穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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寸鉄人を刺したもの ―皮肉の達人、英国人―


 スランプである。


 伝えたいことは山ほどあるのに、どうもうまく言語化できない。


 喉元あたりでひっかかる。


 もどかしさに頭皮を掻き破りたくなってくる。


 五月病の一種だろうか? 私が好む季節というのは秋から冬にかけてであって、春と夏とは苦手な性質たちだ。


 木々の梢に葉が繁り、徐々に肉が厚みを増して、あぶらを塗られたように艶めき――夏に向かって生命が勢いづけばづくほどに、私の気分は沈淪してゆく。濃厚な色彩には美しさよりくどさ・・・を感じ、胃もたれするような苦しみのもと、冬枯れの枯淡を希う。

 

 

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 辛い時期だ。考え事には向かない時期だ。ろくな思案の浮かばぬ時期だ。


 だからといって筆を投げ出し、不貞腐れでもしたかのように何も書かないままでいると、今度はどんどん腕が錆びつく。


 一日サボれば自分が気付き、


 二日サボれば仲間が気付き、


 三日サボれば誰でも気付く。


 よく言われるところだが、これはまったく真理を衝いているように思う。


 無理矢理にでも書くべきだ。


 たとえ内容が千切れ雲のようにてんでんばらばら、纏まりのないモノに堕しても、それはそれで随筆らしい、字義に適ったものではないか。


 そんな風に、自分で自分を納得させて。

 


 ――ロンドン生まれの映画俳優、C・オーブリー・スミスには、どこか井之頭五郎を彷彿とさせる性格上の偏りがあった。

 


 彼にとって「静けさ」とは「空腹」に匹敵する最高レベルの調味料に他ならず、人がめしを喰ってる傍でやかましく騒ぎ立てる輩というのを、蛇蝎以上に憎んだという。

 

 

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(『孤独のグルメ』より)

 


 ある日のこと、ハリウッドのレストランで偶々近くに座った客がまさにこの、場を弁えず騒ぎ立てる「うるさ型」の男であって、店のサービスにいちいち文句をつけたから、オーブリーはよほど辟易したらしい。


 ついに我慢の限度を超えた。そのとき男は店員の対応ののろさ・・・を罵り、その証拠に、みろ、入店してこんなに経つのに、料理どころかコップ一杯の水さえもまだ俺のところに届いていないとあげつらい、

 

「この安料理屋ではいったいどんなことをしたら一杯の水がもらえるんだい」


 と、わざとらしく甲高い声で呼ばわっていた。


 オーブリー、そちらに向かって首をねじまげ、


「ご自分の身体に火でもつけたらどうですかな」


 よどみない口調で、ずけりと一言やってのけたということである。

 

 

C. Aubrey Smith in Little Lord Fauntleroy (1936)

 (Wikipediaより、C・オーブリー・スミス

 


 いったい映画俳優というのは、普段からそういう役どころを演じている所為であろうか、咄嗟の「返し」がすこぶる上手い。


 もう一つばかり例を挙げよう。――リン・フォンタンヌとタルラー・バンクヘッドは互いに二十世紀を代表し得る名女優だが、この二人の水の合わなさは致命的で、仇敵同士といってよく、彼女たちの角突き合いは事あるごとに合衆国の大気を揺らし、人々の興味を掻き立てること無類であった。


 数知れず繰り返された勝負の中でも、特に根強く語り継がれるものがある。


 とある夜会の席上で、タルラーはこんなことを言ったのだ。


「アルフレッド・ラントさんと御結婚なさって、ほんとに運のおよろしいこと。あの方、演技も素晴らしいし、監督としても立派だわ。あの方がいなかったら、あなたはどうなっていたかしら?」

 

 

TallulahBankhead

 (Wikipediaより、タルラー・バンクヘッド)

 


 お前の成功はお前自身の実力じゃない、これまで主役を張れてきたのは、偏に旦那の引き立てあってのことなんだぞと、暗に毒針で突いたのである。


 夫がメガホンを取る作品で主役を演じまくる妻。なるほど確かにこれほど中傷されやすい構図というのも珍しかろう。が、だからといって真正面からそれを指摘するというのは尋常一様の所業ではない。


(言い過ぎではないか)


 出席者には、蒼褪めた者とて少なくなかった。もはや喧嘩で済まされる領域を超え、殺し合いに発展しても何ら不思議でない侮辱。ところが当のリンときたらどうであろう、いとも涼しげな風体で、口元に微笑すら浮かべつつ、


「多分、あなたがやっていらっしゃる役どころでしょうよ」


 こう言ってのけたからたまらない。


 突き出された毒針を、手首を掴まえ、小手返しの要領で、逆にタルラーの胸元へ捻じ込んでやったようなものである。


 そういえばリン・フォンタンヌも元々の生まれはロンドンだった。

 

 

Lynn Fontanne portrait2

 (Wikipediaより、リン・フォンタンヌ)

 


 イギリス人はどんなにアメリカで暮しても、ついにイギリス人たるを失わぬらしい。

 

 

 

 

 

 
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活字に酔いつつ酒に酔う ―嗚呼ひとり酒の愉しみよ―

 


 酒の境地は独酌にある。親しき友あるもいい。宴会の酒は少しく社交に走らざるを得ない煩ひがある。要するに酒は環境による。

 


(いいことを言う)


 大いに頷かれる記述であった。


(立ち読みで済ますのはもったいない)


 心の天秤の指針が動き、「買うに値する」を指す。そうした次第で同書は現在、古本屋の書架を離れて、私の机の上にある。昭和五年発行、鈴木氏亨著『酒通』というこの古書は――。

 

 

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 さしあたりざっと捲ってみると、巻末にこのようなものを見出した。

 

 

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 出版元の四六書院に、感想を送るためのハガキである。


 正確には「愛読者カード」と呼ぶらしい。東京市神田区通神保町一番地」とあるからには、さだめし人通りの多い、繁華な場所に門戸を構えていたのであろう。


 とりあえずコレは切り離さずに、このままとっておこうと思う。


 奥付にはまた、「記念特価金三十五銭」の印影が。

 

 

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 定価は七十銭となっているから丁度半額、「特価」に恥じない気前のよさだ。だが何の記念だったのだろう。そこはちょっとわからない。なお、私が本書を購うために支払ったのは、実に五百円玉いちまいである。


 中身について話を移すと、表題の通り酒にまつわる四方山話――起源及び発達過程、酒がテーマの詩吟俳諧、燗の仕方や徳利選びに至るまで――を綴ったものだが、特徴的な部分が一つ。全体を通して文章の格調が頗る高い。


 清酒の味の表現に、

 


「香気芳烈で、色沢透明、口ざはりの木目こまかく、喉ごしに障りなく、押しは凛として口中に残る」

 


 と記してみたり、またそれが何によって齎されるかの説明を、

 


「第一、西宮の水。
 第二、摂播の米。
 第三、吉野杉の香。
 第四、丹波杜氏の技倆。
 第五、六甲の寒気。
 第六、摂海の温気。」

 


 簡潔、明瞭、更にその上テンポよくまとめてみせたりするあたり、もはや文学的な美しさすら感得される。


 ひょっとすると本当に文学者では? と思って調べてみると、豈図らんや、この鈴木氏亭なる男、菊池寛の秘書をやっていた者ではないか。


 ある時期からは自身も小説を執筆し、文芸春秋」専務取締役まで務めている。名文の数々も納得だ。ちなみに私は購入当初、どういう視神経の狂いからか「亨」の字を「亭」と取り違え、てっきり酒好きの落語家が嘱望されて筆を動かしたものとばかり考えていた。

 

 

Bungei Shunju (head office 3)

Wikipediaより、株式会社文芸春秋本館)

 


 私は未だ、本書を読破しきっていない。


 あと半分――九十ページほどが未読のまま残されている。


 どうせならば後はこの、

 

 

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 芋麹本格芋焼酎「一刻者」を呑みながら、一気に読みきってしまおうか。趣深い、良い試みだと思うのだ。

 

 

 

 

 


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励めや励め国のため ―艱難辛苦の底の歌―


 子は親を映す鏡というが、下村家の父子ほど、この諺を体現した例というのも珍しい。


 海南の父、房次郎も、倅に負けず劣らずの、熱烈極まる海外志向の持ち主だった。

 

 

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(中央が下村房次郎)

 


 この人の興味は専ら北方、日露貿易の開拓にこそ集中し、両国の和親実現のため、あらゆる骨折りを惜しまなかった。


 明治三十四年にはなんと、みずから「平和の使者」となり、シベリアの曠野を横切ってサンクトペテルブルグに乗り込んでいる。誰に命ぜられたわけでもなく、自腹を切って切って切りまくってまで出立したこの旅は、しかし例年にない悪天候やそれに伴う毒虫・病魔の襲来により、ほとんど死ぬような苦しみを嘗め、往路だけでも五十日を費やすと、まず惨憺たる始末であった。


 が、そんな艱難辛苦の底にあっても、房次郎氏は不屈の気魂が窺える、力強い詩を詠んでいる。


 七五調から成る長大な詩だ。


 小説家の塚原靖などはこの歌に、「これを誦して誰か居士が骨頂の真なるに泣かざるものあらん、古にいふ武侯が出師の表を読んで流涕せざるものその人必ず忠臣にあらずと、余輩もまたこの言を籍りて読者が胸奥に質さんと欲す」――これを読んで泣かない奴はもはや日本人ではないと、およそ考え得つく限り最大級の讃辞を呈して惜しまなかった。

 

 

Amur

 (Wikipediaより、アムール川

 

 

人事は凡てかくならむ
吾れ積年の志業なる
日本海路の開航と
日露貿易振作の
基礎をかためて帝国を
世界通路の中心と
為さむ準備のかしま立
水陸五千里踏破せむ
日割は五旬の往復に
露都の三旬他の六旬
往は春色帰るさには
秋の気色を眺めむと
こまかに立てし目算も
いすかのはしと喰ひ違ひ
天候常にあやしくて
往路に費す五十日
船路は旱魃に阻害され
鉄路は暴雨に破壊され
辛酸つぶさに嘗めつくし
思ひもよらぬ道草に
日を重ぬれば自から
嚢中銭も減る習ひ
しかも胡地の寒風は
常より早く襲ひ来ぬ
病躬いかでか安からむ
嗚呼我事もやみぬるか
一時はかくこそ思ひしが
思ひかへせば世のことは
平易に成就するものと
はやるは抑も誤れり
絶えぬ難苦と対抗し
耐ふると否とは人間の
なると敗るる岐れ路
身を犠牲いけにえに為すからは
何のおそれかこれあらむ
励めや励め国のため
吾れ春秋になほ富めり
前途望みなからずや
前程望みあるものを
励めや励め世のために
他年に飾る錦ぞと
烏拉爾ウラルの紅葉見てぞ知る
後日の結果円満と
アムールの月見ても知る
古人の教へに云へるあり
平常なして怠らず
また行ひてまざれば
こと自ら成就すと
さらは真ごころ一筋に
倦まず撓まず成功を
他日に期して行路難
天災地殃のほかにまた
人の心の海に立つ
険はしき波瀾もものかはと
進みて中途にやむ勿れ
人事は凡て斯くなれば

 

 

Mont Narodnaïa

 (Wikipediaより、ウラル山脈最高峰、ナロードナヤ山)

 


 下村房次郎は大正二年、二月二十一日を砌に現世を去った。


 享年、五十八歳。シベリアの旅から生きて還って後というもの、晩酌のあとに上の歌を声高らかに吟じることが、何よりの楽しみだったという。


 毎日欠かさずやるものだから、「母や妻や妹などは、おとうさんまた始まったといふほど耳蛸の歌で」あったのだと、息子は愛を籠めて書いている。

 

 

 

 

 


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総督府のひとびと


 鉄道部の村儀むらよしは、とにかく色の黒い男であった。


 おまけに顔の彫りも深い。


 弥生人との交配を経ず、縄文人がそのまま現代に生き残ってしまったような骨柄で、それだから外来客が総督府内で彼を見かけたりすると、


「生蕃(原住民)を官途に就かせているのか」


 いくらなんでも時期尚早、性急に過ぎる措置ではないか――と。


 危惧と驚愕を綯い交ぜにして迫るのが、半ば約束事になっていた。


 しかるのち、彼が純然混じりっ気のない日本人だと聞かされて、繰り返し驚けるという寸法である。

 

 

Tsou youth of Taiwan (pre-1945)

 (Wikipediaより、台湾原住民の一氏、ツォウ族の青年)

 


 ある種の名物男といっていい。


 しかし当人の胸中たるや、果たしていかばかりであったろう。


 蔭ながら苦痛に思っていたのか、それとも「猿」と呼ばれた太閤秀吉の故事に倣って、なあに渡世の道具としては中途半端な美形よりこちらの方が優れていらァ、一度見たら忘れられない面だからなと、開き直りの気持ちでいたのか。


 今となっては知る由もない。台湾総督府鉄道部事務官、村儀保の真意など――。

 

 

Government-general of Taiwan

Wikipediaより、台湾総督府

 


 彼はまた、出張先でもこの外見的特徴で、思わぬハプニングを惹き起こしている。


 明治の末ごろ、フィリピンに渡った際の出来事だ。


 村儀はまず第一に、マニラの日本大使館を訪れた。挨拶を済ませて辞去せんとすると、今夜はホテル・ノワールに泊まるといい、住所は此処だ、君が行くことは既に向こうに通知してあると、いちいち手配りのいいことである。


「これは」


 かたじけなしと好意を謝して、指定された場所へ向かった。


 ところがいざフロントに立ってみるとどうであろう。受付との会話が、どうも滑らかに運ばないのだ。互いに伝えたい内容の半分も交換できていないようで、村儀は内心冷や汗をかいた。つい先年、鉄道員必携鉄道英語会話』(明治四十年)なる小冊子の編纂に関わった身であるというのに、この無様さはどうであろう。きまりが悪いことこの上なかった。

 

 

The Escolta - The Broadway of Manila (1899)

 (Wikipediaより、1899年マニラの通り)

 


 いっそ自己嫌悪に陥りそうな村儀の前で、しかし事態は思わぬ方向に急転する。


 徒労感に辟易しつつあったのは、受付も同様だったらしい。顔を顰めて振り向きざま、奥へ向かってそれは流暢な日本語で、


「旦那どうもおかしな奴が飛び込んで来ました、英語は英語らしいが、なにを言ってやがるのかサッパリ分からないので……」


 こんなことを言い出したから、村儀は顎をすとんと落とし、そのまま閉じられなくなった。


 呆然とする彼をよそに、奥からこれまた紛れもない大和言葉が跳ね返る。


「どんな男だい?」
「イヤにドス黒いからモロの土人ですかな」
「馬鹿、そんな奴ァさっさと断れ、ぐずるようなら叩き出せ」
(あっ、これはいけねえ)


 暢気に口を開けたままではまずいと、村儀保次、気付かざるを得なかった。


 このままではミンダナオとかパラワン島くんだりでコーランを崇める原住民と誤解され、棒で追われる破目になる。急ぎ舌を旋回させて、


「待て待て、お前ら日本人かい、俺は台湾の村儀だ、領事館から報せが届いているだろう」


 日本語で以ってまくし立てると、


「うへあ!」


 よほど動顛したのであろう。鳥類の叫喚ひとつを残して、受付は奥に飛び込んだ。

 

 

Agung 11

 (Wikipediaより、モロ族の男性)

 


 ――以上の如きエピソードが、大正十五年刊行、下村海南『思ひ出草』に載っている。


 これまで何度か触れてきた通り、海南は大正四年から台湾の民政長官として砕身した人物で、彼が着任した当時、この逸話はまだ十分な鮮度を保って職員の口に膾炙されていたのであろう。

 
 自然と海南の耳にも入った。


(フィリピンか。――おれにも覚えのあることだ)


 とっさに想起されたのは、ベルギー留学時代の思い出である。


郵便貯金制度の調査」という名目のもと、逓信省から派遣された海南だったが、この男が真に調べていたのはむしろ、ビリヤードの技術こそであったらしい。山田三次郎、久野安雄、松村貞雄といったような留学仲間を引き連れて、ブリュッセルの街に繰り出し、連日連夜、球を突いてばかりいた。

 

 

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 悪い遊びに嵌ったと、そういって差し支えないだろう。耽溺したといっていい。たちまち馴染みの店ができ、店主とも親しく話すようになる。


 その一軒で、あるときこんなことを耳打ちされた。

 


…主人はお前のコンパリオット――同国人――が遊びに来たといふ、人数は三四人で昨日も来た今日も来たといふ、日本人が十名足らずしか居ないブリュッセルで、吾々が知らぬ筈が無い、不思議な事だと思ふたが、たうとう或る晩に其コンパリオットなるものと落ち合ふた。主人の指す球台を囲んで成程同じ毛色眼色の男が四名計り居る、思はずツカツカと傍へ出かけて
「皆様は何日御越しになりました?」
 返事がない。
ブリュッセルに逗留して居るのです?」
 未だ返事がないウンともスンとも返事無しで、怪訝な顔をして居るから、ハテナと思ふて、
エスク・ブ・ヂャポネー?(お前は日本人?)」
 と直説法にたづねて見ると日本語が通じない筈である。
「ジュ・スイ・フィリッピン!(わたしはフィリピン人です)」(『思ひ出草』25~26頁)

 

 

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(左から、湯浅倉平、山川端夫、下村海南)

 


 海南のベルギー留学は明治三十一年から始まったこと。


 日露戦争もまだだというのに、国外に出たアジア人が日本人を名乗りたがる風潮は、このころ既に珍しくなかったそうである。

 

 

古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895-1945

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  • 作者:片倉 佳史
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江戸時代の化石燃料 ―橘南渓、越後に遊ぶ―


 橘南渓が訪れたとき、黒川村ではちょうど池の一つが売りに出されたところであった。

 
「いくらだね」
「五百両でさァ」
「……」


 ――馬鹿げている。


 と、ここが黒川村でさえなかったならば、南渓もあきれたに相違ない。

 

 

橘南谿

 (Wikipediaより、橘南渓)

 


 それだけの金を積んだなら、良田がいったい何枚買えるか。考えるだに愚かしいほどの額だった。しかも当の池ときたらどうだろう、田んぼ一枚ぶんにも満たない、小池と呼んで差し支えない規模ではないか。


 本来ならばはなもひっかけてもらえぬどころか、


 ――おのれ我を無礼なめるか貴様。


 と、喧嘩になってもおかしくはない取り引きだった。


 ところがしかし、くどいようだがここは黒川村なのだ。


 自然じねんと原油の湧き出す、日本最古の油田地帯なのである。


 江戸時代も戦国時代も室町時代鎌倉時代もすっとばし、平安時代さえ超えて、古色蒼然神さびた奈良・飛鳥朝のむかしから。この地に棲まう人々は油と水の分離法を心得て、その成果物を時の朝廷に献上し、恭順の意を顕していた。

 

 

Horyu-ji10s3200

 (Wikipediaより、法隆寺

 


 そのあたりの消息は、橘南渓訪問の、この江戸時代中期に於いてもさして変わらず。村人たちは「カグマ」と呼ばれるシダを束ねた道具で以って採油を行い、一つの池から毎日およそ二升ばかりの油を得ていたということである。


 これがいい商売になるのだ。


東遊記から南渓自身の文章を引くと、

 


…されば此辺の人は、他国にて田地山林などを持て家督とする如く、此池一つもてる人は、毎日五貫拾貫の銭を得て、殊に人手もあまた入らず、実に永久のよき家督なり。此ゆゑに池の売買甚だ貴し。

 


 まず、このような具合であった。


 今も昔も、エネルギー資源は巨万の富を齎すらしい。

 

 

Tainai City Hall Kurokawa Government Building1

 (Wikipediaより、黒川庁舎)

 

 
 南渓はまた、同じく新潟県内で、天然ガスの発火現象をも目撃している。


 というよりも、順番的にはこちらが先だ。如法寺村の火井かせいこそがすなわちそれ・・で、黒川村から南西に、だいたい65㎞ほどの地点に位置しているから、そのぶん旅の出発地点の京に近いことになる。


 以下、再び『東遊記』から引用すると、

 


…此村に自然と地中より火もえ出る家二軒あり、百姓庄右衛門といふ者の家に出る火もっとも大なり。三尺四方ほどの囲炉裏の西の角にふるき挽臼を据ゑたり、其挽臼の穴に箒の柄程の竹を一尺余に切りてさし込有り、其竹の口へ常の火をともして触るれば、忽ち竹の中より火出で、(中略)此火有るゆゑに庄右衛門家には、むかしより油火は不用、家内隅々までも昼の如し。

 


 竹をパイプ代わりに使うなど、なんとも日本的な味わいで趣深いではないか。

 

 

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「これは、いつの頃からこのように?」


 南渓の疑問に、


「正保二年三月と、そのように伝えられておりまする」


 当代の庄右衛門は、ごくさりげなく返答こたえてのけた。


(なんと、百四十二年もむかしかよ。……)


 流石に目を見張らずにはいられない。


 如法寺村の火井については、やがて葛飾北斎もその有り様を描き写し、北斎漫画』に加え入れるなど北陸屈指の名勝として声威をいよいよ逞しくした。


 明治十一年にはなんと、至尊――天皇陛下のご来臨にさえあずかっている。北陸巡幸の道すがら、めでたくも鳳駕を寄せられ給い、ご観覧あそばされたとのことだ。


 幸福な火としかいいようがない。

 

 

大江戸えねるぎー事情 (講談社文庫)

大江戸えねるぎー事情 (講談社文庫)

 

 

 

 

 
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地球の鼓動を背に聴いて ―阿蘇山中岳第一火口飛び降り事件―

 

 こんな野郎も珍しい。


 三原山の火口に飛び込み、火葬の手間を一挙に省き、文字通りひとすじの煙となって昇天する輩なら、ダースどころかグロス単位で存在していた昭和日本。


 ところがこの日、古賀某なる二十三歳の会社員が飛び込んだのは、三原山にあらずして、それより西南西の方角に800㎞ほどいったところの、阿蘇山中岳第一火口だったのである。

 

 

Mount-Aso-Naka-dake

 (Wikipediaより、2009年の中岳火口)

 


 彼が日夜起居していたのは佐賀県久留米市のうらぶれた下宿だったから、はるばる三原山まで行く手間を面倒がったのかもしれない。


 安価に近場で片付けちまえということで。


 薄明、朝靄をおしてえっちらおっちら斜面を登り、先着していた観光客を掻き分け掻き分け、最前列に出るが早いか、気合一番、えいやとばかりにI can flyをやってしまった。


 当時の第一火口というのは、湯だまりがエメラルドグリーンの淵を湛えて、白煙がまるで羽衣のようにたなびき踊るというような、現在の如き穏やかさではとてもない。飛行機上からその様子を見た海南は、「盛んに黒烟を吹きあげて、この世からなる焦熱地獄とおそれを籠めて書いている(昭和九年『通風筒』33頁)。


 そんなところに身を投げたのだ。

 

 

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(『アサシンクリード オデッセイ』より)

 


 居合わせた者の誰一人として、彼の絶命を疑わなかった。不孝者めが、若い身空で、あれ勿体なやと、そんなことばかり言いさざめいた。


 ところがどっこい、古賀青年の頭上には、悪運の星が輝いていた。


 彼は生きていたのである。

 

 狙ったわけではない。ただ我武者羅に跳ね飛んだ。にも拘らず、大地を離れた彼の身体は奇遇にも、火山灰の特に厚く堆積している場所をめがけて落下して、これが衝撃を大いに緩和、致命傷を負わずに済んだ。済んでしまった。


 さりとてまったくの無傷でもなく。古賀の意識はしばしのあいだ頭蓋骨を脱け出して、そのあたりの虚空をふよふよ漂う破目になる。


 やがて意識を取り戻したとき、この男の精神は、既に飛び降り前とは別物だった。


 あとちょっと爪先をすべらせたなら、今度こそ火口にダイブして骨も残さずこの世に別れを告げられるのに、彼はそちらに目もくれず、熔岩の冷え固まった岩壁を遮二無二攀りはじめたのである。

 

 

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 一見支離滅裂に思えるが、こういう心理的経過を辿る自殺未遂者は割合多い。


 たとえば菊池寛なども、もろにコレをテーマとした短編小説を書いている。「身投げ救助業」がすなわちそれだ。

 


 身体の重さを自分で引き受けて水面に飛び降りる刹那には、どんなに覚悟をした自殺者でも悲鳴を挙げる。之は本能的に生を慕ひ死を怖れるうめき・・・である。然しもう何うする事も出来ない。水烟を立てゝ沈んでから皆一度は浮き上がる、その時には助からうとする本能の心より外何もない。手当たり次第に水を掴む、水を打つ、あへぐ、うめく、もがく。その内に弱って意識を失うて死んで行くが、もしこの時救助者が縄でも投げ込むと大抵は夫を掴む。之を掴む時には投身する前の覚悟も助けられた後の後悔も心には浮かばない。ただ生きやうとする強き本能がある丈である。自殺者が救助を求めたり、縄を掴んだりする矛盾を笑うてはいけない。(昭和五年『無名作家の日記 他二十三篇』7頁)

 


 古賀某の内面も、だいたいこんな具合であったに違いない。

 

 

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 それにしても彼の置かれた状況は、際立って個性的であり過ぎた。


 熱気に炙られ、硫黄臭にむせびつつ、ザイルもメットも、一切の道具を身に着けず挑む岩壁登攀――。


 暴挙としかいいようがない。


 これはこれで正気の沙汰とは程遠かった。


 が、この無茶をみごと完遂しておおせたあたり、極限まで追い詰められた人間の爆発力とは凄まじい。


 いわゆる「火事場の馬鹿力」の証明だった。


 古賀が火口から這い出したとき、時刻は午後六時を少し回って、空には宵闇が満ちつつあった。


 最後の体力をふりしぼり、茶屋の扉を乱打する。応対に出た従業員がすわ亡霊かと早とちりして腰を抜かしかけたというから、彼の姿なりがどんなだったか察せられよう。

 

 

Mount Nakadake from East Hill of Kusasenrigahama

 (Wikipediaより、中岳遠景)

 


 のち、警察の取り調べに対し古賀某は、


「全く無我無中だったので、自分でもどうしたのかさっぱり分かりません。今から考へるとあの恐ろしい火口に飛び込んで、よくもはひ上がれたと不思議でなりません。思ひ出してもぞっとします」


 と供述している。(『通風筒』34頁)

 

 

 

 

 


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海南の教え ―外つ国に骨を埋めよ日本人―

 

 かつて下村海南は、日本列島を形容するに「狭い息苦しい栄螺さざえの中」との比喩表現を敢えてあてがい、いやしくも男子に生まれたからには斯くの如き小天地に逼塞するなど言語道断、よろしく気宇を大にして、思いを天涯に馳せるべし、そうしなければ嘘だろうと、筆に演壇に、事あるごとに触れて廻った。

 
 早い話が若者はどんどん国外に向けて進出せよ、シベリアの凍土から南米の密林に至るまで、地球全土に日本人の事蹟を刻み、皇威を行き渡らせるのだ、それこそ君ら世代の使命であると、青年の意気を煽りまくった。


 ありとあらゆる社会問題の根源を、急激なまでの人口増加――海南自身の筆を借りれば「人間の粗製濫造」にありと判断して疑わなかったこの男らしい物言いだろう。外に向って放出せねば、遠からずしてパンクすると本気で危惧していたことが、著書のはしばしから窺える。

 

 

Hiroshi Shimomura

 (Wikipediaより、下村海南)

 


 幸か不幸か、この男の弁舌の才は本物だった。おだてられ、うまいこと乗せられて血を熱くした若人どもは数知れず。大志を胸に疑いもなく飛翔してゆく、若鳥たちの、その中に。――窪田阡米という、たいへん読みにくい名前を持った者がいた。


「せんまい」か、「しげよね」か、それともまるで別な何かか。正味な話、この字の正しい読みは何かと訊かれても、お手上げ以外にとても答えようがない。


 まず海南にしてからが、そう・・だったのではあるまいか。護謨ゴムとか椰子ヤシとか、さほど難解でもない名詞にまでちゃんとルビを振っているくせ、この「阡米」に対しては殊更にノータッチであるあたり、頗る怪しいと疑いのまなざしを私は向ける。

 


 窪田阡米?
 珍しい名である、顔は忘れても忘れられない名である。
 その珍しい忘れられない名前の名刺が、大正五六年頃でもあったか、台湾台北なる民政長官官邸なる吾輩が卓上に通ぜられた。
 たしかに明治の末っ方、一つ橋の高等商業学校で僕の財政学の講義を聴いた、顔に見覚えないが、名前に見覚えのある学生の一人である。(中略)阡米は僕の前に現はれて、
「私は一つ橋在学中先生の絶えず日本民族発展につき述べられた講義が、最も深く胸を打ちました。先生今や任を台湾の重職につかれてる、私も三菱合資の一人として、ボルネオ島タワオの拓殖に一身を捧げることになりました。ここに謹んで御挨拶を申上げ、今後の御指導を仰ぎます」
 といふ意味の詞を述べた。(昭和九年『通風筒』12~13頁)

 

 

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 タワオ――タワウは今でこそ人口十二万の都市として一定の繁栄を迎えているが、ここに人が棲みだしたのは十九世紀の末も末、1890年代に突入してから漸くであり、それにしたって最初のうちは二百人程度の農家や漁師が細々と生活を営んでいたに過ぎなかった。


 大正五年を西暦に直すと、すなわち1916年。


 窪田阡米が乗り込んだとき、タワウはなおも未開地の面影を色濃く残し、電気・水道・ガス・道路――インフラらしいインフラもロクに見えない有り様で、開拓の苦労は尋常一様でなかったという。


 それでも石に齧りつく気合で以って苦闘すること十六年、窪田はついに自己の事業をものにした・・・・・


 彼の農園は二千四百エーカーもの広きに及び、五百人からの苦力を駆使してゴム・ヤシ・アサに代表される商品作物を盛んに産んだ。


 が、この成功は、窪田自身の寿命を引き換えにして漸く得られた観がある。

 

 

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(ゴム乳液の凝固作業)

 


 窪田阡米は、恩師に遥か先駆けて黄泉路の人になってしまった。その命日は昭和七年四月一日、享年わずか四十六歳。あまりにも早く襲い来った死であった。


 この当時、エイプリルフールの風習が日本人にどの程度浸透していたか知らないが、なんと皮肉な符合であろう。


 ところがこれで終わりではない。驚くべきことに、窪田は死後も海南の「模範的な生徒」で在り続けたのだ。かねてより海南が主張していた、「真の海外発展のためには異郷に骨をうずめる覚悟がなければならぬ」との理論。明石元二郎の亡骸が台湾に葬られる契機ともなったこの信念を、窪田もまた履行している。

 
 彼の遺骨は分骨されて、その血と汗がたっぷり滲みた、彼自身の農園中に埋められたのだ。椰子の葉そよぐその場所に、やがて有志が碑を建てた。花崗岩、それも国産品を態々取り寄せまでしての、堂々たる石碑であった。


 その碑文の末尾には、

 

 

盛衰有時
後奚云為
功徳後垂
萬人惟思

 


 との四言詩が彫りつけられていたらしい。

 

 

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北ボルネオの風景、ラジャン川の流れ)

 


 最後まで自己の教えに忠実だった窪田に対し、下村海南は当然ながら、大感動を発している。

 


 郷土愛も好い、父祖祀らるゝ地に併せ葬らるゝもよい、しかし郷土といふも時と共に移り流れる。かりに徳川幕政以降としても、右から左へと国替せられ転々移封せらるゝ各藩の人々はいづこを郷土といふべきであらう。兎角は人間其の一生を通じて尤も意義ある活動をつづけた処が葬らるべき地として考へられる。(中略)南洋タワオの窪田阡米君の碑百年の後其影を失ふか地下に埋るゝか、頽廃に委せられるか、それとも修理保存せられ、盛儀を以て祭祀がつづけられるか、それは分らぬが。百年千年の後、限りある地球に限りなく増す人口は、いかに南洋の天地の色彩をいろどってゆくであらうかは想像される。(15頁)

 


 タワウには三菱合資のみならず、久原財閥も積極的に触手を伸ばした過去があり、これら日本人の活躍ぶりを抜きにして、同市の発達を説明するのは到底不可能といっていい。

 

 

Tawau Sabah TownViewFromLA- Hotel-01

 (Wikipediaより、タワウ市街地)

 


 このあたりの消息を、昭和八年十月十七日付けの大阪朝日新聞から引っ張れば、「ここは断然日本人の街」であり支那人の排日などここでは受付けない、よくある日本人同士の惨めな張合などここでは見られな」かったのだ。


 タワウには今でも「Jalan Kuhara」なる道があり、同市最長のストリートとしてにぎわっている。「Jalan」はマレー語で「道」を意味し、「Kuhara」はむろん、久原財閥のクハラである。

 

 

 

 

 


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