントンの域まで戻してのけた。
「流石に武藤は、武藤だけの仕事をする」
と、関係者一同、舌を巻いたそうである。
「なんともったいない、武藤が兇刃に斃れなければ、時事の命脈も今なお続いていたろうに」
同社の整理に関わった際、石山はしきりにこぼして嘆息したということだ。
まあ、それは余談。
話を手元の『思ふまま』に戻すとしよう。
発刊は、昭和八年九月十五日。
巻末の書き込みを参照するに、いちばん最初の持ち主が本書をその手に取ったのは、発売からおよそ半月後のこと。未だ「新刊」の瑞々しさが薄れていない、神無月の初頭であった。
昭和八年拾月二日
学校内にて求之
時世は憂慮に耐へぬ
国士出でずんばやまざるの時
一読して以て微意を表さん。
正思
名前とおぼしき最後の二文字は、「まさし」と読むのか「ただし」と読むのか。
いずれにせよ、達筆である。
本書の如きが売店に陳列される学校――大学だろうか? 武藤山治は慶應義塾出身だから、ひょっとするとそこかも知れない。
このとき既に五・一五事件は突発し、我が代表は堂々退場した後だ。
時代そのものが沸騰せんと滾りつつある灼熱の
激動する世の中に、「一読」後の購入者はどんな姿勢で臨んだのだろうか。
それを想うと、ずしりと本書が手に重い。
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