穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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宣伝上手な戦前の医者

 

「診察」と称して真面目な顔で、患者のあたまに聴診器を当てる医者がいた。


 志田周子の記事でわずかに触れた、医学博士にして文筆家、高田義一郎がその現場を目撃している。なんでもこの診断法を開発した何某は、


「どうもこの男は、時々調子はずれの事をするので困ります。どうでしょう、やはり精神病なのでしょうか?」


 付き添いの者から発せられたその質問に、如何にもその道の権威といった重々しい態度で応え、


「では、少し診てみましょう」


 これまた如何にも慣れた雰囲気の手付きで以って、患者の頭のそこここへ、聴診器を押し当てていったということである。

 

 

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 むろん、そんな真似をしてみたところで、意味のある音など欠片たりとも拾えない。


 ところが無意味な事をしているはずの、彼の態度ときたらどうであろう。眉間に緊張をみなぎらせ、時折小首を傾げたりして、どう見ても全身を耳にして事に臨んでいる風だったから、ネタを知っている義一郎さえともすれば滑稽がるのを憚られるほどだった。


 やがて医師は顔を上げると、


「ははあ、成る程、この左側の方が少しばかりではあるが、調子が狂って居りますな。少々時日はかかるけれども、辛抱して服薬を続けて見て下さい。入院できれば一層好都合と思いますがね」


 と、「患者に都合がいいのか、それとも医者自身に都合がいいのか、殆ど判断出来ない様な事」を告げるのだった。(高田義一郎著『らく我記』43頁)


 しかしながら、「本職」の義一郎ですらともすれば呑まれかねない雰囲気を演出した後の発言である。


 患者も、その付き添いも、進んで彼の言葉を鵜呑みにした。


 実際この医師の評判は近辺に於いて頗るよく、そのもとだね・・・・を探ってみれば、やはり聴診器を頭部に当てる、例の診察法に行き着くのだった。


 医学的知識に疎く、聴診器をあたかも魔術師の杖と錯覚しがちな大正・昭和の人々である。


 それをふんだんに使ってくれるというだけで、心身ともに快癒する思いがしたのだろう。


 ――あの医者は親切に、よく診てくれる。


 このように、誰も彼もが口をそろえて褒めそやした。

 

 

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 実際問題、患者に医師への信頼がなくば、如何に投薬してみたところで治る病気も治らない。彼らの心を得るためには、このようなケレンも必要だったということだろう。


 似たような話はまだまだある。


 やはり医学的知識に疎い、地方の旧家で危篤が出た。


 かかりつけの医師、ここでは仮にAとしよう、そのA医師は既に手遅れだと悟ったが、こういう場合の通例として、


「念のため対診を願いましょう」


 と提案した。


 臨終に立ち会う頭数を増やすことで、責任を分担させる魂胆である。


 ただちに顔馴染みのB医師とC医師の二人が呼ばれ、一足先にBが屋敷の門をくぐった。


 ところがいざ患者の手をとってみると、既に脈が絶えている。

 

 

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 指先から伝わる冷たさといい、彼の心臓が停止したのはもうずいぶん前のことだろう。下手をすれば自分にお呼びがかかったときには、もう死んでいた可能性すらある。

 そこでBは正直に、


「お気の毒ですが、もう為す術がありません」


 紋切り型の挨拶を述べ、さっさとその場を辞去してしまった。


 ところが入れ替わるようにやって来た、Cの態度ときたらどうであろう。


 脈をとるまでは前任者と同一だったが、しかしそこからの反応が、天と地ほどに異なっている。「それに電気をかけて見たり、人工呼吸を施してみたりしながら、冷い石の様な残骸を、彼是一時間あまりいぢり廻して(57頁)のけたのである。


 そうして額に滲んだ汗を拭き、かたちを改めてからようやくのこと、


「まことに残念です。いろいろ手を尽くしまして、一時は少し御恢復の兆も見えましたが、再び危篤に陥られて、遂に亡くなりました」


 死亡確認の内容を、親族一同に告げたのである。
 むろん、恢復の兆候など一瞬たりとも見えてはいない。
 だが、そのことが、どうして素人の目にわかるであろう?

 

 

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 患家の人々は蘇生措置にここまで尽力してくれたCに感謝し、手をとってまで礼を述べ、その感謝のぶんだけ素っ気なかったBへの憎悪を募らせた。


 その後の運命は言うまでもない。Cは繁盛し、Bは凋落の一途をたどった。


 医業が人間相手の仕事であるということを、如実に示す噺であろう。自分が如何に患者に対して真摯に向き合う、誠意あふるる仁者であるかを積極的にアピールして行かねばならない。


 結局のところ、どの業界でも最後に嗤うは宣伝上手な人間だ。

 


 ――如何に大人物であっても、如何に有用な事業であっても、如何に優良な商品であっても、これを天下に知らしめなければ、その当事者の損害ばかりではなく、人類全体の失うところ、これより大きなものはない。

 


 そう開眼し、広告会社をおっぱじめたアイビー・リーこそ正しかった。宣伝とは元来、神聖行為の側面すら持つのだと、彼は知っていたのである。

 

 

Ivy Lee

 (Wikipediaより、アイビー・リー)

 


 白砂青松の良地を卜してサナトリウムを建設した某人が、開業当時に駆使したとされる宣伝術こそふるっている。これを紹介して、此度の記事を閉じるとしよう。

 

 なんでも彼はなるたけ多くの種類の人を掻き集め、周辺の道端や門前で、次のように言わせたそうだ。

 


「アノー此の辺に肺病を非常に上手に癒す、○○さんといふお医者があるといふので来たものですが、どの辺でせうか? 何でも××の近所で□□の所を右に曲がるんだと聞いて来ましたが――」(56頁)

 

 

アイビー・リー 世界初の広報PR業務

アイビー・リー 世界初の広報PR業務

  • 作者:仁, 河西
  • 発売日: 2016/11/02
  • メディア: 単行本
 

 

 

 


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檻の中の鮎川義介 ―大国魂神社の珍談―

 

 その日、鮎川義介例の空気銃を携えて、小鳥撃ちに興ずべく牛込の自宅を後にした。


 大正から昭和へと、元号が移り変わったばかりの話だ。


 当時の東京は、今のようなコンクリートジャングルではない。藪も多く残されていて、野鳥のさえずりはずっと身近にありふれていた。


 いったん中央線国分寺駅を目指し、そこから真っ直ぐ南下すると、すぐにホオジロと遭遇できた。肩慣らしに数匹撃つうち、いつの間にか大国魂神社のそばまで来ている自分に気付く。

 

 

Ōkunitama Shrine

Wikipediaより、大国魂神社拝殿)

 


 ふと視線を上に向けると、はたせるかな、ひときわ高い梢の上に丸々ふとったムクドリが羽を休めているではないか。


 神域云々など思慮の外。トンボを追って知らず深山へと入り込んでゆく子供のように、標的以外目に入らない。素早く発射体制を整えるや、気息を整えトリガーを引き、見事命中、射落とした。


 が、不幸はそこから始まった。絶息したムクドリは大地ではなく、なにやら粗末なトタン屋根の上に落ちたのである。めいっぱい手を伸ばしても、ちょっと届きそうにない。そこで鮎川は仕方なく、建物の戸をぐわらりと開け、中にいた男に経緯を話し、


 ――迷惑料は払わせてもらう、屋根の鳥を取ってきてはくれまいか。


 礼を尽くして依頼した。
 ところがどっこい、男はにわかに気色ばみ、


「お前は何を言っとるんだ、警察だぞ、ここは」


 大変な剣幕で怒鳴りつけるからたまらない。


 騒ぎを聞きつけ二三人のお巡りが応援とばかりに寄って来て、鮎川義介を包囲する。

 


 これはムクドリではないか、禁鳥だ、おまけに神社の境内で鳥を打つなど、ふらちな男だととがめられた。その外、人のいる街道で鳥を打ったこと、免許状をもっていないこと、警察を侮辱したこと等々……いろんなことを数え立てて、なんでも六つか七つかの罪に当たるというんだ。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』266頁)

 


 たたみかけられたといっていい。

 

 

Spodiopsar cineraceus Higashi-hagoromo station

 (Wikipediaより、ムクドリ

 


 列挙された罪状のうち「警官を侮辱した」の一条にかけては、おそらく自分の身の上を述べたことに由るだろう。


「おれは久原財閥――日産の名は未だメジャーでなきゆえに、こちらの名乗りを用いたであろう――の鮎川だ」


 素直にありのままを告白しても、正気で受け止めてもらえなかったに違いない。
 現に、


「そんなたいした経歴の人がこんなことをやるわけがない」


 と撥ねつけられてしまったという。それどころか、


「おのれ、本官を愚弄するか」


 と逆上されて、却って罪を増す始末。
 で、


「しばらくここで頭を冷やせ」


 そう突き放され、斯くて日産コンツェルンの創業者が場末のブタ箱にぶち込まれるという滑稽劇のにわか興行と相成るわけだ。

 

 

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 牢の中には先客が居て、頭から毛布をかぶってゴソゴソと不得要領にうごめく様は、どう見てもチンパンジー以外のなにものでもない。漂ってくる酒臭さから、酔って暴れてしょっぴかれたということは容易に想像のつくことだった。


 さしもの鮎川も、こんなところに長居したがる趣味はない。


 至急脱出の策を講じた。


 幸いに、と言うべきか。当時政権を担当していた第一次若槻内閣の司法大臣江木翼と、鮎川は懇意な仲である。


 檻の中からなだめ賺して頼み入り、なんとか執事に連絡をつけると、更にその執事から、前述の江木司法大臣へと一報が飛ぶ。


 はたして効果は覿面だった。電話のベルがけたたましく叫喚するのと、鮎川が解放されるのと、二つの間にほとんどタイムラグがない。


 足音も慌ただしく鍵を開けに来た巡査の顔は、まるで雷にでも打たれたかのようだった。


 権力というものの旨味について、これほど見事に表現した事例も稀であろう。

 

 

Tasuku egi

 (Wikipediaより、江木翼)

 


 そのまま鮎川は奥の部屋へと招き入れられ、座布団を敷かれるやら茶を出されるやら、精いっぱいのもてなしを受ける。


 が、最低限のケジメというのは警察の方でもつけねばならない。必死に機嫌をとりもちつつも、その一方で、所持していた空気銃や二十羽あまりの小鳥えものたちは証拠品として押収したまま、鮎川の手には戻さなかった。


 ――当時の調書が見つかれば、さぞや面白いと思うのだが。


 かと言って鮎川に恨む気配はまるでなく、むしろ一連の記憶を茶にして楽しんでいた風がある。
 このあたり、流石の雅量と言うべきか。

 

 

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鮎川義介作、『ある田園風景』)

 

 

降る雪を 見つめて寒し 鉄格子

 


 それから二十年弱を経て、戦犯容疑をおっかぶせられ巣鴨の獄にぶち込まれたとき、鮎川が詠んだ歌である。


 初回と違い、二度目は随分と長引いた。


 結果は変わらず、容疑が晴れての無罪放免に終わるとはいえ、二十ヶ月の拘引は相当骨身にこたえたらしい。

 

 

屠蘇なくも 膳に瑞穂の 香りあり

 


 こちらは昭和二十二年元旦の作。この日、入所以来初めて食事に日本米が供された。

 

 

これから始める人のための エアライフル猟の教科書

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玄理の扉 ―道の果てに至る場所―

 

 禍福はあざなえる縄の如しと世に云うが、鮎川義介にとって大正十二年という年は、まさにそれを体現した一ヶ年であったろう。


 まず六月に、長男が生まれた。


 鮎川夫妻の間には遡ること三年前、既に「春子」という長女が生まれていたから、これで一姫二太郎の理想を完全に果たしたこととなる。


 そうでなくとも家督を継ぎ得る男子の誕生、嬉しからぬはずがない。


「弥一」と名付けられたこの赤子こそ、後にMITに留学し、ベンチャー投資支援会社・テクノベンチャーを興すに至る、鮎川弥一その人である。


 ところが喜びも束の間のこと、三ヶ月後の九月一日に関東大震災が発生。


 帝都の大半を烏有に帰した未曾有の災禍。それに呼応したかの如く、鮎川自身も肺炎に倒れ、暫くの間生死の境を彷徨った。

 

 

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 家人の手厚い看護によってどうにか黄泉路を引き戻されはしたものの、半年以上は病床暮しを余儀なくされて、寝返りすら満足に打てぬ状態が続いたという。


 必然として、身体機能の低下が起る。使わなければ鈍るのだ。


 肺腑が漸く元の通りにガス交換を行うようになったとき、しかし鮎川の四肢はマネキンのそれにすげ替えられでもしたかの如く言うことを聞かなくなっており、彼をして


 ――これは本当に、おれの体か。


 と瞠目させるには十分だった。


 リハビリを行う必要がある。


 錆びついた関節にあぶらを差し、軋みを上げるもと・・を無くして円滑な回転を取り戻すのだ。

 


 そのために鮎川が目を付けたのが、空気銃という器具だった。

 


 空気銃といっても手軽にガスを注入し、BB弾を飛ばして遊ぶ、エアガンを連想してもらっては困る。ポンピングにより空気を溜めて、弾を一発込めたあと、引き金を落とし発射したなら再度ポンピングからやり直しという、エア・ライフルと呼ぶべきものだ。

 ドミトリー・グルホフスキーの小説を原作とする珠玉のシングルプレイ専用FPS『メトロ』シリーズをプレイした人ならあるいは理解は早いだろう。核戦争後のモスクワと、その一帯を舞台としたあのゲームには伝統的に、「ティハール」と呼ばれる加圧式武器が登場する。

 

 

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 レバーをせわしなく動かして空気を送り込むあの動作を、鮎川もまたしたわけだ。しかも画面越しの私と違い、彼の場合は現実に。


 四十路を越えて初めて触れたこの器具に、鮎川はたちまち夢中になった。庭先に的をしつらえて濫発すること、多い日には五百発に及んだというからただごとではない。彼の身体はみるみるうちに元の機能を回復させた。


 はじめこそ的にかすりもせず、遥か横手の障子紙に穴を穿ってばかりいたが、根がエンジニアの鮎川である。物事の理屈を究めることと、そこから一歩進んで得られた知見を実地に応用することにかけては玄人芸といっていい。


 都合二万発を撃ち終えるころにはある種のコツを体得し、ほとんど的を外すことがなくなった。構えもすっかり堂に入り、

 


 銃にも、人にも固有の癖がある。この癖に合せて、照準器の矯正がついで行われねばならぬ。(『百味箪笥』309頁)

 


 このようなことを言い出すに至っては、もはやいっぱしの射手と看做していいだろう。

 

 

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満州にて)

 


 本人もそう感じたらしく、とうとう野外に飛び出して、動く的――生きた鳥獣相手に弾丸を撃つようになる。


 ところがこれが、面白いほど当たらない。庭でやっていたのとは勝手が違う。何故当たらないのか、どうすれば射止めることが出来るのか、解を求めて鮎川義介の研究心は再び嚇と燃え上がった。


 ――要は、動的状態の中に静的状態と同様の働きを見出すことだ。


 このあたりまで来ると、鮎川の文章はどこか禅的な色調さえ帯びてくる。

 


 動いている雀も、庭さきの的と同じになる呼吸を会得しないといけない。
 的も、雀も、撃つ呼吸に違いはない。道はやはり同じだということは、功を積むと判ってくる。動かないと同じ境地に、自分を慣らさなければならぬ。三年、五年と、撓まずにやっていると、遂には、玄理の扉を開くことが出来る。かくて私は、動中の静を味う楽しみを満喫したのである。(312頁)

 


 どうであろう、なんとはなしに「剣禅一如」の香りがすまいか。


 何にでも「道」を見出したがる日本人の性情が躍如としている。


 果たせるかな、ついに「玄理の扉」をこじ開けてのけた鮎川は、宛然一個の猟師と化した。調子がよければ一日に百四十羽もの雀を仕留めることさえあったという。

 猟犬すら引き連れて、実に本格的にやったものだ。

 

 

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(左から二番目が長男弥一、右端が次男金次郎)

 


 ところがこの狩猟好みが、思わぬ椿事を招き寄せた。

 
 警察に拘束されてしまったのである。


 神社という、清浄を事とし穢れを嫌う神道施設の只中で、ムクドリを撃ち殺したことが原因だった。


 そう、鮎川義介が檻の中にぶち込まれたのは、巣鴨が初めてではなかったのだ。記念すべき第一回目の入牢劇について、次回は少しく掘り下げてみたい。

 

 

Metro2033 上

Metro2033 上

 

 

 

 


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日本国の擬娩事情 ―足利郡の臼担ぎ―

 

 今はもう、すっかり廃れてしまった風習だが。――


 ほんの一世紀前までは、南洋に分布する先住民族たちの間で広く行われていた「ならわし」だった。


 女性が産気づいたとき、その旦那に当たる人物を鞭やら何やらで手酷く痛めつけることは、である。


 特に強烈なのが南米に棲むカライベン族の人々で、彼らはまず父親の皮膚を天竺鼠モルモットの牙で掻き裂き、血の滲んだその傷口へ、胡椒や蒲桃ふとももの粉を水に溶かして塗りたくるという、ほとんど拷問まがいことをした。

 

 

Starr 050818-4168 Syzygium jambos

 (Wikipediaより、蒲桃の実)

 


 学術的には擬娩ぎべんと呼ばれるこの行為。


 おそらくは女房の苦痛を引き受けられるものなら引き受けてやりたいという、良心の疼きを根幹に持つこの習俗は、実を言うと日本にもある。


 それも遠く神代の昔の話ではない。江戸時代の関東にさえ存在していた。


 栃木県足利郡の村々には、妊婦が破水し産婆の介助でいきみ・・・だすと、亭主はただちに外へ飛び出し、臼を背中にひっかつぎ、自宅の周囲をぐるぐる廻る伝統があった。

 

 

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 この奇怪な反復動作は、お産が終わるまで続く。


 その間、休むことは許されない。汗が滝のように体をつたい、膝が笑って呼吸が病犬さながらに荒くなっても、男はひたすら歩き続ける。だからこの地方の古老たちは、里の子供をつかまえて、


「お前の母親はお産が軽いから、父親が臼を背負って三回めぐる間に生まれた」


 とか、


「お前の母親は産癖が悪いから、父親が臼を背負って十七回家をめぐり、それでも産まれず仕方ないので医者が来て引っ張り出したのだ」


 とか言って揶揄したということである。


 民俗学者中山太郎も、その洗礼を浴びて育ったひとりであった。


 後年、中山が民俗学者として一角の者となってから、久方ぶりに郷里に帰還してみると、とうに途絶えたと思っていたこの風習が、か細くとも未だ執り行われていると知り、「伝統」の根強さに改めて目を見張る思いをしている。

 

 

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 ついでながら触れておくと、この足利という土地は、また博奕のメッカという側面も持ち、老いも若きも男も女も賽子の出目に我が身の浮沈を託したものだ。その盛況さたるや、


「博奕を打たないのは旦那寺の本尊と辻の石地蔵だけだ」


 との俚諺を生んだほどであり、下手に澄まして悪銭身に付かずと構えていると、


「小博奕の一つも打てぬような男には、娘を嫁にやるわけにはいかぬ」


 と、およそ世間並の常識とは真逆の説教を喰らうことさえあったという。


 このような場所で育ったことが、あるいは民俗学への興味・関心を掻き立てたのか。

 

 

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丁と張りなよもし半出たら
妾の年季を増すばかり

紺の腹掛け片肌ぬぎで
勝負、勝負も粋なもの

 


 足利織女工たちが仕事中に口ずさんでいた都々逸は、中山太郎の鼓膜に滲み付き、晩年まで消えることはなかったようだ。

 

 

売笑三千年史 (ちくま学芸文庫)

売笑三千年史 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 


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正岡子規の妓楼遍歴 ―古島一雄の証言―

 

 正岡子規をして生涯女人に親しまなかった、童貞を貫いた人物だと看做したがる向きが巷間の一部に行われている。マクシミリアン・ロベスピエールとこの明治日本の俳聖を、同じ殿堂に入れたがる動きが。


 だがしかし、これは根も葉もなき謬見だ。

 

 

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長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』より)

 


 なるほど確かに正岡子規は、その早すぎる晩年の七年間を病床に伏したまま過ごしている。が、裏を返せばこのことは、そうなる以前の二十七年弱の間は、比較的自由に体を動かせたということでもあろう。実際この前半生の間に正岡子規は、一高入学はいったり帝大に通ったり、はたまた日清戦争に記者として従軍したりと随分盛んに動きまわっているのである。


 女を知らぬわけがなかろう。

 

 

Masaoka Shiki1889

 (Wikipediaより、一高時代の正岡子規

 


 ところがこの俗説は相当古く、それこそ子規が世を去った明治・大正の昔からまことしやかに囁かれ、「中山民俗学を築き上げた中山太郎その人さえも、半ば常識として受け入れていたと自著『愛慾三千年史』にて告白している。


 中山がこの認識を改められたきっかけは、報知新聞記者時代、加藤恒忠を社長と仰いだことに由る。外交官として辣腕を振るい、伊藤博文を激怒させた経歴すら持つこの人物は、正岡子規の叔父でもあった。


 そこで中山はある日のこと、子規の逸話を引き出そうと水を向け、ふとしたはずみで婦人を知らずに死んだのだろうという例の話題に接触すると、加藤社長は意外にも、


「常規(子規の本名)だって木の股から出やすまいし」


 一笑に附し、軽く流してしまったという。


 この記憶は中山太郎にとって長らくしこり・・・として残り、十数年を経た後で、たまたま子規の友人であった古島一雄と面会したのを奇貨として、年来の疑問を解決すべく、同様の質問をぶつけている。


「冗談じゃない、吉原は勿論、新宿、板橋、千住なんかでよく遊んだよ。先導役に立ったのは、何を隠そう、このわしさ」


 果たして古島の返答は、世間に投影されていた正岡子規像を大きく裏切るものであり。


 日清戦争に相携えて従軍することが決まった際には、心残りが無いように、尾ノ道――当時の広島屈指の花街――でしこたま垢を落としてから向かったものだと聞かされるに至っては、中山太郎が胆をつぶすほどに驚いたのも無理からぬことであったろう。


 つい一年前のこの時期に逝去したアメリカ出身日本文化研究者、ドナルド・キーンも、やはり正岡子規の童貞説を否定している。

 

 

Donald Keene

 (Wikipediaより、2002年のドナルド・キーン

 


 しかしながらそのことで、正岡子規の偉大さは、決して損なわれたりしない。


 それどころか私の中で彼に対する畏敬の念が、これまで以上に大きくなったのを実感している。やはり明治の御代のころ、沼波瓊音という国文学者が安芸の俳人・風律の日記に寿貞尼という松尾芭蕉の妾らしき人物を「発見」するや、


「南無芭蕉様、よくぞ妾を持ってくだすった」


 感激も露わに躍り上がって叫んだというが、なんとなくその気分が察せるものだ。


 プラトニック・ラブなど少しも美しくない。生田春月も詠んだではないか、

 

 

肉を底まで行けば
心にぶッつかる
心を底まで行けば
肉にぶッつかる。
それにぶッつからねば
まだ徹せぬのだ。
なまぬるい恋、恋とも云へぬ
いろごとよ

 


 と。


 人間性を手離し至る悟りほど、気味の悪いものは他にない。肉への焦がれ、俗世への欲念、いつまでも断ち切れず目をぎらぎら光らせている人物こそ、私は好きだ。

 

 

 

 

 


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渋谷東急の古本まつり


 閉店の迫る東急百貨店・渋谷本店――。


 昭和九年の開業以来、86年の長きに亘って渋谷の街を見下ろしてきた、その西館8階で、目下古本まつりが営まれている。

 

 

Shibuya-Hachikomae-Square

 (Wikipediaより、2010年頃の東急東横店)

 


「さよなら東急東横店 渋谷大古本市」と銘打たれたこの催し事。


 コロナウィルスが蔓延の兆しを見せている現状、人混みはなるたけ避けるべきであるのだろうが、それでもこればっかりはどうしようもない。ちょっと顔を出してきた。


 甲斐あって、少なからぬ良書を発掘できた。中でも最大の収穫は、この鮎川義介先生追想録』であったろう。

 

 

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 日産コンツェルン創業者・鮎川義介が世を去った、その翌年の昭和四十三年に編纂されたこの書物。岸信介中曽根康弘正力松太郎といった錚々たる顔ぶれが名を連ね、鮎川との思い出を語り、以って彼の死を悼んでいる。


 書棚に並ぶ『百味箪笥 鮎川義介随筆集』が、あるいは引き寄せてくれたのか。この出逢いには運命を感じずにはいられない。目を通すのが今からとても楽しみだ。

 

 

創業家一族

創業家一族

 

  

 

 


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迷信百科 ―松房の実・石楠花の枝―


 岩手県奥州市水沢一帯の村落では、だいたい昭和のあたまごろまで、とある奇妙な習俗が行われていた。


 うら若き乙女が男を知らぬまま世を去ると、その棺にマツブサの果実を入れるのである。

 

 

Schisandra repanda - Miyajima Natural Botanical Garden - DSC02383

 (Wikipediaより、マツブサの樹)

 


 マツブサ
 漢字では、松房と表す。
 松に似た樹皮と、ブドウの房が如き果実をらせることから付いた名だ。


 食すと甘味よりも酸味が強く、ためにこの地方では、主に妊婦の苦しみを和らげるため使われた。果汁で口の中が黒っぽく染まってしまう効果から、少女が手を出すことは皆無に等しかったという。


 歯に鉄漿を塗り黒く染めるは既婚者の仕儀。未だ旦那も持たぬ身でそれに見紛われることをするなど、はしたないという感性から、努めてこれを避けたのである。


 しかしながら早世した場合に限り、この着色効果が少女にとってプラスの意味を発揮する。

 


 古くからこの大八洲には、処女・童貞は浄土へ行けぬという思想があった。

 


 それを憐れんだ親族が、賽の河原でこれを喰い、歯を黒く染め既婚者に偽装し、以って渡し守の目を欺けと、そうした願いを籠めてマツブサの実を入れたのだ。

 

 

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 まこと奇妙な考え方と言うほかないが、しかしこの認識あったればこそ、多くの地方で元服を迎えた男子を妓楼へ向けて担ぎこみ、早ければその夜のうちに女のからだを教えてしまうという一種独特の風習が形成されもしたのだろう。


 山形県の某所では、この通過儀礼「お位受け」と呼んでいた。


 そこから南西の海上に浮かぶ佐渡島まで行ってしまうと、事は更に秘儀めかしくなってくる。


 この島に於ける元服の儀式は、単に前髪を切り落としただけでは終わらない。新成年は次に先輩に連れられて、島内最大の山である金北山に登ることを余儀なくされる。

 

 

白雲台から眺めた夕焼けの金北山

 (Wikipediaより、夕暮れに染まる金北山)

 


 頂上にて祭神を拝すと、そのあたりに自生している石楠花の枝を適当に折り採り、失くさないよう注意しながら下山するのだ。


 下山ルートは、夷港に通ずるモノを行く。現在では両津港と改称されたこの港には、古俗として少なからぬ娼館が立ち並び、紅燈緑酒の愉しみを提供していた。

 

 

Ryotsu Port

 (Wikipediaより、両津港

 


 新成年はここでたわむれ、別れ際に相手役を務めてくれた女性から、白緒の草履を貰い受ける必要がある。娼妓の方でもそのあたりの風習はよく飲み込んでいるために、断られることはまずなかった。


 こうして手に入れた石楠花の枝と白緒の草履を、相添えて家に持ち帰ることで、漸く元服の儀式は終わる。晴れて一人前の男なりと認められるに至るのだ。

 

 


 大坂一帯の村落にも元服を済ますと大峰山に参拝し、帰路に娼館であそぶ「精進落し」という風習があったそうだが、ここまで込み入った内容ではない。


 やはり離島ではなんにつけ、独特の深化――ガラパゴス化が進むのだろうか。

 

 

 

 

 


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