穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

平岡熙ものがたり ―春畝と吟舟―


 まだある。


 洋行を通して平岡熙が積み上げたモノは、だ。


 人との縁も、彼はこのとき手に入れた。


 平岡がまだボストンで、素直に学生をやっていたころ。総勢107名もの日本人が、この大陸にやって来た。


 世に云う岩倉遣欧使節のことである。

 

 

Iwakura mission

 (Wikipediaより、岩倉使節団

 


 尊王攘夷を名目に徳川幕府をぶっ倒し、事が成るやその直後、さっそく看板を取り替えて、鎖国を解除し近代国家を目指しはじめた新政府。その手並みは鮮やかとしかいいようがないが、さて文明とは、国家とは何かということになると、どの男にも定見がない。


 海図も羅針盤もなく、突如大海原に放り出されたみずからに、漸く彼らは気が付いた。


(まずい。どうにもまずい状況だ)


 漂流の恐怖から脱出するには、せめて岸のある方角くらい知らなければどうにもなるまい。


 ということで、彼らは見に行くことにした。自分達の到達すべき「文明」とやらが如何なる相をしているか、全身で味わいに行ったのだ。


 斯くして革命直後の政権から、基幹要員がごっそり国外へ旅立ってしまうという前古未曾有の事態が起こる。


 この政治的空白が、やがては征韓論騒ぎを醞醸せしめる土壌にもなり、あの騒然たる西南戦争にまで繋がるわけだが、それはまあいい。


 とまれ、彼らは研究目的で渡航した。


 知るべきことは無限に等しく膨大で、耳が十あっても足りやしない。


 すぐに通訳に不便を来した。単純に数が足りないのである。人員を増強する必要性が生ずれば、現地の子弟に交じって学業に励む平岡なぞは格好の的。白羽の矢が立てられたのは、至極当然の成り行きだった。


 平岡はまず木戸孝允の通辞役として近侍して、その関係――長州閥――から伊藤博文と知り合う流れに。


(話せる奴だ)


 と、どうも互いに思ったらしく、みるみるうちに心通じる仲となる。


 伊藤もまた若かりし頃、海外留学を経験した男であった。イギリスかアメリカかで渡航先に違いはあれど、当時の己を顧みて、平岡が他人に思えなかったに違いない。

 

 

Hirobumi Ito 2

 (Wikipediaより、志士時代の伊藤博文

 


 岩倉使節団アメリカに、およそ八ヶ月もの長期滞在を行っている。


 その間、志を開陳する機会があったのだろう。平岡の夢が那辺に在るか知った伊藤は大いにこれを良しとして、


「君が工業を学ぶ目的は先見的で感服だ。帰朝したる暁は俺の処へ来るが宜い、何でも世話をしてやるぞ」


 ほとんど肩でも組まんばかりの岡惚れぶりを発揮している。


「これは。……」


 自己の器量をここまで見込まれ、なお澄まし込んでいられるほどに、平岡は無感動な男ではない。


 胴が慄えるほどに感動し、ほとんど二の句が継げなくなった。


 あの筋金入りの偏屈が、これはどうしたことだろう。思うに所詮、士は己を知る者の為に死ぬいきものだ。そして伊藤は平岡を、実に正しく理解した。そう考えるより他にない。

 


 このとき生じた紐帯は、ついに生涯のものと化す。

 


 こんな話が伝わっている。明治三十年代のことである。


 瓢屋なるくるわに於いて、伊藤と平岡、この両名が同席し、芸者相手のお座敷遊びに散々興じ合っていた。

 

 

Hiraoka Hiroshi4

Wikipediaより、三味線を弾く平岡) 

 


 その最中、やおら伊藤が硯を引き寄せ、延ばした紙に墨痕淋漓と、

 


位置は固より高くも荷は甚だかろ
産は営むに非ず、詩碁ふたつながら不学まなばず
禄は今受けず、質も亦置かず
蜂には藪の中で折々され
苦は常に雖不免まぬがれずといへども住は大磯の浜辺に在り

 


 このようなものを書きつけた。


 即興詩である。


 春畝――博文の號――らしい、素朴な味わいの歌だった。


 それを指に挟んで差し出して、


「平岡君、これを遣ってみてくれたまえ」


 目元に皴を溜めつつ言うのだ。


 受けて平岡、


「よござんしょ」


 我が手並みをご覧あれ、と大いに頷く。


 平岡にも意地がある。


 おれこそ当代一の遊び人という意地である。

 
 そのプライドが、彼の創造性を最大限刺激した。

 

 

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 この場合、長思案をしてはならない。伊藤侯に負けず劣らずすらすらと、一気呵成という表現がぴったり嵌る勢いで、相応しき曲譜を描き上げるのだ。


 それをやった。


 直ちに居並ぶ芸者を指揮し、演奏へと取り掛かる。爪弾かれる三味線の音、堂に入った節回し。どれをとっても一級以上の「仕上がり」である。


(流石は吟舟)


 博文は、莞爾として聴き入った。

 

 吟舟とは、平岡の號のことである。


 つまりはそういう仲だったのだ。

 

 

 

 

 


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平岡熙ものがたり ―その血筋―


 そも、平岡の家系をたどってみると、その遠祖は家康公が関八州に入府した折、江戸城御掃除番を担当していた平岡庄左衛門まで遡り得る。


河内国に鎮座まします平岡大明神に縁因ゆかりある者」


 と称したらしいが、なにぶん戦国時代の話、どこまで信用していいものか。


 兎にも角にもそれ以来、幕臣として代々禄に与り続けた。

 

 

Hiraoka-jinja haiden2

Wikipediaより、枚岡神社拝殿) 

 


 やがて幕末に逢着したとき、当主は第十三代目、平岡熙一きいちなる男。名前からおおよそ察せる通り、平岡熙の父親である。


 この男はこの男で、息子に負けず劣らずの「出世魚」に他ならなかった。一介の御家人から出発したにも拘らず、たちまち才能を見出され、御目付・御留守居役といった諸役に歴仕。ついには田安中納言――「十六代様」徳川家達の父親である――の附家老にまで登り詰め、江戸城明け渡しの談判の席にも同坐したというのだから、尋常一様の器量ではない。


 無血開城という主人の願いを叶えんがため、西郷隆盛岩倉具視といった綺羅星の如き人傑どもと、懸命に折衝したという。


 維新後は一旦静岡に隠れたが、やがて縁あって新政府に召し出され、改めて宮仕えにあくせくすることとなる。――それも枢要中の枢要、「政府の中の政府」とまで謳われし、内務省に於いてで、だ。


 この「転職先」で、熙一は内務少丞まで進んでいる。元幕臣でありながら、なんと目覚ましき出世であろう。明治九年の省内改革に際して官を辞したが、その後は安田善次郎から特に請われて、理財の事に関わった。晩年に至るまでその精力的な活動が熄むことはなく、本当に人生を生き・・尽くした・・・・漢だったに違いない。

 

 

Zenjiro Yasuda

 (Wikipediaより、安田善次郎

 


 息子熙の血管中にも、燃えるが如きその熱血は余すところなく受け継がれている。


 圧倒的といっていい、そのエネルギーの大渦に指向性が備わったのは、実に明治四年の話。このとし、十六歳になった熙は生れて初めて洋行をした。


 行き先は太平洋の向こう側、アメリカ合衆国西海岸。船上にて波に揺られること十数日、やがて着港したサンフランシスコの地に於いて、平岡青年は運命的な出会いを果たす。


 それこそ即ち、汽車だった。


 彼はこの後、森有礼の周旋もあってボストンに住む教育家某の手に預けられ、学生生活を送るわけだが、言うまでもなくボストンは東海岸に存在する都市。


 サンフランシスコとは、4000㎞以上の隔たりがある。


 膨大極まりないこの距離を、平岡熙は汽車の旅で越えたのだ。地平線まで広がる荒野、おどろおどろしい瘴癘の地。如何なる苛烈な景色の中にも鉄路は敷かれ、その上を、列車は力強く進行してゆく。

 

 

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(これか)


 これが文明か、文明というものの威力なのか――と。


 感動と共に悟らざるを得なかった。


(おれの一生は決まった。必ずや我が日本国にも、斯かる利器を齎さねばならぬ)


 一度固めた覚悟の臍は、その後決して緩むことなく。


 小学校からグラマースクールへ、更に進んでハイスクールへ通う傍ら、暇さえあれば平岡は、機械に関する書物を紐解き、内容に没頭するのを楽しみとした。


 そのくせこの男は学校の成績も高水準を維持していたというのだから、多芸多才としか言いようがない。


 順調に修学過程をクリアして、ハイスクールを卒えるのも間近に迫ったある日のこと。彼はなんと校長から声をかけられ、


「ひとつ演説をしてくれないか」


 こんな頼みを受けたのである。

 

 

Hiraoka Hiroshi1

Wikipediaより、アメリカ在留中の平岡)

 


 曰く、もうすぐワシントンの誕生日である。


 合衆国民が挙って祝うこの記念日に、我が校でも彼を讃えるスピーチが必要なのだが、今年は是非ともその大任を、


「ミスター平岡、君にこそお願いしたいのだ」


 彼の演説上手は既に学校中の評判だった。


 日本人とは思えぬほどに流暢な英語を操って、平岡が一度壇上に立つや、直後満座が沸騰するのはほとんど約束されたようなものである、と。


 そこを見込んで、校長もこの話を持って来たのだろう。


 ところが彼は平岡の気性を知らなかった。木挽町の邸で産湯をつかった生粋の江戸っ子。後に明宮殿下の御所望すら撥ね退けるつむじ曲がりが、このときも出た。


「お断りいたす」


 即答だった。


「僕は日本人だ。曾てワシントンなる者に、恩も縁因ゆかりも覚えなし。そんな相手をにわかに救世主の如く崇めよなどと、金輪際御免蒙る」


 大問題になった。


 校長は、耳の穴から蒸気を噴かんばかりに激怒した。


(人の折角の好意を、なんだ)


 可愛さ余って憎さ百倍、という側面もあったろう。


 もっともそれで大人しく縮こまるようであったなら、そいつはもう平岡ではない。吐いた唾は呑めん・・・呑まん・・・退学届けを叩きつけ、飄然と同校を去ってしまった。


 その後は職工として、各地の機関車製造所に潜り込んでいる。朝六時から夕方六時まで真っ黒になって働き続け、退勤しても休むことなく、工科大学の夜学に通って知識吸収に努める毎日。


 ほとんど人間離れした奮闘だった。

 

 

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 このあたりのやり口は、どこか「重工業王」鮎川義介を彷彿とさせるものがある。明治人らしいと言うべきか。いずれにせよ、以上の事柄を踏まえてから見た場合、明治十四年に吐いた大言壮語――お雇い外国人を全員クビにし、日本鉄道株式会社の指揮権をわたくし一手に委ねられたし――も、あながち傲慢とは言い切れなくなる。


 なんとなれば斯業に関する知識量と経験量で、平岡熙を凌駕し得る輩なぞ、欧米諸国を探しても滅多に見つかるものではなかったからだ。五年に亘る洋行で、彼はそれだけのモノを積み上げた。

 

 

 

 

 


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平岡熙ものがたり ―巾着切りか大老か―

 

 大正帝が未だ明宮はるのみや殿下と呼ばれていた年少の折。


 御巡覧あそばされた鉄道局にて、特に脚を留め置かれた一室があった。


 その部屋には、未来・・が溢れていたのである。日本どころか米国にも未だ存在しないであろう、新発想の機関車・客車・貨車の模型――。

 

 

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(岡本帰一 「桃林」)

 


(なんと)


 意匠美麗にして仕掛けは稠密。この手の品が少年の心にとりわけまばゆく映るのは、今も昔も変わらない。


 興奮した面持ちで、扈従の者を引き寄せた。


 ほそぼそと、なにごとかが囁かれる。


 ほどなくして部屋の主が呼びつけられた。彼の名前は平岡ひろし。新橋工場の設営や、東京―横浜間の複線工事で辣腕をふるった技師だった。


「殿下は其方の模型をいたくお気に召されたようである」


 このように仰せつかったならば、感激してどうかお部屋の片隅にでもと自ら差し出すのが当時に於ける常識だろう。


 ところがこの平岡熙なる男、元服前は手の付けられない悪童としてさんざん周囲をてこずらせ、


 ――善くなれば御大老にもなられようが、悪くすると巾着切りにもなりかねぬ。


 ついにはこんな評価まで世間の口に上らせたほどの逸材である。


 三つ子の魂百までも、と言うべきか。その特性が、この時も出た。


玩弄物おもちゃに拵へしものならんには献じ奉るべきが、元と日本にて初めて製造すべき為の雛型に候へば、折角の御所望には候へど」


 謹んでお断りさせていただく、といったのである。


(あっ)


 同僚たちは息を呑んだ。上司に至っては顔色もない。扈従の者は、即刻この場でこいつを無礼討ちに処すべきかどうか考えた。


 幸い殿下が聡明であり、アアソウカと未練気もなく振る舞ってくれたからいいものの、一歩間違えれば彼の首は飛んでいたろう。むろん、比喩ではなくそのままの意味で。

 

 

Crown Prince Yoshihito 1892

 (Wikipediaより、13歳の大正天皇

 


 このとき平岡がおっ広げた大風呂敷は、やがて見事に回収される。されるのだが、それにしてもこの豪胆ぶりは、「独眼竜」伊達政宗藤四郎吉光にまつわる逸話を連想せずにはいられぬものだ。


 該当部分をシグルイから抜粋すると、

 


 政宗江戸屋敷に大御所秀忠を招待した折


「上様はそなたの所有する名刀「鎬藤四郎吉光」を所望しておられる」


 前日 秀忠の側近がそう伝えた このような仕来たりがあったのである
 鎬藤四郎吉光は関白秀吉の遺品であり 将軍家に献上する宝物としてふさわしい品である


「上様に献上つかまつる品は家臣たるこの政宗が決定いたす
 それを上様の方から童子のごとくねだるとは 将軍家の威信に関わり申そう」


 これなどは目玉を食すよりも豪放な逸話であろう(七十六景「独眼竜」)

 

 

 


 ただ、平岡は政宗と異なり、その野望を存分に遂げた。


 日本最初の民間鉄道メーカーの栄誉を恣にし、体腔いっぱいに充満してはちきれんばかりに渦巻いていた創作熱を盛大に開放。心ゆくまでその精神を形にし続けることが出来たのである。


 彼の破天荒ぶりを示すエピソードにはまったく事欠くことがない。たとえば明治十四年、日本鉄道株式会社の創立にあたり、時の長官井上勝に差し出した建白書などはどうだろう。
 平岡の要求は、要約すれば次の二点。


一、日本鉄道株式会社に使用する車輌一切の設計を、拙者に一任されたく候。
一、同会社に雇聘する外国人を皆解いた上、其の監督を拙者に一任されたく候。


 独裁権の要求である。


 一から十まで、おれの好き放題にやらせやがれということだ。


 それ以外の解釈は、ちょっと下しようがない。


(なんという男だ)


 むろんこの要求は却下されたが、井上長官はただ一概に「推参なり」と切り捨てず、


「君の技倆に就ては夙に吾輩の見つゝある所なるも事情の許さざるありて今日に及べり、しかしながら将来は尚一層君の行為に注意すべければ相変わらず忠勤あらんことを望む」


 態々慰撫の一言を送ったあたり、彼は彼で人を使う要諦をよく心得ていたのだろう。

 

 

Inoue Masaru

 (Wikipediaより、井上勝)

 

 

 長者の風とはこういうものか。「鉄道の父」の異名は、なかなかどうして伊達ではない。

 

 

明治・大正・昭和 九州の鉄道おもしろ史

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東北地方地獄変・後編 ―末法世界―

 

 

…卯年飢饉に及び、五穀既に尽て千金にも一合の米も得る事能はず、草木の根葉其外藁糠或は、犬猫牛馬鼠鼬に至るまで、力の及程は取尽して食尽して、後には道路に行倒、みちみちたる死人の肉を切取食ふ事になりけるに、是も日久しく饑て、自然と死したる人の肉ゆえ、既に腐たる同然にて、其味甚あしく、生きたる人をうち殺し食ふは味も美なれば、弱りたる人は殺して食ふも多かりしなり。

 


 宿の主人は訥々と語った。まるで腹の底に溜まった「何か」を、少しづつ千切り捨てでもするかのように。


 それも仕方ない――話す内容が内容である。


「この近くにも家人ばたばたと死に続け、とうとう父と息子だけになった家というのがございましてな」


 こんなことをにたにた・・・・笑み崩れながら喋れるやつが居たならば、そちらの方が不気味であろう。人間性に欠陥がある。少なくとも私なら、そんな野郎が経営している宿屋なんぞで夜を明かす気にはとてもなれない。


 南谿も、そこは同様だったらしい。石を呑んだように重苦しい主人の貌に、彼はむしろ好意を抱いた。


「窮すれば通ず、と申しましょうか。この父親が、ある日ひとつの計策を案じたのです」
「ほう、策を」
「へえ。策といっても、碌なものではございませんが」


 南谿は続きを促した。


 聞いてみると、本当に碌な話ではない。

 

 

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川瀬巴水大鰐温泉青森県)」)

 


 父親はまず、拳を振り上げ隣家の戸板を乱打した。朽木のように黒ずんで、静脈の浮きもまた甚だしい腕だった。


「何じゃい」


 ぐわらりと戸が開かれる。


 隣人の姿も、負けず劣らず凄まじい。頬の肉がごっそり落ちて、落ち窪んだ眼窩の底で、黄ばんだ目玉がぎょとぎょとと、胡乱な具合に揺れていた。


「さても御互いに空腹なることなり」


 かすれ声で切り出した。
 幽鬼に相応しい音色であった。


「我家にも既に家内みなみな死うせしに、御覧の如く今は男子一人のみ残れり、是も殊の外にかつへれば、二、三日の間には死すべし、とても死にゆくものいたづらにせんよりは、息ある間に打殺し食せんとおもへども、さすがに親の恩愛手づからうち殺すにしのびず此故に其許そこもとに頼申候。我子を打殺し給はらば、其御礼には肉半分を贈申べし」


 が、内容の凄まじさときたらどうであろう。息子もどうせ近々死ぬ、ならばいっそ早めに殺して味が落ちるのを防ぐべきだが、流石に人情がそれを許さぬ。わしの代りに、どうかこの作業をやってくれ。報酬は肉の半分だ――。

 

 

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 幽鬼どころの騒ぎではない。


 冥府の獄吏もおぞけをふるいかねないこの要請に、しかし隣人は大喜びしたというから堪らなかった。末法の光景そのものであろう。


 彼はさっそくを手に取り、獲物の下へ馳せ向かう。消耗し、既に意識が朦朧としている少年に、抗う術などある筈もなく。


 ただ一打ちで、息子は死んだ。


(これでまた、暫くの間は喰いつなげよう)


 ほっと胸を撫で下ろす隣人。罪悪感など身体のどこを探しても、厘毫たりとて見付からなかったに違いない。本当にうまい話であったと口の端を三日月に吊り上げたところで――その顔面が、二つに割れた。


 音もなく忍び寄った父親が、後頭部にまさかり・・・・をぶち込んだのだ。隣人の頭部は、西瓜よろしくあっさり砕けた。

 

 

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 死体が、二つになった。それを見下ろす父親の顔は、つい数秒前まで隣人が浮かべていたそれと、寸分違わず同一である。


(馬鹿め、まんまとかかりおったわ)


 彼の目的は、最初からこれ・・にあったのだ。隣人に息子を殺させたのは、人情の抵抗に遭ったからでは断じてない。ひと仕事終えたあとの気の緩み、致命的な意識の隙を欲しがったからに相違なかった。いわば、我が子を生餌に使った。


 いや、人によっては飢えが募ると頭の中がへんに冴え冴えとしてくるものだ。


 こうなるともう、理性などまったく当てにならない。平素であれば彼自身、「鬼畜の所業」と蔑んだであろう行為でも、鼻唄まじりに平気の平左でやってのけるようになる。


 この父親は、まさにそういう人間だった。


 彼が如何に周到だったかは、なんとこの惨劇を説明するに、「隣家のもの餓たるあまり此の子をうちころし食はんとせしゆえに、仇を報ぜり」――空腹のあまり錯乱し、獣に堕ちて家の息子を殺しやがった不届き者を成敗した。雄々しく仇を討ったのだと、一場の美談に仕立て上げ、盛んに吹聴して廻ったということである。


(何をこの、白々しい)


 むろん、こんな作り話を真に受けるほど村人たちはおめでたくない。


 が、程度の差はあれ誰も彼も似たようなことをやっているのだ。ひどく疲れ切ってもいる。父親を糾弾するだけの気力を持ち合わせている輩など、一人たりとて居らなんだ。


 斯くして彼は公然と、二人の肉を手に入れる。


 塩漬けにしたそれにより、一ヶ月ほどは凌げたようだ。


 が、天明の大飢饉そのものを乗り越えることは叶わなかった。彼は死んだ。十万を超える死体の山、それを構成する名前もない一粒になった。

 

 

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(地獄だ。……)


 死体にはなれっこの南谿も、これには戦慄せざるを得ない。


 胸糞の悪さに、胃が逆立ちして黄水がこみ上げそうだった。

 


 今にいたり東北の事を思ひ出せば、心中測然として気分あしくなる事を覚ふ。只此所に記せるは百分が一なり。

 


 残りの九十九を、南谿はついに生涯記していない。

 

 

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東北地方地獄変・前編 ―骨の大地―


 東北地方が定期的に地獄と化する場所というのは、以前の記事で僅かに触れた。


 この土地――特に岩手・青森・秋田の三県に於ける農業は、五年のうち一年は大飢饉、二年が飢饉、残り一年が平作あるいは豊作という上代以来のサイクルを、つい最近まで延々繰り返していたのだと。


 それゆえか、彼の地方には他に見られぬ特異な食文化が根付いてもいる。保存食の発達が著しいのだ。干し菊などは、今でも青森の名産として名が高い。

 

 

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 秋、黄菊の花を採取して、蒸し上げたあと型に入れて天日に晒し干しあげる。蒸し過ぎると黒く変色してしまうので、そのあたりの加減がなかなかどうして難しい。慣れを要する。


 出来上がった干し菊は胡桃や胡麻の和え物にしたり、ひたし物にしたりして、特に冬から春への食物になる。栄養価は意外と高い。東北の花でないと苦くて喰えたもんじゃないとは古老の言。


 田螺たにしもまた、干物にしてよく用いられた。殻を潰して身を洗い、入念に水を切ってから天日に晒す。春先の田掻き前に採取するのが一般的で、これを専門に売り歩く商人までいたそうだ。


 出来上がったモノは叺か布の袋に入れて、高所につるして保存しておく。年一度ぐらいの間隔で干しなおしてやったなら、結構な時間経過にも耐えられた。


 水に浸しただけでも喰えるし、乾いたまま口の中に放り込み、唾液で湿らせよく咀嚼して呑み込んでもいい。腹持ちも優れているという理由から、兵糧としても好まれた。一升程度を携えて出陣する国人が、戦国期には多かった。

 

 

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 まこと、喰えるものは何でも喰って苛酷な年を凌いだのである。


 が、しかし、如何になりふり構わず足掻こうが。


 それでもなお乗り越えられない飢餓の大波が来ることがある。地獄の底が更に抜け、無間の闇を果てしなく落下し続けるような絶望のとき。不可抗力的に、それは確かにあったのだ。

 

 

死者 64698名
他領退散者 3330名
空家 10545軒

 


 天明の大飢饉に於いて、南部藩が被った損害である。


 当時南部藩の総人口は30万前後と目されていたから、ざっと五分の一を失った計算になるだろう。


 悲惨どころの騒ぎではない。

 

 存亡の危機といっていい。


 この悪夢の正に渦中に、東北を歩いた文人がいる。


 彼の名前は南谿なんけい。本業は医者であり、京都を拠点として活動していた。

 

 

橘南谿

 (Wikipediaより、橘南谿)

 


 その京都にも、東北地方地獄変の噂は盛んに流入していたという。五穀は尽き、草木の根も葉も藁さえも、あるいは犬猫牛馬鼠鼬に至るまで、糧になり得る限りのものはとうの昔に獲り尽くし、住民はもはや互いの肉を喰らい合う段階にまで至っている、と。


 南谿、後に紀行文たる『東西遊記を草して曰く、

 


 予が奥州に入りしは午年天明六年)の春なれば、もはや国豊かに食も足るべく思ひしに、卯年天明三年)の飢饉京都にて聞しに百倍の事にして、人民大かた其餓死し尽して、南部津軽の荒涼なる、誠に目もあてられぬ事どもなり。

 


 南谿は秋田から岩手に入った。


 入って早々、髑髏や手足の骨が路傍に散乱すること夥しく、その白さがいやに鮮やかに目についたという。


現世うつしよの光景か、これが)


「異やうなるもの」に直面したショックであたまの中心が痺れたようになったのも最初だけ。


「顔をそむけて通り過つる」ような可愛げは、すぐ南谿から失われた。

 


 一里々々進み行くほどに甚枯骨多く、朝の間は五つ見しひるすぎて十四、五も見しといふほどに、その翌日は二、三十も見つれ、又翌日は五、六十もありといふにぞ。

 

 

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 進めば進むほど、遭遇する骨の数がどんどん増えてゆくのである。


(わしはいつ、賽の河原に迷い込んだか)


 そのあたりの草むらから鬼が姿を現さないのが、いっそ不自然に思われた。


 とにかく、死骸をいちいち恐れていては当時の東北は一歩だって歩けない。


 南谿は慣れた。杖でしゃれこうべを突っついて多角的に観察し、

 


 火葬せし髑髏と違ひ生骨の事なれば、牙歯も全く備り、婦人の頭あり、小児の頭あり、老人荘者皆それぞれに見わけつくべく、肩肘其外腰眼等の骨の模様逐一に委しければ、よく医者の稽古也。

 


 医術の達人はたとえ骨だけであろうとも、生前の生活習慣や持病の有無を見透すという。


 経験を積むにはもってこいの環境じゃあないか、と。


 ほとんどやけくそのような心境にまで到達している。


 だが、地獄めぐりはまだ始まったばかりなのだ。

 

 

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 外が浜を目指して北上するうち、一泊した女鹿澤村のある宿で、南谿はついに「窮極」と出逢う。


「最初は皆、道に行き倒れた死体の肉を切り取って喰っておりました」


 人道に於ける最大の禁忌、「人肉食」の実態を。


「しかしなにぶん衰弱の果てに死んだわけでありますから。水っ気も失せた、そんな肉が美味いわきゃない。生きてるやつを率先して殺しだすまで、そう長くはかかりませんでした、はい」


 人間、ぎりぎりまで追い詰められれば何でもやらかす、本当に限界は無くなるのだと。


 想像を絶しきったその有り様を、厭というほど思い知らされる破目になるのだ。

 

 

飢餓と戦争の戦国を行く (読みなおす日本史)

飢餓と戦争の戦国を行く (読みなおす日本史)

 

 

 

 


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掏摸物語 ―吉村・徳富・伊藤の反応―

 

 指先の精妙なるはたらきに命を懸ける掏摸スリども。この連中がもっとも精力的に活動するのは七・八・九月、太陽光線が痛いほどに肌を焼く、そう、ちょうど今日のこの日のような頃合いにこそ於いてであった。


 明治・大正期の話である。


 暑中休暇を利用して帰省せんと目論む者や、涼を求めて田舎へ避暑に出掛ける輩。そうした手合いで汽車は軒並み混雑し、乗客同士の接触が不自然ではなくなれば、彼らの仕事もやり易くなる。衣類が薄くて懐具合がよく分かるのもポイントだ。中には一度掏摸行為をはたらいた後、中身だけをごっそりいただき、軽くなったその財布を元の通り戻し置く、妙ちくりんな「熟練者」まで居たという。

 

 

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 夏目漱石に薫陶を受けること甚大だった物理学者にして随筆家、吉村冬彦こと寺田寅彦が懐のものを盗まれたのも、やはり夏の盛りに於いてであった。


 なんでもその日、寅彦は、伊香保榛名を見る目的で自宅の門を出たという。評判を聞くことは多々あれど、自ら脚を運んだことはこれまで一度もなかったらしい。

 


 ところが、上野駅の改札口を這入ってからチョッキのかくしへ手をやると、旅費の全部を入れた皮財布がなくなってゐた。改札口の混雑に紛れて何処かの「街の紳士」の手すさみに抜取られたものらしい。もう二度と出直す勇気がなくなってそれっきりそのままになってしまった。(昭和九年『触媒』25頁)

 


 人を見たら泥棒と思え、なんて格言が大手を振って罷り通るわけである。


 当時の東京、否、大日本帝国ではこの種の「業師」がそこいらじゅうに蠢いていた。


 それだから、社会的に至極高名な人々もよく被害に遭っている。


 たとえば徳富蘇峰がいい例だ。「日本言論界の父」と呼ばれたこの人は、明治三十六年十月二十五日甲武線に息子と共に乗車中、名もしれぬ一介の掏摸により、鉄側十六形龍頭巻懐中時計を盗まれている。

 

 

Soho Tokutomi 1 cropped

Wikipediaより、徳富蘇峰) 

 

 

(これはしたり、いつの間に――)


 暫くしてからそれと気が付き、慌てて警察に届ける蘇峰。なにぶん名だたる大文豪の被害とあって、捜査にもかなり力が入った。


 すると翌月二十六日、事態は意外な転換を示す。秋山元蔵なる送り主から、警視庁へ小包郵便が届いたのだ。


はてな


 首を傾げつつ開封すると、中には一個の懐中時計が。


 その特徴は、いちいち蘇峰の被害届と合致する。まさかと思って本人に見せると、豈図らんや、まさに盗まれた時計そのものだった。


 ――流石日本警察は機敏である。


 と、蘇峰本人はほくほく顔で褒めたものだが、裏をのぞけばなんてことない。この当時、掏摸や博徒に繋がることが情報収集の手段として刑事の間に広く行われたものであり、その筋から密かに耳打ちした者があったのだ。意外な大物に手を出しちまったな、大騒ぎに発展しても厄介だ、物を返してさっさと鎮火を図ってしまえ――と。


 場合によっては態々金一封を同梱して送る例まであったというから、ことなかれ主義の氾濫は裏社会に於いても変わらぬらしい。よほど、日本人の精神に深く食い入っているのだろう。

 

 

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 ついでながら、伊藤博文が中年の折。


 銀座の街を歩いていると、人波に紛れて彼のポッケに手を突っ込んだ掏摸がいた。


 不幸としかいいようがない。相手は正真正銘の維新志士、幕末の闇に跳梁し、剣電弾雨を潜り抜け、時にはみずから暗殺の白刃をふるいさえした修羅である。


 研ぎ澄まされた神経は、些かも鈍っていなかった。


「――」


 やわらであろう。不届き者の手首を逆に掴んで投げ飛ばし、ぶっ倒したその肉体を、露天商から縄を借り受け縛り上げてしまったという。


 まるで活劇の一幕のような、驚くべき早さであった。


 武士たる者が喧嘩に弱くては話にならない。恩師来原良蔵も、草葉の陰で「さてこそは」と頷いたろう。伊藤博文、確かに当代の傑物だった。

 

 

スリ

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非常時に於ける詩人の貢献

 

 十徳の一つ、「毎號大家の傑作を満載するキング」そのままに。


「非常時国民大会」は少なからぬ文化人の力添えあって完成している。


 それは漫画家のみならず、詩人もまた同様だ。


 北原白秋、篠原春雨、土井晩翠川路柳虹――実に豪華な顔触れである。


 折角なのでめぼしい作品を幾つか撰び、ここに掲載させてもらうとしよう。

 

 

【川柳】
 

君が代
九千萬の
気が揃ひ

(谷孫六
 

日本中
皆楠に
なった気で

決死隊
命をつも
つも持ち

(井上剣花坊)
 
 

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【都々逸】
 

海の外まで桜を咲かせ
今年ゃ肩身の広い春

見たか張さん手並みのほどを
伊達にゃさゝない日本刀

(中内蝶二)

 


 張さんとは、十中八九張学良のことだろう。


 本書が出版された昭和八年、日本軍は熱河作戦の遂行により、彼の勢力を山海関の向こう側へと追っ払っている。

 

 

親ははた打つ嫁藁を打つ
ぬしは御国の敵を討つ

日本可愛の一念凝って
今日も舞ひ立つ愛国旗

母の手紙を野営の月に
読めば死ねよと書いてある

(篠原春雨)
 
 

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(山海関南門を攻撃する日本軍)
 

【謡】
 

奮起一番
川路柳虹


奮起一番 サア この時だ、
今日のこの日は前から覚悟、
世界相手に棄て身の日本、
わしも棄て身で御奉公。
イカナ。


奮起一番 サア この時だ、
東亜自主なる大使命、
それを果さにゃ生きられぬ、
俺もほんとに生きられぬ。
イカナ。


奮起一番 サア この時だ、
吾に王道、正義の兜、
どこが敵でも銃採り立って、
召されりゃ飛んでくこの身体。
イカナ。


奮起一番 サア この時だ、
うんとガッチリ覚悟を決めりゃ、
野良で働くこの身もたのし、
何か仕事に力がはいる。
イカナ。


奮起一番 サア この時だ、
みんな精出せ、働き通せ、
国を富まして、力を貯めて、
矢でも鉄砲でも来いと言へ。
イカナ。

 

 

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