穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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英雄的独裁者 ―特派員の見たトルコ―

 

 1927年10月28日、トルコは死の如き静寂に包まれた。


 政府がその威権を発動させて、全国一斉に外出禁止をいたのだ。


 目的は、戸口調査こそにある。


 オスマントルコ時代に行われていたような不徹底さを全然廃し、今度こそ完全に己が姿を直視せんと、当局者たちはよほどの覚悟で臨んだらしい。そのことは、医者や消防隊といった急を要する職種の者まで例外とせず、所帯表の取り纏めが終わるまで、断固として戸外に出るを禁じたという一事からでもよくわかる。


 よほど強力な中央集権が前提になくば、とてもやれない措置だろう。


 幸いこの時期のトルコにはムスタファ・ケマル・パシャという英雄的独裁者が君臨しており、この試みは成功裡に終始した。

 

 

Atatürk Kemal

 (Wikipediaより、ムスタファ・ケマル

 


 弾き出されたトルコの人口、千三百六十六万二百七十五名なり。


 そのうち農業に従事する者、九百十四万五千人に上るというから、当時のトルコは凄まじいまでの農業国といっていい。比率に直せば、全人口の六割七分が「農」に携わっていた計算だ。


「その重大な農業が」


 極めて粗雑な方法で処理されているのだから気の毒千万なものである、と。


 大阪朝日新聞特派員、高橋増太郎は肩をすくめて報告したものだった。


 1931年、彼が著した『国富増進と産業の発展』によるならば、「農作物の生育する土地に種子を蒔き一年中五、十月に降る降雨によって収穫を待つのみで、雑草を刈ることもなく灌漑工事を施すには余りに資力がなく採算がとれない。自然を征服するための方法は一切講じてなく、また及びもつかないことだから、雨量の少ない年は一溜りもなく不作に泣き、牛を売り羊を手放して生活する外はない」というのが所謂「トルコ式農法」の赤裸々な姿であったのだ。


 高橋はその責任を、「その昔スルタンが豪奢を極め国民から膏血を絞り取るのみで農奴の進むべき途を教へなかったのみならず、農業施設の発達を顧みなかったこと」、すなわち前時代の支配階級の怠慢ぶりに見出している。


 で、あるならば。オスマントルコの死灰から不死鳥の如く若々しいトルコ共和国を誕生せしめたケマル・パシャが、これを見逃す筈もなく。


 改革の波を及ぼさんと、随分骨を折っていた。


 その一環として、ガジ農園の名は永遠に記憶されていい。

 

 

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(ガジ農園遠景)

 


 首都アンカラの郊外に存在していたケマル自身の所有地で、その面積は4000ヘクタールもの広大さに及んだという。


 和田民治がジャワ島に築いた農園――ニャミル椰子園の、ほとんど二倍の規模に当たるのだから大したものだ。


 ケマルはここの経営のため元アンカラ農学校長ターシン・ベイを引っ張ってきて、年々巨額の資金を投じ、アメリカ式のドライ・ファーミング・システムによる麦や果樹の栽培実験に取り組ませていた。


 ばかりではない。


 毎週休日にはアンカラから農園まで直通の特別列車を運行せしめ、都人を大いに迎え入れ、彼らの心を飽きさせないよう動物園や遊園地まで造ったあたり、ケマルという人物は宣伝の妙を本当によく心得ていた。


 山本五十六が言ったところの、


「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」


 を、これ以上なく体現したものだろう。


 見学に訪れた高橋もその手の込みように驚くを通り越して唖然とし、


「パシャの道楽にしては誠に思ひ付きなよい道楽ではある」


 兜を脱いで褒め称えるより他になかった。

 

 

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アンカラ市街)

 


 建国当初のトルコの農地、ざっと六百万ヘクタール。


 ゆくゆくは、これを三千万ヘクタールまで拡げるのだと。


 勇壮無比なスローガンをぶちあげて、ケマルは多くの手を打った。


 灌漑工事や種子の配布、その他農業促進事業のために、1929年だけで五千五百万リラの予算を割いたし、また一方では三百万リラの資本金で農業銀行をアンカラに設立、支店を全国に展開もした。


 その結果はどうであったか。


 2011年の段階でトルコの農地は三千八百二十七万ヘクタールを記録しており、建国の父の見た夢を、十分以上に実現させた。

 

 

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トルコ共和国議事堂)

 


 ムスタファ・ケマル「最も有能な独裁者」として青史に不朽の名を留めている。


 おそらくは、地上にトルコの在る限り、彼の威光が曇ることはないだろう。

 

 

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山吹色の幻夢譚 ―昭和七年のゴールドラッシュ―


 昭和七年はゴールドラッシュの年と言われた。


 水底みなそこに沈んだ宝船、山奥に秘められし埋蔵金、海賊どもが無人島にたっぷり集めた略奪品――。


 未だ見ぬ幻の黄金を求めて。遥かな時の砂の中から我こそそれを掘り出さん、と。日本全国津々浦々、誰も彼もが寄ると触るとその話題で持ちきりで、度を失った狂奔ぶりは、恰も熱病の集団感染の観すらあった。


 必然として、この状況を利用しようと企む連中が出現あらわれる。


 金貨やプラチナを満載したまま日本海海戦の砲火に沈んだナヒーモフ号引揚會を皮切りに、


 リューリック号、スワロフ号、アンナ・ローザンヌ号、神力丸の金塊引揚げ、


 小栗上野介赤城山麓に隠したという金塊探し、


 猪苗代湖に沈められた葦名勢の大判小判、


 果ては新興宗教「明道會」のお告げに基くロマノフ王朝の遺産探しに至るまで。


 まったく「雨後の筍の如く」としか表現の仕様が見当たらぬほど多種多様なプロジェクトがごく短期間中に動き出したものである。

 

 

AdmiralNakhimov1890Yaponiya

 (Wikipediaより、ナヒーモフ号)

 


 彼ら「黄金探索団体」の株券が世間に対して発揮した吸引力は物凄く、もはやダム穴以上であった。


 晴れて金塊が発見された暁には、投資した額の数十倍数百倍をお返しする――。


 そんな謳い文句を武器として、いったいどれほどの人心を幻惑したのか。


 以下の数字でおおよそ察しがつくだろう。


 ナヒーモフ号……三十三万千八百円
 リューリック号……六十二万百二十円
 スワロフ号……五十七万三千四百円
 アンナ・ローザンヌ号……三十六万五千四百円


 沈没船関連だけでも百七十九万七百二十円を計上している。


 現代の貨幣価値に換算して、ざっと三十六億円という途方もない額である。


 昭和恐慌経験直後の日本社会、「殺人的不景気」にさんざん苦しめられた人々が、どうしてこうもあっけなく財布の紐を緩める気になったのか。


 摩訶不思議としか言いようがない。

 

 

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 カネの香気を嗅ぎつけて、終いにはカナダ人まで株式募集にやって来た。


 かつてカリブ海を荒らしまわった大海賊、エドワード・デイビス


 彼が中米沖の無人島、ココ島に隠した金銀財宝を掘り出すという。


 同島にはかねてより多くの財宝伝説が渦巻いていたが、今回我々がキャッチしたのは非常に確度の高い情報で、発見は九分九厘間違いない。間違いないが、もしも万一ハズレであっても損はないよう二段構えの手を打ってある。


「それはこの歴史的大捜索の一部始終をフィルムに収め、血沸き肉躍る壮大な映画に仕立て上げ、世界の各都市で興行する計画だ。それだけでも出資額を取り戻すには十分という計算だから、どうかご安心下されたく」

 
 事実として遥かな後年、ココ島をモデルに撮影されたジュラシック・パークが大ヒットを記録したから、まんざら無謀な試みとも言い切れない。


 とまれバンクーバーの「有志団体」がこの話を持ち込んだのが、昭和七年八月のこと。


 それから僅か一ヶ月を出でぬ間に二万五千円を掻き集めたというのだから、ゴールドラッシュの狂熱は、まだまだ日本列島に充満したままだった。

 

 

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(ココ島財宝発掘株券)

 


 国民が白昼夢から醒めるには、翌昭和八年九月十三日まで待たねばならない。


 この日、ナヒーモフ号引き揚げのため募集された三十三万円の内、およそ三万円が使途不明になっているということで、会計理事の席にあった牧田弥太郎弁護士が警視庁捜査第二課に召喚された。


 そのどよめきも未だ去らない、同年十二月十一日。今度はアンナ・ローザンヌ号引揚會が摘発される。


 実はアンナ・ローザンヌ号なんて名前のフネは最初から地球上に存在しない、まるきりデタラメの作り話で、集めたカネは悉く、幹部の私腹を肥やすために使われていたと発覚したのだ。


 更にもう一つ年を跨いで、昭和九年三月二十七日。スワロフ号引揚會にも検察当局のメスが入れられ、三十数万円にも及ぶ、幹部連中の「使い込み」暴露と相成った。


 この時点でもう世間の熱は秋の湖水よりも冷ややかなものになってはいたが、それでも一縷の望みをリューリック号に繋ぐ者も少なからず居たという。


 なにせ、この會の會長を務めているのは押しも押されぬ代議士先生、小泉又次郎その人なのだ。

 

 

Matajiro koizumi

 (Wikipediaより、小泉又次郎

 


 第八十七~八十九代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父に当たる人物である。


「いれずみ大臣」の声望は偽物ではなく、四つの引揚げ団体のうち最大額の六十二万百二十円を集めたという点からも、信頼の厚さが窺えるだろう。まさか「いれずみの又さん」が、わしらを騙すはずがない――。


 が、結局リューリック号も駄目だった。七万円の使途不明金が発見されて、小泉はその償いに、無用な手傷を負う破目になる。


 ――斯くの如く。


 昭和七年に立ち現れて、瞬く間に世を席捲した華麗な夢は、畢竟巨大な幻滅のみを残して去った。


 なんともはや、悲愴とも滑稽とも言いようがない。

 

 

 

 

 


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南の島のレッド・パージ ―緑の魔境の収容所―

 

 ある日、牛が盗まれた。


 ジャワ島東部、日本人和田民治が経営するニャミル椰子園に於いてである。

 
 これが日本内地なら、迷わず警察に通報する一択だろう。一時間もせぬうちに附近の交番から巡査が駈けつけ、同情の意を表しながら現場検証に取り掛かってくれるはず。その程度の機能及び構造は、当時に於いて既に確立されていた。


 が、ここはオランダの植民地、南洋遥かなジャワである。


 この地を統治するオランダ人は、牛泥棒程度でいちいち真面目に動かない。理由は彼らの怠慢というより、政府の方針からしてそうなのだ。原住民同士の面倒は原住民同士でカタをつけろと言わんばかりに、村長に巨大な権限を投げつけ、事の処理を一任していた。

 


 村長は警察権を具有し、部下の区長や区長の下に働く村役人を使って犯人の捜査、検挙、逮捕、監禁をすることができる。
 村長には任期がなく、また、村会といったやうな機関もない。従って、一度選挙されると、所謂萬年村長で、百姓一揆でも起さない限り、村民の意志で辞職させるわけには行かないのである。(中略)だから、村長は敏腕家よりも人格者、学問はなくても徳望のある人物が選ばれる。(『蘭印生活二十年』23~24頁)

 

 

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(蘭印総督府

 


 農園経営者に対しても、これとほぼ同等の権限が付与されていた。


「犯人の逮捕、監禁、捕縛、及び家宅捜索等の一部の警察権が与へられて」いたのである。


 にも拘らず迂闊に警察を呼んだりすればどうなるか。怠慢は却ってこちらの方だと看做されかねない。自分の義務を果たそうともせず、他人ひとに泣き付き世話を焼いて貰おうとばかり考えている横着千万な寄生虫野郎の烙印を押され、白けた視線を向けられるのだ。


(こんな独立心のないやつが、事業で成功するわけがない)


 どうせやいなくなるだろうと、そうした予測も手伝って、真面目に骨を折ってやるのが馬鹿らしくなる。


 こんな態度の警官に捕まる犯人が居るのなら、そいつはよほど間の抜けた、服を逆さに着ても気付かぬような頓馬な奴に違いない。だから、

 


 吾々の農園でも、隣の農園でも、随分牛泥棒に遭った。然し、吾々が主となって捜査検挙に努めない限り、警察の手で犯人を逮捕したことは一度も無いのである。(130頁)

 


 まこと驚くべきことに、ジャワ島では二十世紀初頭に於いても自力救済の原理が遺憾なく適用されていた。

 

 

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(ニャミル椰子園の事務所)

 


 結局和田は信用の置ける幾名かの労働者を選出し、所謂「捜査チーム」を結成、自らは馬上の人となり、集落に対する大規模家宅捜索を指揮したというから、いよいよ時代的である。


 甲斐あって、とある家の出刃包丁に濃厚な生肉の臭いがこびりついているのを発見。附近の藪を隈なく調べているうちに、とうとう水煮した大量の牛肉が発見される次第となった。


 ここまで証拠が揃った以上、知らぬ存ぜぬは通らない。容疑の一家はほどなくして自白した。


 この話はこれで一応、めでたしめでたしと相成るが――では、斯様に警察権を民間に委託する以上、オランダ人の警官とやらは何のために存在するのか? ただの単なる無駄飯喰らいの給料泥棒に過ぎないのではあるまいか? 当然発生するこの疑問についても一言しておかねばなるまい。


 結論から言うと、上の批難は当たらない。彼らは彼らで、果たすべき重要な役がある。


 共産主義者を地獄送りにすることだ。

 

 

PKI-1925-Commisariate Batavia

 (1925年のインドネシア共産党

 


 赤色分子の跳梁跋扈を許さないという点に於いては、彼らはまったく人変りでもしたように、「実に峻烈であり真剣」になる。

 


 ジャワには、野外巡査と云ふ、軍隊式に訓練され、小銃、ピストル等を持って自転車で駈け廻る一隊の警官がある。共産主義者の容疑者でも、農園に逃げ込んだとなるとオランダ人の指揮する六七名の野外巡査が早速やって来て、二日も三日も園内の村々を捜査する。苦力頭の協力を得て、新顔の苦力を一々点検するなぞ、なかなか厳重である。(132頁)

 


 我が国における特高警察が、あるいは似ているかもしれない。


 もっとも大日本帝国の場合、銃火器武装しているのは専ら共産主義者の側であり、特高はほとんど徒手空拳でこれに立ち向かうことを余儀なくされたが。昭和三年十月二日、共産党の大物・三田村四郎高木巡査部長の右こめかみに叩き込んだ弾丸は、当時に於いて最高水準の精巧さと謳われたドイツ軍器工場製十連発モーゼルから発射されたものだった。


 手術の結果、高木巡査部長は辛うじて一命をとりとめはしたものの、後遺症は重大で、ほとんど廃人同然の姿と化してしまったという。


 ジャワの野外巡査など、恵まれたものだ。彼らは身の危険を感じるや、すぐさま獲物をぶっ放し、事の解決を図ることができたのだから。

 

 

Mitamura Shiro

 (Wikipediaより、三田村四郎)

 


 投降した共産主義者に対しても、オランダ政府は日本ほど甘くなかった。


 彼らを以って遇するに、特別な収容所を用意した。――ニューギニア島の遥か奥、ディグル河をずっとずっと遡行した果て、「タナメラ」と呼ばれる緑の魔境の真っ只中に。

 


 此処は、全く蛮界の真中で周囲は幾百里と続く大森林、而も東南西の三方向は、ワニの沢山居る、二つの大河に挟まれた平坦な沖積土の森林地帯であるから、米、玉蜀黍、砂糖黍を始め、凡ての農作物が肥料なしに穫れる誠に有望な土地で、その上、北は遠くオランエ・ナッソー山脈に遮られ、犯人の絶対逃亡の途なき要害の地である。(132~133頁)

 


 このタナメラに比べれば、たとえ網走監獄だろうと高級リゾートホテル程度に感ぜられるに違いない。


 1926年だけでオランダは此処に800名以上の「革命家」を叩き込み、開墾作業に使用した。


 斯くも徹底的な取り締まり体制が敷かれたお蔭で、和田民治はその二十年余に及ぶ現地生活の間じゅう、あの厄介な労働争議というものを滅多に視界に入れずに済んだ。

 

 

 


 現在こころみにタナメラをグーグルマップで調べてみると、羊腸たるディグル河のほとりにタナ・メラ空港なるものが見いだせ、更にその周辺に目をやれば、スーパー・コンビニ・ショッピングモールにネットカフェと生活のための設備が整い、歴とした「街」として発展したのが確かめられる。

 

 ただ、周囲の鬱蒼たる大森林を見る限り、相も変わらずワニの出没率は高そうだ。

 

 

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切腹したがる子供たち ―志村源太郎・岡本一平―


 志村源太郎という男がいた。


 山梨県南都留郡西桂村の産というから、神戸挙一の生まれ故郷たる東桂村とはごく近い。


 ほとんど袖が触れ合うような隣村関係といってよく、志村が日本勧業銀行総裁に、神戸が東京電燈社長の椅子に就いて以降は、互いに意識し合うところが大きかったに違いない。


 この両人は、年齢までもがほど近かった。


 1862年生まれの神戸に対し、1867年生まれの志村。共に御一新以前の年号であり、甲斐絹の取り引きでさんざ儲けた家系の裔である点も、いよいよ似ている。


 その財産が父の代にてきれいさっぱり雲散霧消したところまで神戸と志村は共通しており、ここまでくると瓜二つとしか言いようがない。天の作為を、ふと疑いたくなるほどだ。

 

 

SHIMURA Gentaro

 (Wikipediaより、志村源太郎)

 


 さて、そんな志村源太郎だが。


 実を言うとこの男、小学生の時分に自殺未遂を起こしている。


 原因は、父との確執だったらしい。


 父の宇平は昔気質の男であって、新時代の気風というのがどうもいまひとつ理解できず、これを軽佻浮薄と見、息子がその色に染まってゆくのがなんとも耐え難く不気味であった。


 不快さが募るあまり、とうとう彼は除染作業に手を出した。息子が学校から帰宅するなりその首根っこを掴まえて、文机の前に座らせ、彼自身が講師となって「昔ながらの教育」を施すことにしたのである。


 教本は、むろん古式ゆかしき四書五経に他ならなかった。


(なんということだ)


 この漢学教育ほど、少年期の志村にとって辛いものはなかったという。


(今更こんなものが何になる)


 どうもこの人物は、儒教が伝える古聖賢の言ノ葉にまるで感動できない体質らしい。必然としてその説くところはつまらなく、しかしそのつまらない条文を暗記することを余儀なくされる境遇に、次第にフラストレーションが溜まっていった。


(――いっそのこと)


 死のう、と意を決するまでそう時間はかからなかった。

 

 

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(志村源太郎の生家)

 


 大人と子供の心は違う。彼らはまったく、成熟した精神からは計り知れない突飛なことをやらかすものだ。


 その収拾をつけてやるのも分別のある大人の役だが、それはまあいい。


 ある晩のこと。父の寝息を密かに窺い、彼の意識がすっかり眠りの底に沈んでいると確信した源太郎は、呼吸いきを殺して箪笥を漁り、目的の物を手にとった。


 刃渡り一尺少々の短刀である。


 見た目よりもずしりと思いその鉄塊を胸に抱えて、少年は夜の闇を行く。やがて居間へと到達すると、思い切ってもろ肌脱ぎの姿になった。


 腰を下ろし、小さな腹を撫でまわし、鞘を払って露わになった切っ先で、そのあちこちを突っついてみる。死ぬにしても、苦しみは少ない方がいい。なるたけ痛くないところを探す心算であったのだ。


 ところがどれほど探しても、痛みを伴わぬ部位はない。なんだか志村はあほう・・・らしくなってきた。


(やっぱり生きている方がいいなあ)


 最初の意気込みは何処へやら、ぱちんと刃を鞘に納めて。


 気付けば志村は、また息を殺して箪笥を開き、短刀を元あった場所にしまい直していたのであった。

 

 

ChestOfDrawers

 (Wikipediaより、たんす)

 


 以上の如き経験を、漫画家の泰斗・岡本一平も少壮時代に積んでいる。

 


 一体おやぢは、僕を絵描きにする積りで居るが、僕は元来、絵なんかを軽蔑し切ってる。さればと云って、之に代るべき自信のある才能一つも、僕に見出せない。
 思ひ悩んで、今は憂鬱に浸るのが唯一の慰めとなった。時々捨鉢になって、自らを汚す肉欲の奴隷となる。そして後で、いたく良心に身を責められる。神経衰弱になって死に度くなった。自殺を決心した。
 遂にある夜、市ヶ谷八幡の丘へ上って、短刀を腹へ当てゝ見た。痛いや。命は惜しくないが、痛いのには困った。(『一平自画伝』)

 

 

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 父親との意見の違い、短刀による割腹自殺、痛みによって敢然意を翻す――。


 両者の行動は鏡写しにしたように、同一軌跡を描いているといってよかろう。


 もっとも岡本は正直な男で、己が心の深淵につき、最後にこのように付言するのを忘れなかった。

 


 しかしこの行為の真の動機は、僕は決して、自殺それ自身を求めたので無い、自殺をするといふ、その情緒に憧憬を持ったのだ。(同上)

 

 

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盲人による美術鑑賞 ―寺崎広業、環翠楼にて按摩を試す―

 

 箱根塔ノ沢温泉に環翠楼なる宿がある。


 創業はざっと四世紀前、西暦1614年にまで遡り得るというのだから、よほどの老舗に違いない。


「水戸の黄門」こと徳川光圀をはじめとし、多くの著名人がその屋根の下で時を過ごした。


 秋田県出身の日本画家、寺崎広業もそのうちの一人に数え入れていいだろう。

 

 

Terasaki Kōgyō

 (Wikipediaより、寺崎広業)

 


「放浪の画家」と呼ばれた彼は、しかし箱根に立ち寄る場合いつも決まって環翠楼に投宿し、ほとんど例外というものがなかった。


「絵筆を執り、丹青のわざをふるうのに、これほど適した場所はない」


 と、太鼓判を押していた形跡がある。


 肩が凝ると、按摩を呼んだ。


 その按摩にも贔屓の揉み手が一人いて、名前を時の市という。この盲人の丁寧な施術に寺崎はすっかり惚れ込んでおり、彼の指にかかるや否や筋繊維の隙間に溜まった疲労分子がほろほろと、泡の如く揉みほぐされゆく実感に、つい声を上げたくなるほどの快味を覚えることも屡々だった。


 事実、時の市が寺崎の肉体に通暁すること、あるいは本人以上に深甚な部分があったろう。どうもこの盲人は、視力と引き換えにそれ以外の感覚を鋭敏ならしめるという俗説の、生き証人の観がある。

 

 

View of Tonosawa (3110697950)

 (Wikipediaより、明治時代の塔ノ沢)

 


 それを象徴する出来事があった。常の如く施術を終えた時の市は、しかしその日に限って慣例を破り、


「ご縁があって先生の御肩を揉ませて戴いておりますが、どうでしょう、お願いすれば私のような者にも先生は絵を描いて下さいますでしょうか」


 こんなことを言い出したのである。


「ほう」


 寺崎は、驚く以上に興味を持った。


「するとアナタは、少しは物が見えるのですか」
「残念なことにちっとも見えないのです」
「絵は無聲の詩とも申す位のもので、見えなくては詰まらないでしょう」


 常識論で反駁すると、時の市は頭を振って、


「いや、先生のような方の絵の下に座っていると思うとどれだけ楽しいかと考えますので、その考えを楽しみたいのです」
(こやつ、言いよるわ)


 ひょっとすると数寄の奥にも通ずるであろう物言いに、つい寺崎の心が動いた。


 が、芸術家とは、どいつもこいつも性根が複雑に屈折しているいきものである。


 感心したからといって、それでほいほい求めに応じてやるような可愛気などは、期待する方が無理であろう。


 翌日寺崎がにっこり微笑わらって差し出したのは、何も描いていない白紙の画布に他ならなかった。

 

 

Terasaki Kôgyô Vier Jahreszeiten

 (Wikipediaより、寺崎広業『四季山水』)

 


 時の市も口元をほころばせてそれを受け取る。ところがその表情のまま、


「先生、一筆でも描いたものを頂戴したく存じます」


 みごとに真理を穿ってのけたものだから、寺崎としては大いに虚を突かれた思いがし、


「明日にでも描いておくよ」


 そう返すのがやっとであった。


 さて、動揺が去ってみるといよいよ以って不審である。


(あやつには、何故これが白紙であるとわかったか)


 こうなると寺崎は持ち前の好奇心を抑えかね、時の市がその身に秘める不思議の力の程度について、とことんまで追求してやらねば我慢が出来なくなってきた。


 で、一計を案じた。


 翌日差し出した画布は、やはり白紙のままのもの。


 しかし単なる白紙ではない。墨ではなく、水のみを筆にたっぷりふくませて、富士の姿を写し取ったものだった。

 

 

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川瀬巴水 「箱根芦之湖」)

 


 果たしてこの些細な違いに、目の前の按摩は気付くか、どうか。期待を籠めて見ていると、時の市は昨日とそっくりの微笑を浮かべ、


「先生、墨も色もないから困ります」


 といって、鄭重に押し戻してのけたではないか。


 寺崎はいよいよ感心の度合いを深くした。


 そして三日目。三度目の正直というべきか、とうとう寺崎は観念し、豪放な筆遣いのもと富士の墨絵を描き上げ、時の市を待っていた。


 やがて、来た。


(お前の勝ちだ)

 

 爽やかな敗北感すら伴って。内心、そう独り言ちつつ差し出すと、按摩はうやうやしく両手に受けて平伏し、


「誠にかたじけない次第で御座ります。家宝に致します」


 嬉し涙さえ浮かべつつ、震える声で礼を奏上したのであった。


「いや、それにしても不思議だ」


 寺崎は慌てて話頭を逸らした。最初から今日までの詳細を、どうして言い当てることができたのだろう――。


「それは先生、私がこのお部屋へ這入って参りますと、先生のお使いになる墨の香りがプーンと致します、なるほど大家の御嗜みと申そうか恐れ入ったものだと思いました。今日頂戴の紙からはその香りが強く致します。先日のは紙襞の感触で水を塗った跡をはっきり窺い知れましたが、何の香りも致しませんでした。始めの紙は襞もなく香りも致しませんでしたから、唯の白紙だとすぐ知れまして御座います」


 鍵は嗅覚と触覚にあり、と。


 数学の公式でも説明するかのような淀みなさで、按摩は言ってのけたのだった。


 なにやら道話めいた構図であるが、しかしこういう風景がごく自然に成立するのが明治人の人情というものやもしれず、それを想うと隔世の感が沛然として胸に溢れる。

 

 

Terasaki Kogyo Vier Schluchten

 (Wikipediaより、寺崎広業『溪四題』)

 


 大正六年、寺崎広業は帝室技芸員に抜擢されて、斯界の最上段に立ちながら、直後唐突に病を得、同八年に逝去する。


 享年、54歳に過ぎなかった。


 その訃報が伝えられると、箱根の街では一人の按摩が額縁入りの富士の墨絵を仏壇に掲げ、密かに焼香したという。

 

 

 

 

 


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天穂のサクナヒメ ―青木信一農学博士をかたわらに―

 

天穂てんすいのサクナヒメ』を購入した。


朧村正を夢中になってプレイした過去を持つ私にとって、決して見逃せぬタイトルである。和を基調とした世界観といい、横スクロールアクション的な戦闘といい、かの名作を彷彿とさせる要素がてんこ盛りであったのだ。

 

 

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 良き米を作ることが主人公の強化に繋がるという、あまりに独特な成長システムにも惹きつけられるところ大だった。そう、きっと日本人にはこの穀物を、一種神聖な存在として崇めたがる向きがある。今は遥かな上古の昔、稲作を以って王化の証となさしめた大和朝廷にその淵源を見出せるであろうこの偏りは、むろん私の中にもあって、そこを大いに刺激された格好である。


 ところがここに問題が一つ。


 白状すると、私はあまり米作りに詳しくない。


 素人そのものといっていい。山梨県人は半世紀前、水田の大部分を埋め立てて、以ってミヤイリガイの棲息地を物理的に消滅せしめ、風土病を克服した民族だ。


 埋め立て地は、その多くが果樹園となった。


 私の生家の周囲にも、広がっているのは桃畑か葡萄園かのどちらかであり、要するに「黄金の海」には馴染みが薄い。

 

 

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『天穂のサクナヒメ』は農林水産省のQ&Aが有力な攻略サイトとして活用されてしまうほど、その方面にこだわり抜いた作品だ。果たして私に見事な米が作れるだろうか。


 しかし心配は無用である。本棚に頼れる味方を発見したのだ。そう、明治四十四年に青木信一農学博士監修のもと出版された、『通俗農業講話』という一冊を。

 

 

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 何年か前の――今年は中止になってしまった――神田古本まつりで購入した本書をめくれば、案に違わず、米作りに関する知識がたっぷりと。苗代の作り方から田植え・草取り・害虫予防に至るまで、克明に記載しておよそ至らざるところがない。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20201113170808j:plain(螟虫の図説。稲の髄を食い荒らすからズイムシとも)

 


 明治時代の本であるゆえ、サクナヒメの世界観とも雰囲気的に近いであろう。百万の味方を得るとはこんな気分だ。不安は完全に払拭された。いざ尋常にプレイせん。

 

 

天穂のサクナヒメ-PS4

天穂のサクナヒメ-PS4

  • 発売日: 2020/11/12
  • メディア: Video Game
 

 

 

 


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続・植民地時代のジャワの習俗 ―道路・散髪・美容術―

 

 お国柄というものは、植民政策の上に於いても如実に反映されるらしい。


 たとえばオランダ人は道路を愛する。


 左様、その重視の度合いは最早偏愛としか看做しようのないものであり、このためたとえば和田民治が根を下ろしたジャワ島などは、網目の如く車道が四通八達し、ほとんど汽車を圧倒する勢だったという。


 主要幹線は悉くアスファルトで舗装され、道幅も至って広々として、極めて近代的なつくりであった。この豪華さは、当時のインドネシアの活発な産油事情と無関係では有り得ない。原料ならば、いくらでも手に入ったというわけだ。

 

 

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 街路樹としては、ネムノキが専ら活用された。この落葉高木が大きく腕を広げたその下を、エンジン音も高らかに、車で走り抜けでもすれば、たちどころに「夢の国をドライブするやうな」いい気分に浸れたそうだ。


 彼らはまったく道路に金をかけることを惜しまなかった。


 開墾に於いてもそうである。オランダ人は何より先に自動車の通れる立派な道路を一本敷かねば我慢がならない。次いで事務所を造り住宅を建て、それから漸く伐採ないし植付作業に取り掛かる。


 兎にも角にも現地に入り、粗末な開墾小屋を建て、収穫を得ながら徐々に設備の拡充を図る、日本人の常識からはおよそ真逆の段取りだった。

 


 そのために、工事の予算が狂ふと、すばらしい自動車街道と立派な住宅、事務所だけは出来上がったが、何も植ゑないうちに金がなくなって、どうにもならなくなってしまったといふ話さへある。(『蘭印生活二十年』41頁)

 

 

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(ニャミル椰子園の住宅)

 


 さて、オランダ人が敷き詰めた道。


 これを整備し、遺憾なく交通の便を保ち続ける役割は、地元ジャワ人の責務であった。


 毎週金曜、各戸最低一人ずつの人員を出し、朝六時から九時までの三時間を費やして、道路の清掃・修繕作業に当たらせる。和田民治の記述によれば、「ジモアアン」と呼称されるこの労働は、対価なしの奉仕活動に他ならなかった。

 


 このジモアアン制は、かなり昔から行はれたものらしい。山間僻地の農村にいたるまで、道路は、このやうに保護されてゐる。況んや政府が直轄する国道、県道は推して知るべきである。(39頁)

 


 驚嘆すべき人件費の安さであろう。


 まあ、それはいい。


 斯様にありがたき道のお蔭で、ジャワ島に於ける和田民治の活動範囲はすこぶる広く、ほとんど隅々にまで文字通り足跡を残すことが可能であった。


 異様なものも、掃いて捨てるほどに見た。


 たとえば散髪のやり方である。雇用主たるオランダ人の機嫌ひとつですぐ給料をカットされるジャワ人たちに、態々理髪店を使う余裕などあるわけがない。大抵は家の玄関口で、家族同士で済ませてしまう。


 が、その際に用いるカミソリこそが異様であった。


 割れたビール瓶なのである。

 

 

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 洗濯石鹸をシェービングクリーム代わりに塗りたくり、不揃いな刃先でゴリゴリやる。相当痛いのだろう、剃られている側はその間じゅう顔をしかめっぱなしであった。


 で、刃の切れ味が鈍ってくると、そこらの石に景気よくカチンと叩きつけ、新たな割れ目を拵える。和田が聴取したところによると、ビール瓶が一本あれば「大概、五つの頭は剃れる」ということだった。


 前回触れた出産・育児の情景といい、ジャワ人というのはまるで苦痛塗れになるために地上に生まれて来たかのような観がある。


 その中でも特上は、「パンゴール」と呼ばれる美容術であったろう。

 

 歯の手入れの一種であった。


 歯並びの良し悪しは見栄えの良否を占う上で、最も重要な課題の一つだ。それを矯正するために大金を投じて惜しまないのは、現代日本社会でもなんら不思議な現象ではない。


 だからやはりこの場合でも、問題となるのはそのやりくち・・・・だ。オランダ領東インド時代のジャワ人は、あまりにも乱暴な手段で以ってその目的を遂げようとする。


 具体的には、鑢で歯を削り取るのだ。

 


 トツカンパンゴールといふ専門の職人が村々を廻って来ると、五六十セント払って手術を受ける。が、これが実に凄い荒療治で、釘抜みたいなもので門歯をバキバキと缺き取り、その上を鑢でガリガリ削って歯先をそろへる。
 見てゐても痛さうだが、美人になりたい一念はおそろしい。涙をボロボロこぼしながら、がまんしてゐる。(11頁)

 

 

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(ジャワの踊り子)

 


 激痛のあまり神経性ショックを引き起こし、ついにはそれが脳貧血を誘発して卒倒する事例とて珍しくはなかったらしい。


「なまやさしい美顔術ではないのである」と、和田民治は慄きも露わに書き綴らずにはいられなかった。そんな歯では、たとえ見目麗しくとも耐久性が犠牲になるに相違なく、従って日常生活を営む上でも不便だろうに。


 美に憧れる心の前には、理屈など塵紙よろしく押し拉がれるということか。なんともはや。

 

 

   

 

 


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