穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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浪漫の所在 ―沈没船プラネット号―

 

 故郷を遥か9000マイル。プラネット号と銘打たれたその船は、1907年以降およそ7年間余に亘って赤道付近の海洋調査に従事した。


 船籍は、帝政ドイツのものである。


 当時彼らがこの一帯に保有していた植民地――ドイツ領ニューギニア――経営の一環たる施策であった。

 

 

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ニューギニア東海岸某所の景色)

 


 音響測深法いまだ無く。ワイヤーで錘鉛を吊り下げて底に着くまでの長さを測る、所謂錘測しか調査法がなかった以上、任務の長期化もやむを得ない流れであろう。ときにワイヤーを喪失する憂き目に遭いながらも、彼らは祖国のためによく働いた。それまで精々5000m程度の深度だろうと思われていた当域に、一躍8000mを超える大海溝が存在すると明らかにしたのも彼らであった。


 今ではニューブリテン海溝の名で知られるその構造は、当時ノイボンメルン海溝と称されていたものであり、プラネット号が1908年7月4日、ブーゲンビル島西海岸から100㎞沖で深度8045mを計測したことに端を発する。


 海洋地質学の発展に、プラネット号の貢献は蓋し大なりと言えるであろう。それだけに、その末路は不遇感のつきまとう、ひどく哀れなものだった。


 第一次世界大戦の勃発時にも、この船は未だ南洋に錨を下ろしたままだったのだ。既に東洋最強の海軍を持つ大日本帝国が、ドイツに宣戦布告を行っている。このあたりはもう「平和の海」とは程遠いのだ。ふと気が付けばいつ襲われるかもわからない、超危険地帯に変貌していた。


 ――おれたちはどうなるんだ。


 と、船員の誰しもが思っただろう。


 結論から言ってしまうと、どうにもならなかったのである。


 調査船に過ぎない悲しさ、速力に於いて甚だしく劣る以上、マクシミリアン・フォン・シュペー率いる東洋艦隊に合流するわけにもいかず。ヤップ島の港深くに身を潜め、祖国の勝利を祈る以外に何もできることがなかった。

 

 

Vonspee1

 (Wikipediaより、マクシミリアン・フォン・シュペー)

 


 が、戦局はドイツにとって不利に傾き。


 やがて青島要塞を陥落せしめた日本軍がミクロネシアのこの島嶼にも上陸する運びとなると、もはやこれまでと血涙を呑み、プラネット号はみずから沈没。未発表の膨大な資料諸共に、海の藻屑と化したのである。


 ところがこれで終わらなかった。数奇な運命はまだ続く。


 自沈からものの二年でこの船は、再び海上出現あらわれるのだ。日本の沈没船引き揚げ業者、「岡田組」の仕事であった。


 社長の岡田勢一は、後に「日本のサルベージ王」の異名を戴き、岸田内閣の運輸大臣すら務めた漢。プラネット号の引き揚げには彼自身先頭に立って指揮を執り、何ら遺漏なき仕事ぶりを発揮した。


 それに関して、奇話がある。船倉を検めた職員が、無傷のミュンヘンビールの瓶を夥しく発見したのだ。


「役得じゃ」


 一同、嬉々として栓を開け、中身を喉に流し込む。「よく冷えていてうまかった」と、後に座談の席上で岡田勢一は語ったものだ。

  

 

Okada Seiichi

 (Wikipediaより、岡田勢一)

 


 が、奇蹟はこれで種切れであり。


 散逸した資料の方は散逸したまま、ついぞ再び人間世界にまみえなかった。


 失われた記録――。


 不謹慎な物言いになるが、なんと浪漫を掻き立てさせるフレーズだろう。


 妄想の種とするにあたって、これほど好適な題材はない。


 正直胸が高鳴っている。中二病が再発しそうだ。大学ノートに満載された黒歴史よ。舞台が海というのも素晴らしい。クトゥルフ神話と絡めれば、割合面白い話になるんじゃないか。『Bloodborne』をプレイしながら、ちょっと構想を練ってみようか。……

 

 

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(ニューブリテン島)

 


 プラネット号は修繕の後、第八真盛丸と名を変えて、原田商事の所有下となる。

 

 名実ともに、生まれ変わったといっていい。


 大東亜戦争勃発前後まで現役で航行していたというから、もともとの設計が、よほどしっかりしていたのだろう。

 

 

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人民の 尻を蹴飛ばす 太政官 ―明治初頭の貿易赤字―

 

 前回の補遺として少し書く。


 貿易を搾取の変態と見、西洋人を膏血啜りの巨大な蛭種と看做したがる傾向は、日本人の精神風土によほど深く根付いてしまっていたらしく、維新後も暫くなくならなかった。


 明治初頭の十五年間におよそ三百五十回ほどの農民一揆が起こったが、そのうち結構な割合で、政府批難の口実にこの一件が盛り込まれている。我々の暮らしが困窮するのは、偏に浅薄な西洋崇拝に耽溺する堂上衆が、見境もなく我が国大事の資財を切り売り、要不要を分けもせず、泰西の文物を買い込むからだと。


 困ったことに、実際問題そういう側面があったことは否定できない。当時の貿易収支を一瞥すればよくわかる。

 

 

  輸出(千円) 輸入(千円) 差額(千円)
元年 15553 10693 +4860
二年 12909 20784 -7875
三年 14543 33742 -19199
四年 17969 21917 -3948
五年 17027 26175 -9148
六年 21635 28107 -6472
七年 19317 23462 -4145
八年 18611 29976 -11365
九年 27712 23965 +3747
十年 23349 27421 -4072

 (『明治大正国勢総覧』をもとに作成)

 


 輸入超過の慢性化、たちどころに瞭然たろう。


 均衡もへったくれもありゃしない、不健全極まりないこのていたらく・・・・・福澤諭吉論じて曰く、

 


 開港以来、貿易の有様を見るに、我国は常に利を失ふて、外国人は常に益を得る者多し。故に今日に至るまで、我国に貿易の成長したるに付き、其得失を論ずれば、貿易は我富有を減ずるものと云はざるを得ず。其箇条の一二を挙げれば


一、輸出品少なくして、輸入品多ければ、其出入の差は我負債たらざるを得ず。


二、輸入品は大概製造物にて、輸入品は素質の物なり。之がため我国民は、生産の利を失ひ、兼て又其技芸をも失ふに至る可し。富有の源を塞ぐ大害と云ふ可し。


三、毎年輸出輸入に差あれば、結局其差は外債となり、年々其利息を外国へ払はざるを得ず。今の外債利息も毎年凡そ二百万円に近かるべし。
(明治八年『民間雑誌 第六篇』)

 


 かといって、一揆の連中が無責任にがなり立てる「旧態への回帰」なぞ、今更できるわけがない。

 

 

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 この場合、この世界史的潮流にあって、後戻りは自殺とほぼほぼ同義であった。


 傷を負い、血を流し、肉を散らして犠牲を払いながらでも、前に向かって驀進するより生存の途は他にないのだ。「前」とは畢竟、殖産興業のことを指す。


 国家規模で工業化を推し進め、舶来品に互せるだけの代物を産む。何のひねりもない発想だが、それだけに王道とも言い得よう。現に大日本帝国は、数十年がかりでこれをやり、馬鹿にできない成果を挙げた。


 このあたりの消息は、山路愛山に於いて知るのが好適だろう。名著『現代金権史』から、その軽妙洒脱な筆遣いを抜き出すと、

 


 保守党よりは質素簡易なる皇国の美風を棄てゝ、西洋の真似を致すは不都合なりと叱られ、進歩党よりも余計の世話を焼て人民の進歩を妨害するものなりと罵られたるに頓着せず、銀行も政府自ら模範を造り、製絲場も役人に於て経営し、さアどうだ、是れでも眼がさめぬか、これでも進まぬかと、しきりに人民の尻をたゝき立てたり。(33~34頁)

 


 もっともこの「尻叩き」には相当な危険が伴った。

 

 

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(官営八幡製鉄所

 


 鉄道を敷こうとしただけで暗殺者につけ狙われた、伊藤と大隈の悲惨事をどうか思い起こして欲しい。責任ある政治を行わんとする者は、大抵いつもこんな具合に袋叩きにされるのが、どうやら人の世の通則らしい。

 
 ――古今東西を通して、政治家たるの覚悟は満天下の冷罵と闘ふの一事である。


 との伊藤の言は、一種痛切な響きすらもつ。


 思えば藤公の一生は、没分別漢わからずやに手古摺らされるの連続だった。その果てに、とうとう諦めの境地に達したのだろうか。


『現代金権史』からの引用、もう少し続けて、

 


 明治政府既に国家の勢力を実業世界に拡張し、自ら天下の物産機関を按排せんと覚悟し、馬を乗出したる所にて、扨顧みて此任に当るべき人物を何処に求むべきや。之を其頃の町人に求むるは、木に依りて魚を尋ねるよりも難し。(中略)世界の実業家と馬を並べて競争をなさんとならば、政府は町人よりも、寧ろ教育ある武士の方が、まだ幾分か取所ある様に思ひたり。帳面をつけ、十露盤を弾き、目前の利害を打算することは、町人の長所なれども、世界の形成を察し、外国人の傭技師を使ひこなし、西洋流の簿記法を応用し、大仕掛の大仕事をなすに至っては、どちらにしても素人ながら、町人よりも武士の方が出来さうなり。(34~36頁)

 


 一連の下りの正当性を、我々は渋沢栄一によって確認できる。

 

 

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Wikipediaより、山路愛山

 


 ――それにしても。


 と、嘆息せずにはいられない。


 幕末から明治にかけて掘り下げれば下げるほど、当時の日本が如何に累卵の危うきに在ったか、まざまざと見せつけられる思いがし、これでよく国が潰れなかったものだと感心するやら寒心するやら、ひどく錯綜した名状しがたい気分に至る。


 信心深い手合いなら、神仏の冥助云々とでも言うのだろうが。


 私はただ、明治大帝の御製を口ずさむだけにとどめておこう。

 

 

あし原の国富まさんと思ふにも
あをひとぐさぞ宝なりける
 
 
 


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「黄金の国」いまいずこ ―なにゆえ国を鎖したか―

 

 三代家光の治世に於いて、徳川幕府は国を鎖した。


 南蛮船の入港を禁じ、海外居留の日本人にも帰国を許さず、ただ長崎のみをわずかに開けて、オランダ・支那との通商を、か細いながらも確保した。


 動機は専ら、キリスト教の浸潤を防遏するため。幕府の求める治国平天下に伴天連の教義は必要ない。否、無用どころか毒煙以上に有害である。その事実は、島原の乱で十分以上に証明された。


 悪疫を持ち込むことがわかっているのに、門戸を開く馬鹿もない。


 国内を静謐に保つ便法として、それは確かに有効だった。

 

 

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(きりしたんころびの図)

 


 以上はただし、初期に限った分析だ。水が岩を磨するが如く、時代の流れに従って、鎖国の意義も変化している。


 具体的には、政治的・宗教的理由から経済的理由へと。国内宝貨の流出防止の側面が、段々と比重を増してくるのだ。


 このことは、前述したオランダ・支那との貿易額を一瞥すればよくわかる。幕府はこれにも、きちんと上限をつけていた。敢えて今風な言い方をすれば、自由貿易にあらずして、非関税障壁による保護貿易に他ならなかった。


 貞享二年(西暦1685年)にオランダ方三千貫目、支那方六千貫目と総取引額を定め置き、


 正徳五年(西暦1715年)には来航船舶数をオランダ方二艘、支那方三十艘までと限局、


 文化十年(西暦1813年)に至っては、これらを更に引き締めて、オランダ方二艘七百貫目、支那方十艘三千五百貫目まで削ってのけた。


 世論もおおよそ、幕府の施策を支持したものだ。


 江戸陽明学の魁にして数少ない貿易推進論者であった三輪執斎にしてさえも、

 


 問、銅鉄金銀を異国へ渡申候事は、捨申同然に候。いかが候はんや。曰、吾国のうちにて、東国のものを西国へつかはし候も、天より見れば同じ事に候。大やうに御覧可被成候。去ながら無用の異国のものを、日本へ買入申事、とかくいらざる事に候。況大切の金銀を、他へ遣し申候をや。(『執斎先生雑記』)

 


 と、この件に関しては灰色がかった、ひどく慎重な書き方をしている。

 

 

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(平戸オランダ商館)

 


 無理もない。日本列島の鉱業事情は、既に開府当初のそれではないのだ。汲めども尽きない無限の泉はもはや遥かな夢物語。金も銀も産出量は年を追うごとに先細り、このため幕府は度重なる貨幣改鋳を余儀なくされたものである。そしてその都度、望ましからぬ景気変動が発生し、要路を大いに悩ませた。


 ゆえに新井白石の如きなぞ、ほとんど貿易を罪悪視して憚らず、

 


 我有用の財を用ひて、彼無用の物に易む事、我国萬世の長策にあらず。古より此から我国いまだ外国の資を借らず。さらば薬材の外は、他に求むべき物もなし。海舶来らざらむ事、古の如くなりとも、我求むべき所を得べき事、其道なきにしもあらず。もしやむ事を得ざらむ所もあらむには、先王の制に、量入為出ともいふ事あれば、我国の宝貨、当世世に行ふほどをも、また毎年諸国より産し出すほどをも、其数をはかりくらべて、周山並西南外洋の国々、朝鮮、琉球に渡さるべき歳額を、酌み定めらるべき事なり。たとひ我国中にて買取所の物の価は、増し倍さむも、我国萬世の貨を傾竭して、外国に渡さむよりは、其憂は猶少しきにこそあれ。(『折たく柴の記』)

 


 怨念すら滲ませた、こんな文章を書いている。

 

 

Arai Hakuseki - Japanischer Gelehrter

 (Wikipediaより、新井白石

 


 しかしそれもやむを得ない。白石こそは、開府以来の金銀海外流出量の本格調査を敢行した幕閣だった。その結果、金だけでも130トン、銀に至っては2800トンというとんでもない数値が浮かび上がった。


 佐渡金山が四百年――江戸から平成まで――かけて吐き出した総量でさえ、金78トン、銀2330トンに過ぎないというのに、この消費量はどうであろう。


(なんということだ)


 どれほどの戦慄が、この生真面目な能吏を襲ったことか。


(このままでは、日本の富が枯渇する)


 持ち前の謹直さで信じ込んだのも無理はない。以後、白石の悲観は滔々として受け継がれ、鎖国制度の骨子にさえなってゆく。たとえば幕末、水戸の烈公斉昭が献じた『海防愚存』を覗いても、

 


…我金銀銅鉄等有用之品を以て、彼が羅紗硝子等無用之物に換候儀、大害有之小益無之候、和蘭陀之交易さへ御停止にても可然時勢に候…

 


 明らかに痕跡が見て取れるだろう。


 兎にも角にも、鎖国を単に禁教問題として捉えると、大きく実態を読み違う。このあたりの消息に逸早く気付いた外国人は、案の定と言うべきか、英国人に他ならなかった。


 初代駐日総領事、ラザフォード・オールコックその人である。

 

 

Alcock

 (Wikipediaより、ラザフォード・オールコック

 


 三年に及ぶ滞日記録を取り纏めたる『大君の都』。名著の呼び声未だに高いその中で、彼はこう述べたものだった。

 


…外国人が営業する金の大輸出は、日本政府に於て掠奪の所業となし憤懣せしのみならず、全く一国を貧弱に沈淪せしむるものとなし大いにこれを恐れたり、これ実に往時ポルトガル及びスペイン人等と交通せる時、その手に触るる所の金を輸出し当時の政府を怒らしめたると同一なりとす、当時鎖港の日本に行はれたるは、金の輸出その一因たるに相違なし、今や吾輩もまた同事件に由り同一の困難に際会せんとす、…

 


 イギリス人の観察力が如何にとびぬけた代物か、この一文からでも十分以上に窺い知れる。


 彼らはものごとの本質をよく見抜き、堅牢な現実認識の上にあらゆる事業を展開してゆく。華には欠けても、泰山を仰ぐが如き重厚さが常にある。


 たとえこの先、世界情勢に如何なる地殻変動が起き、

 

 中国が亡ぼうが、


 ドイツが亡ぼうが、


 フランスが亡ぼうが、


 将又アメリカが亡ぼうが、


 イギリスだけは相も変わらずイギリスのまま、千年先まで命脈を保っていそうな予感がして仕方ない。

 

 

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(バッキンガム宮殿)

 

 

文明此世に顕はれて、
西の大関英吉利ならば、
東は名にあふ日の本と、
いはれて見たいが精一ぱい、
なんと皆様得心ありて、
勉強せうではありますまいか。

 


 明治時代の漢詩人、石井南橋がその門下生に与えた薫陶。


 蛇足を承知で付け加えておきたくなった。


 ただそれだけのことである。

 

 

大君の都 上―幕末日本滞在記 (岩波文庫 青 424-1)
 

 

 

 


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金子堅太郎かく語りき ―憲法制定の四方山話―

 

 大日本帝国憲法起草の衝に当たった四人の男。


 伊藤博文


 井上毅


 伊東巳代治、


 そして金子堅太郎。


 彼らのうち二人までもが、昭和どころか大正の世を見るまでもなく死んでいる。


 まず井上が、肺結核の悪化によって明治二十八年に。


 次いで伊藤が、テロリストの凶弾を受け、同四十二年のハルビンで。


 それぞれ三途の川を渡らざるを得なくなり、伊東と金子の二人ばかりが、ただ地上に残された。

 

 

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(金子堅太郎)

 


 最も長命したのは金子である。彼は昭和十六年、大東亜戦争が間近に迫り、加速度的に騒然さを増す世情の中で物故した。


 享年、実に九十歳。憲法制定の内幕に関する四方山話は、専らこの金子の口から語られたという印象だ。たとえば昭和九年前後、とある講演会の席上で、彼はこんなことを言っている。


「この国に憲法を布くに当たって、最も御熱心であられた方は、伊藤さんでも大隈さんでもない。立憲政治実現のため明治大帝がお示しになられたひたむきぶりは、言葉にしようがないほどだ」


 そう前置きして、金子は話す。


 憲法制定の最終段階――枢密院での日々の記憶を。

 

 

Privy Council Meeting (Chikanobu)

 (Wikipediaより、楊洲周延「枢密院会議之図」)

 


 およそ三年がかりで作製された草案は、この機関で更にまた、半年以上の時日を費やし入念な審査を加えられる運びとなった。


 当該作業は陛下のご臨席のもと遂行されて、例外は一度もなかったという。欠席どころか遅刻さえ、陛下は無縁であらせられた。


 至尊に於いて既に然り。群臣たちに緩みがあろうはずもなく、みな必死の気迫をみなぎらせて事に当たったものだった。

 


 金子さんは語を次いでいはれた。
「嘗て或る日のこと、侍従長のあわただしく入り来り、伊藤枢密院議長に私語するのである。議長は、何事かを直ちに陛下に内奏する。陛下は相変わらず泰然自若として玉座にあらせられる。而してそのまゝに議事は進行、やうやくにして議論終結、可否採決の上、陛下はおもむろに御入御遊ばされた。こゝに於て議長は、昭宮殿下薨去の報を伝へ、聖天子が最愛の皇子の御生死の境を御意にとめられず、憲法会議に御尽瘁の尊き御心を一同に伝へた。顧問官、大臣一同、感激の涙に咽び、一人として仰ぎ見るものがなかった……」と。(昭和九年、田中龍夫著『希望の人生』121頁)

 

 

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 昭宮殿下とは、すなわち昭宮猷仁親王殿下を指しているに違いない。


 明治大帝の第四皇子で、わずか一歳にして夭折を遂げた。


 その日、明治二十一年十一月十二日。枢密院での審議期間と、なるほど確かに合致する。


 我が子の死にも動ずることなく――少なくとも外面には漣ひとつ立たしめず――、己が任を全うなさるその御姿は、勢い古武士を連想せずにはいられぬものだ。具体的な名を挙げるなら、安藤直次その人を。


 犬以上の忠実さで家康に仕えたあの男。三河武士という概念に手足をくっつけたような彼もまた、息子に先立たれる悲惨を経ている。大坂夏ノ陣の喧騒の中で、嫡子重能が戦死した。


 その旨、前線から伝えられるや、直次はほとんど反射的に、


「何を驚くことやある」


 報告者を怒鳴りつけていたという。


「侍が戦場で死ぬるのは当たり前のことではないか」


 あるいは、麾下の部隊の動揺を防ぐためでもあったのだろうか。


 やがて戦局の推移に伴い、遺体近くを通ったときも、この三河者は


「狗にでも喰わせておけ」


 と吐き捨てたきり、収容の「し」の字も持ち出さなかった。戦闘が熄んでから、はじめて声を放って泣いた。

 

 

Myogenji4

 (Wikipediaより、安藤直次の墓(右))

 


 武士道の精華といっていい。


 維新後、回天を遂げた志士たちは、年若い帝をして剛毅な気性を養わせんと、後宮制度を断然改革。女官を悉く解任し、これに代るに、島義勇の如き選り抜きの硬骨漢を以ってした。

 


 ――これ迄は女房奉書など言ひて諸大名へ出した数百年来の女権が只一日にて打消され、愉快極まりなし。

 


 踊るような文体で記録したのは、薩摩の吉井友実である。


 それからおよそ二十年。志士らの目論見、果たして狙い過たず、みごとに的を射、実を結んだといっていい。


 あくまでも安藤直次の例に擬して考えるなら。――


 明治大帝におかれては、帝国憲法の制定を、合戦以上の重大事として認識なされておられたのだろう。


 その熱心の度合いに於いて最上位とした金子の言も、蓋し至当と言わねばなるまい。

 

 

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明治神宮

 

 

あかつきのねざめ静に思ふかな
我まつりごといかがあらむと
(御製)
 


 明治四十五年七月三十日、大帝陛下崩御の日。二重橋で泣き崩れた人々の心に、漸く理解が追いついた。

 

 

 

 

 


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春風駘蕩インフェルノ

 
 春の足音は恐怖でしかない。


 花粉が飛散するからである。


 涙と洟とあと色々で、顔面がグッチャグチャになるからである。


 今日も朝から頭が重い。


 ティッシュペーパーの使用量と反比例して磨り減る鼻下の皮膚層が、またぞろ神経をささくれ立たせる。


 ああ、ジェノサイドの巻物が欲しい。


 もし今、アレが手元にあったら、躊躇いもなく力いっぱい杉の木めがけて投げつけるのに。


 山の保水能力も、生態系のバランスなぞも知るものか。洪水も山崩れもどうだっていい。それよりこの痒みを止めることこそ先決だ。……

 

 

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長谷川哲也著『ナポレオン ―獅子の時代―』より、マラー)

 


 ヤケクソもいいとこと自覚している。


 こういう精神状態で、実のある読書が望み得られるはずもない。


 せっかく『秘録 石原莞爾を入手したのになんたることか。視線紙背に徹するどころか、ただただ紙面を上滑りしている印象だ。文字を追おうとすればするほど、徒労の感が強くなる。

 

 

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 インプットがこんなザマである以上、アウトプットが滞るのも道理であって。


 いやはや、気が滅入ること滅入ること。杉村楚人冠が社説欄に書きつけた、

 


 時には、世界中の人間が皆ことごとくこのおれ一人をいらいらさせる為に生れて来たのではないかと思ふことがある。(『十三年集・温故抄』290頁)

 


 との一文に、つい共感してみたくなる。


 そういえば同時代の大衆作家の随筆に、花見の誘いを


「植物の生殖器をありがたがって拝むような阿呆がいるか、この助平野郎」


 と、えらい剣幕で突っ撥ねるつむじ曲がりの姿があったが、ひょっとするとあの彼も、花粉の齎す苦しみに呻吟している同士だったのやもしれぬ。

 

 

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(自転車に乗る楚人冠)

 


 状況は未だ前哨戦。本格的な飛散のはじまる三月以降、我が粘膜がどうなるか。想像するだにおそろしい。

 

 

世界最終戦争 新書版

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酩酊小話 ―口噛み・猿酒・古い酒―

 

 あるいは引っ掛け問題として、漢検にでも出題されたためしがあるんじゃないか。


「酒」の部首はサンズイではない。


 とりである。


 こいつをパーツに含んだ文字は、大抵酒か、さもなくば発酵製品にかかわりが深い。


 酌、酔、酩、酢、酪、醤あたりが代表的だ。「醵」「酋」なんかもまた然り。寄付金集めの古風な呼び名を「醵金」というが、本来「醵」の字はただこれだけで「金を出し合って酒を呑む」という意味を持つ。

 

 

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「酋」の方もよく似たものだ。「酋長」といって、専ら未開部族のオサを指す単語に用いられるが、実はこれ一文字だけでも「よく熟した酒」を表している。


 飲酒によって得られる酔いは、屡々神秘体験に役立てられた。


 祭政一致の原始社会では、王は同時に神官でもある。よりよき酒を醸せること、すなわちより強烈に神と繋がる能力こそが、オサとして推戴される第一要件だったとしても、不思議がるには及ぶまい。


 現に戦前、台湾北部に麹づくりを酋長から酋長へ、一子相伝の秘法として継承してきた部族が居ると、住江金之なる醸造学者が報告している。


 住江金之、後の東京農業大学名誉教授。同校に醸造学科が設置された際、初代科長を務めた男。


「酒博士」の異名が示すそのままに、紛うことなき斯道の権威といっていい。


 この人はやはり台湾で、口噛み酒を賞味もしている。そう、簡単に作れる利点から、『天穂のサクナヒメ』でもさんざん世話になったあの酒だ。

 

 

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 協力してくれたのは、台東県を縄張りとするプユマ族。漢字では「卑南」と書くらしい。


 かつての世では清朝から冊封を受け、卑南大王を名乗り、威を逞しくした人々である。


 それだけに文化水準も割合高く、平素嗜むための酒は輸入した支那麹を使って醸し、古式ゆかしき口噛み酒は、祭礼用の「特別品」に化しきっていた。


 その場に同席させてもらった格好である。

 


 私は之を実見したが、十五六から十七八位の少女が集り、少し柔かく炊いた飯を三本の指で撮んで口に入れる。永く噛んで甘くなったところで平たい笊(笊ではあるが笊目に生甘藷をすりこんで水が洩らぬ様になって居る)に吐き溜めておく、一昼夜位してから飲用するのである。私の飲んだところでは粥状をなし、甘さも甘酒程度で、まだ酒精分は殆どなかった。(昭和五年『酒』21頁)

 

 

Puyuma people in 1897 (No.7782)

 (Wikipediaより、盛装したプユマ族の青年)

 


 口噛み酒と相並んで原始的な酒といえば、やはり「猿酒」が頭に浮かぶ。


 野生の猿が木のうろ・・等に貯めておいた果物が、自然じねんと発酵し、やがて酒気を帯びるのだ。


 つまりは偶然の産物であり、お目にかかれる機会は滅多にない。


『隻狼』では火を吹くほどに辛い酒、すなわち「修羅酒」として描写されたが、信州伊那の民族学者・向山雅重の報告は違う。およそ真逆の性質を持つ。

 


 明治四十年代のことだった。白骨温泉の新宅の老人から猿のつくった酒を御馳走になったことがある。
 甘い、アルコール気分がない、甘ったるい、水飴でもないが、酒とより思へぬもの、味醂でもなく、とろんとしてうまいもので、一寸赤みのある、ぶだう・・・のやうななんとも判断できぬ色であった。やまぶだう、あけび、ごむし(まつぶだう)、ひえだんご、これだけは確かに入ってゐると思ふ。(昭和十六年『山村小記』65頁)

 

 

Sirahone spa kyoudou-noten-buro 2008

 (Wikipediaより、白骨温泉

 


 まあ、しょせん猿の拵えるものだ。


 一定の規格なぞあるはずもなく、地域によって味が異なるのは当然といえる。


 だいたい葦名の猿とはなんであろう、巧みに二刀を操って狼を膾に刻んだり、首を斬り落としても動きを止めず、どころかいよいよ暴威を逞しくして攻めて来たりする、異類中の異類ではないか。


 あのいきものに、普通を求めた私の方が愚かであった。そりゃあ修羅酒程度醸すであろう。まったくあの土地一帯は、風雪までもが殺気を帯びて吹きすさぶ。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210210171121j:plain

(石和の街より白嶺三山を望む)

 


 なにやらひどく脱線してきたようなので、このあたりで切り上げる。


 酒を語ると大抵いつもこんな具合に話頭の目まぐるしい転換を呼び、全体のまとまりを欠くのが私の癖だ。


 酔っ払いの千鳥足でもあるまいに。落ち着けないものである。

 

 

 

 

 


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夢路紀行抄 ―そうは問屋が卸さない―


 夢を見た。


 とち狂った夢である。


 紅魔館の庭先で、十六夜咲夜紅美鈴が相撲をしていた。


 むろん、まわし一丁の姿で、だ。


 神聖な土俵にあがる以上、当然の仕儀といっていい。


 ただ、どういうわけかカチューシャと人民帽だけは、それぞれ被ったままだった。

 

 

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(『東方永夜抄』より、十六夜咲夜

 


 私は行司役として、その取り組みをいちばん近くで見届ける栄誉に与っていた。


 恐悦至極、望外の歓喜としか言い様がない。


 飛び散る汗、紅潮する肌。裂ける天に震える地。


 実力は割と伯仲していた。


 人とあやかしの間には相当以上の身体的能力差が存在していて然るべきだが、そのあたりの懸隔をどう埋めたのか。弾幕ごっこやルール無用の殺し合いならともかくとして、相撲のルールに則る以上、メイド長の不利は本来覆うべくもない筈なのだが。


 まあ、夢の話だ。整合性を求めるだけ野暮だろう。


 決着の前に目を覚ましてしまったゆえに、どちらが勝ったかは分からない。


 とうとう頭がイカレたかと自分自身に辟易しつつ、目覚まし時計を引き寄せる。


 設定した時刻まで、まだ三時間以上の猶予があった。


 起床するには早すぎたのだ。目を閉じ、意識を手放して――私は再び、夢を見た。


 今度のは、砂の国の夢である。

 

 

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(『アサシンクリード オデッセイ』より、小エジプトの風景)

 


 ピラミッドが建っていた。


 現実のそれとは大きく異なり、全面化粧石に覆われて、白堊にまばゆく輝いていたのはアサシンクリード オリジン』による影響だろう。


 その足元では、異変が進行中だった。


 とんでもない数のようがんまじん――左様、『ドラクエ』シリーズお馴染みの、手と顔だけを地面から露出させたあのモンスター――が寄り集まって、基底部を融かさんとしているのである。


 その情景を認めた瞬間、私は恐怖にすくみ上った。


 自分でも、何があんなに恐ろしかったかわからない。意味不明の衝動だった。脊髄をゴボウさながらに引っこ抜かれて、氷水に浸け込まれでもしたかの如き戦慄だけが確かであった。


 その印象があまりに強烈すぎたゆえ、あとの記憶はバラバラである。ピラミッドの中に入って、土産物屋で財布を開けたら三千円しか入っていなくて気まずい思いを味わったとか、病院を思わせる通路の先で誰かと会った気もするが、いずれも千切れ千切れの断片に過ぎず、どういう順序だったかも今となっては曖昧だ。


 目覚めてから暫くは、脳がスポンジにでもったかのように思考能力が鈍かった。


 ――いっそのこと、二度寝などせず。


 一度目・・・で起きていた方がマシだったかと、胡乱なあたまで考えた。


 実際問題、後味の良否を論ずるならば、そちらの方が遙かに上等だったろう。

 

 

Tamura Jinja, Takamatsu 05

 (Wikipediaより、土俵)

 


 すぐに眠り直したところで、夢の続きに飛び込めるとは限らない。ときにはまるで別種の演目が上映されることもある。


 貴重な教訓を手に入れたとでも考えようか。

 

 

 

 

 


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