穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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弱小国の悲愴 ―第二次世界大戦下のエジプト情勢―

 

 第二次世界大戦の幕が切って落とされたのは、1939年9月1日。ドイツのポーランド侵攻が直接の起点とされている。


 前回の記事にて述べた通り、同盟通信社の特派員・屋久寿雄が欧州に駐留していたのは1938年10月から1940年3月までの15ヶ月間。ほぼ最前列といっていい場所で開戦の号砲に際会し、更にそれから半年以上、人類史上最大と言われたこの戦争を間近で眺めたことになる。


 当初「中立」を声明した弱小国が、津波に押し流される松のような哀れさで否応なしに次々戦火に巻き込まれてゆく有り様も、彼はつぶさに目撃している。実際問題、周辺国家が存亡を賭けてなりふり構わず血みどろの争いを繰り広げている最中に、ただ一ヶ国、自分達だけ何処にも属さず、局外にて中立を保持し、安穏と暮らし続けて居たいなどと、そんな都合のいい要求が通る余地など何処にもないのだ。


 もし強いて通したければ、実力を以って道を開鑿する必要がある。


 しかしそんな力があるなら、そもそも「弱小国」と呼ばれたりはしなかったわけで。


 弱さは罪というこの人間世界の原則は、国際社会に於いてより浮き彫りになるらしい。


 エジプトもまた、そんな「罪深い」国の一つであった。

 

 

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 この国は1922年の革命で一応の独立を遂げたものの、大屋に言わせればそれは「半ば去勢された独立」で、憲法も内閣もハリボテに等しく、内実を糺せばなんのことはない、相も変わらずイギリスの属国のままであった。


 保護国時代と同様、国内にはイギリス軍が駐留し、一朝事あらばこの武力を背景としてたちどころに英国公使が国の方針に容喙してくる。二十歳の峠を越すか越さないかの青年王、ファールーク一世にとってこの現状は到底満足のゆくものではない。


 よって戦火が拡大し、北アフリカにまで戦線が形成されるに至ったとき。イギリスから対伊宣戦布告を火の出るほどに要求されても、ファールークは頑として首を縦には振らなかった。

 


 エジプトの意志は不参戦に固められてゐた。エジプト当局は「イタリア軍のエジプト攻略は、エジプト内に駐屯する英国軍に対してなされるもので、エジプト自身に対してなされるものではないから、エジプトとしては何ら対伊宣戦布告の理由を持たない」といふ見解を固持して、英国の要求を終止却けて来た。(『バルカン近東の戦時外交』102頁)

 


 王の目算はむしろこの機にドイツと接近、協力して国内から英国勢力を一掃することにあったらしい。
 にも拘らず、同じ枢軸側であるイタリアを敵に回してどうするのか。彼の意図は露骨すぎるほどに露骨であった。

 

 

Kingfarouk1948

 (Wikipediaより、ファールーク一世)

 


 むろん、それを拱手傍観しているイギリスではない。


 国家を分割することにかけては比類なき実績を有するこの紳士的な集団は、このときも遺憾なくその腕前を発揮した。ファールークに対しては「退位」を仄めかしつつ牽制し、同時に輿論へ工作を展開。たちどころに国内は参戦・非参戦で二分され、議会は連日大荒れを呈した。

 


 が、さしもの大英帝国もいい加減ヤキが回ったのか。次第に国内情勢は、宣戦反対派へ傾きはじめる。

 


 首相を務めるハッサン・サブリ陸軍大臣サリフ将軍といった首脳陣の面々が、こぞって宣戦反対を主張していたことがやはり大きい。斯くして1940年11月14日、エジプト政府は非参戦態度持続の重大声明を内外に向かって発表することになる。


 もしこの声明文が最後まで朗読されきっていたなら、その後の歴史がどう変化したかわからない。


 が、そうはならなかった。大屋久寿雄が言うところの「全世界を不吉な想像に投げ込む奇怪な事件」の勃発によって、声明は中断されることになる。


 何が起こったか。


 事態そのものは単純である。声明文を読み上げていたエジプト首相、ハッサン・サブリが死んだのだ。

 


 やをら演壇に上がって、ファールーク王の宣言文を、荘重な声で、一句一句にエジプトの安危を背負ふ責任こめた声で読みあげかかった首相ハッサン・サブリは、朗読半ばにして突如昏倒し、意識不明に陥ったまま数時間にして死んでしまったのである。まことに奇怪な事件である。更にそれから十二日ををいて、十一月二十七日、カイロからアレキサンドリアに行くため、まさに汽車に乗らんとしていた陸相サリフ将軍もまた、ハッサン・サブリ首相と同様な状態で急逝した。(103頁)

 

 

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(カイロ)

 


 首脳陣の立て続けの死。


 おまけに死んだ両名が、いずれも参戦絶対不可論の急先鋒を張っており、エジプトの完全なる独立を内心密かに求めていた人物。


 これを「不幸な偶然」と、疑いなく信じきることが出来るなら、そいつはきっと楽園にでも棲んでいるに違いない。むろん、現実主義者の大屋久寿雄は「英国の黒い陰謀」を疑っている。


 とにもかくにも、この一件でエジプトの勢いはあからさまに衰えた。ファールーク王はその後もどうにか頑張っていたが、1942年2月、イギリス軍に宮殿を包囲され、「死か傀儡か」の二択を迫られるに及んでついに屈した。


 英国は英国で、もはや紳士を気取っていられないほど追い詰められていた証左であろう。


 追い詰められているだけに、彼らには狂気の相がある。ファールークがあくまで信念を貫かんとし、要求に肯んじなかったならば、彼らも本気で脅迫内容を実行に移したに違いない。
 王にとっては、苦渋の、しかし已むを得ざる決断だったと言える。


 が、この「屈した」ということが致命的な瑕疵となり、ファールークは国内の独立派から


 ――いざというところで踏ン張りの効かない、頼みにならぬ腰抜けの王。


 と看做されて、求心力を急速に失墜。10年後に発生したクーデターで国を追われ、二度と再び故郷の土を踏めぬまま、1965年45歳で客死した。


 無惨としかいいようがない。


 彼の死から半世紀を経た今日でも、エジプトは不安定なままである。

 

 

 

 

 


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特派員、大屋久寿雄 ―「欧州情勢、複雑怪奇」に挑戦した日本人―

 

 ここ最近、『バルカン近東の戦時外交』という古書を興味深く読んでいる。


 出版は、昭和十六年五月三十日。


 著者の名は、大屋久寿雄くすお


 1938年10月、風雲急を告げつつあるバルカンに同盟通信社の特派員として派遣されたこの大屋という人物は、以後1940年3月までの15ヶ月間、イスタンブールに、アンカラに、ブカレストに、ベオグラードに、ソフィアに、アテネに、ローマに、パリに、はたまたベルリンにと欧州中を飛び回り、同時代の日本人がともすれば「複雑怪奇」と理解を放棄しがちであった彼の地の情勢を解き明かすべく、眼を光らせ観察力を総動員して事に当たった男であった。


 本書はその仕事の総決算といってよく、情報分析の精確さと論理展開の鋭さたるや尋常一様のものでない。

 

 

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 たとえば「国際道徳と個人道徳との混同は絶対に避けねばならぬ」という、この透徹した現実主義はどうであろう。

 


 国にとって最も大切なことは「国を亡さぬ」ことである。個人道徳に於てすら正当防衛と言ふ自己保存の必要から殺人を無罪としてゐる如く、国家としては国を亡さぬためには当然如何なる手段もまた許さるべきである。それを個人道徳の鏡にあてて、或は無節操と言ひ、或は裏切りを責めるのは、自己の節操を立て通し得る強大国の、然らざる弱小国に対する無理解であり、弱小国を利用せんとして利用しそこねた強大国の女々しい恨事である。(17~18頁)

 


 目的のためなら手段を選ばず、且つそれを当然とする一連のマキャベリスト的見解は読んでいて非常に快い。スルスルと、抵抗なくあたまに入ってくる感じがするのだ。
「中立」に対する見解についても、耳を傾けるべきものがある。

 


 弱小国は今次大戦に際して、何れも先を争って中立維持を声明した。(中略)しかし、彼らの中立維持声明は単に彼らがそれを欲すると言ふ意志表示をしたにすぎないのであって、彼らが自分自身の力で中立を維持し得る、といふのとはまた全く別のことなのであった。
 中立を維持し通すためには、外部からの圧迫や誘惑を、断乎として退けるに必要な実力を持ってゐることが肝要である。この実力がなければ、或は心ならずも中立を放棄しなければならなくなるかもしれないのである。(15~16頁)

 


 平和、平和と念仏のように唱えて居れば本当に平和がやって来る。そんな虫のいい話は夢想家の脳内にしか存在しない。国際社会が徹底的な力の世界ということを、大屋はよく理解していた。
 正義人道の美名など、所詮はそうした生の姿の毒々しさを隠すべく、体よく利用されるだけの装飾品に過ぎないことを。


 この点、アメリ中国の対立が日に日に深まる現代に生きる我々も、しかと胸に刻んでおく必要がある。

 

 

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 ソヴィエトロシア「地下水のやうだ」と表現するに至っては、慧眼も極まったと言うべきだろう。共産国家に絶えず付随する薄暗さ、人目につかぬ地の深みからちょろりちょろりと滲み渡り、徐々に根元を腐らせて、ついには如何なる大廈高楼だろうとこれを覆してしまう悪質さ。なるほど特性という特性が、いちいち地下水と符合する。

 


 単に独・伊・英・仏と言はず、世界中の強国を根こそぎ疲弊衰退させて、世界赤化の大野心を実現することだけがソ連の狙ひであり、従ってこの目的に有用か有害かによってソ連式徳義の標準は定る。それ以外のことはその時まかせの便宜主義で適当に片附けていいのであるし、事実片附けてゐる。だから今日の言葉と明日の約束が矛盾してゐても少しも構はない。周囲の情勢が変化してゐるのに、昨日と今日と、明日と常に同じ言葉を用ひるならその方がいけない、と言ふのがソ連の考へ方である。(7~8頁)

 


 厄介極まるこの「地下水」の浸潤を、大日本帝国はよく防いだといってよかろう。三・一五事件四・一六事件等に代表される、特別高等警察の度重なる大規模検挙で、国内の赤色革命勢力をほぼ全滅に追い込めたのはまことにめでたい限りであった。


 少なからぬ犠牲を払いながらも、特高が挙げた数々の功績。実に彼らこそ、日本国にとっての恩人と言うことが出来るだろう。


 もっともその努力とて敗戦後、日本を二度と足腰立たぬところまで弱体化させんと目論んだGHQの策動により、ことごとく水泡に帰すのだが。

 

 

Flag of the Soviet Union

Wikipediaより、ソ連国旗) 

 

 

 あの占領軍はこともあろうに特高が折角牢にぶちこんでおいたアカどもを、軒並み解き放って自由の身とし、連中が


天皇制を廃止せよ!』
『労働者農民の政府を作れ!』
『大土地所有の没収!』
『世界労働者農民の祖国ソ連を守れ!』


 などと書かれたビラを撒き、インターナショナルを歌いながら大通りを練り歩く手助けをした。


 やがてはそれが、我が身さえも蝕む毒となることを知らないままに。

 


 戦後、特高ほど誤解され、いわれのない批難を受けた組織というのも珍しかろう。
 このことについてはまたいずれ、稿を改めて書きたく思う。

 

 

君主論 - 新版 (中公文庫)

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リンカーンの戦慄 ―「労働蔑視は亡国の基」―

 

 自動車がツチノコ並みに珍奇なる、都会人といえど滅多にお目にかかれないほど稀少な代物であったころ。


 横浜正金主催の夜会に、支那人のさる大官を招待したことがあった。


 迎えに出されたのは、二頭立ての大型馬車。馬車が遠ざかり、やがて再び戻って来たとき、会場前に居合わせていた客たちはこぞって驚きに目を見張った。


 件の支那人大官の下乗姿が、果たしてこれを「下乗」と呼んでいいのかどうか迷うほど、徹底的に自主性を欠いていたからである。馬車から降りるのに、彼は自分の力をまったくといっていいほど使わなかった。彼が伴って来た四人の侍婢がまめまめしく働いて、彼の体重を入口まで運び込んだ。

 

 

Kanagawa prefectural museum of cultural history01s3200

Wikipediaより、旧横浜正金銀行本店) 

 


 ある者は手を曳き、ある者は後ろから腰を押し、しかもそれらの力学的作用によって大官の神経に些かも不快感が伝わらぬよう繊細な作業を心懸ける有り様ときたらどうであろう。同質量の爆薬を運んでいたとしてもここまでの緊張は有り得なく、ほとんど鬼気に近いものを発散していた。


 ――はて、あの大官は、さては足でも悪いのか。


 そんな話は聞いたことがなかったが――と、人々が首を傾げていると、はたせるかな当の支那人は階段下で侍婢と別れるや否や、見違えるほどしっかりした足取りで階段を上り、颯々と会場へ入って行ったではないか。


 ――なんだ、足が悪いわけではなかったのか。


 衆人は改めて瞠目せざるを得なかった。自分で歩けないのでないならば、はて、あの大仰な所作はいったい何だったのだろう。


 この謎に、波多野承五郎は明快な答えを出している。
 それは数百年かけて凝り固まった、儒教の悪弊に他ならないと。

 


 支那朝鮮では、労働は卑賤の人のみがするべきであると言ふ立前から、士君子と言はれる上流階級の人は、狩猟のやうな荒々しい事をしないのは勿論、一挙手一投足で出来る事すら、僕婢の手を藉りねばならぬと信ぜられて居る。(中略)苟くも支那の大官であり乍ら、自分で馬車を降りるなどと言ふ卑賤なる事はすべきでない。手を執らせ腰を押させる事が貴人の面目であるのだから、斯うしたのだ(『梟の目』77~78頁)

 

 

HATANO Shogoro

 (Wikipediaより、波多野承五郎)

 


 狩猟と乗馬が出来なければ一人前とは認められない、英国紳士道を男子の模範と設定し、日本にも輸入しようと熱心だった波多野のことだ。
 こうした大陸人的気質を目の当たりにするたびに、顔を覆いたくなるほど辟易させられたことだろう。そして恩師の言葉の正統性を実感したに違いないのだ。すなわち、福沢諭吉の主張した、脱亜論の正しさを。――

 


 反面教師とするためか、波多野は他にもあれこれと大陸の景色を点描している。

 


 朝鮮でも併合前の大官は、身の廻りの細事までも僕婢にやらせることになって居た。例へば内宴を開いた時などには、侍坐の妓生キーサンが盃を大官の口の傍まで持って行く。肉でも菜でも妓生にふくめて貰ふ。斯う言ふ風にせねば大官らしく思はれないのは勿論、素性卑しき成上り者としていやしめられたのであった。(78頁)

 


 海峡一枚隔てただけでなんという文化の違いであろう。
 朝鮮半島では下手をすると支那本土よりも強烈な、儒教原理主義的色彩にお目にかかれる。以下の如きは、その一証拠といっていい。

 


 尚、朝鮮では尿瓶が生活上の必要道具になって居る。それは長い冬の間、温突オンドルに閉ぢ籠ってゐる事から起った習慣だが、又、便所に通ふと言ふ労作を避ける事が貴人の態度であると考へたからだ。宴席の時でも人前で平気で尿瓶を用ゐるのだ。要するに貴人は奴隷若しくは奴隷に等しき者を沢山使ふ可き筈だと言ふ立前から、こんな事になったのだ。(79頁)

 

 

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 それにつけても、こうした「大陸人気質」を目の当たりにするたび思い出すのは第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの金言である。


 1841年の夏、奴隷制度のひときわ激しいケンタッキー州を旅行したリンカーンは、次のような手紙を友人に送った。

 


 …ケンタッキーを旅行中ある人から聴いたことだが、彼は「例え貴方が土地や金や銀行の株券や債券を沢山持っていたとしても、貴方をよく知らぬ初対面の人などは、貴方をそれほど金持ちだとは思いますまい。けれども奴隷を供につけて歩けば誰でも貴方は奴隷を蓄え得る程の財産家であるとすぐ思います。これが自分は金持ちであるとアピールする最良の方法です。青年が結婚でも申し込んだ暁には、娘の両親がまず訊ねるのは何人の黒奴を所有しているかということです」と言った。
 ケンタッキーでは今日も我も我もと奴隷所有の競争をしている。
 奴隷以上にありがたい財産はないと信じているのだ。
 この悪傾向は白人の堕落を助長し、神聖なる労働を卑しむ事となった。就中なかんずくこの悪風に染まり易いのは思慮分別に乏しい青年である。国家の柱石となるべき青年が労働を蔑視し、惰弱に流るることは実に寒心すべきである。

 

 

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 リンカーンがおそれ、国を戦火に包んででも到来を防いだ社会の姿。それはまさに、同時期の支那・朝鮮の現実そのものではなかったか。


 この対照の皮肉さは、見方によってはほとんど戯画的なまでである。


 職業に貴賤なきことを、我々は大いに戒心せねばならないだろう。さもなくば、歴史の過ちを繰り返す愚人の謗りは免れ得ない。

 

 

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波多野承五郎の英人評 ―今村繁三との談話から―

 

 欧州大戦の余燼が未だくすぶっていた時代――。


 ロンドン西郊に泰然と聳える男子全寮制のパブリックスクールイートン・カレッジに長年奉職した老教師が、日本国を訪れた。


 この歓迎役を務めたのが今村繁三。青年時代イギリスに留学、ケンブリッジ大学で文学士の学位を受けた今村は、むろんイートン・カレッジについてもよく知っていた。

 

 

今村繁三-肖像画

Wikipediaより、今村繁三) 

 


 創立が1440年まで遡れる由緒正しさ、重厚なるゴシック様式から成る校舎、両手の指を総動員してなお足らぬほど多くの首相を出している実績。すべて、すべて今村の脳細胞に刻まれている。
 成蹊園――現在の成蹊大学に続く――を財政的に支援していた今村としては、是非とも何か話を引き出し、今後の資本としたかったろう。そこでまず、


「あなたの教鞭の下に立った人には、偉い人が沢山居ます」


 と水を向け、彼の教育上に於ける功績、如何に大かを讃美した。


 ところがこの老教師は少し視線を動かしただけで顔色も変えない。やがてゆるゆると、色の薄れた唇を開いて発した言葉は、


イートンから偉い人が沢山出たと言う事は、当り前の事で誇りとするに足らぬ」


 という、彼の気位が想像の十倍も高いことを思わせるようなものだった。


「ただ、誇るべきは」

 

 と、恐縮する今村をよそに老人は続ける。


「今回の欧州戦争で討ち死にしたのは、イートン出の者が最も多かったということだ」
「どのような精神教育の方針から、そのような事になったのでしょう」
「自分は今日まで、イートンボーイに公的精神パブリックスピリットを吹き込むことにのみ努めて来たが、英国紳士修養の本源は、イートンだけで捏ね上げたのでは勿論ない」
「では」


 その「本源」は何処にあるのか、と、今村はこれこそ彼から得たかった肝心要、値千金の教訓ゆえに、執拗な詮索を敢えてした。


 ――わかりきったことを。


 老教師は単純な数学の公式を問われたような面持ちで、


「無論、家庭である」


 と答えたという。

 

 

Eton Chapel 20040214

 (Wikipediaより、イートン・カレッジのチャペル)

 


 以上は波多野承五郎が、今村繁三の口から直接聞いたエピソードだ。


 前回の記事でも触れた通り、波多野は慶応義塾の出身。今村も英国に渡る前、慶應義塾幼稚舎に通っていた経歴がある。


 ある種の先輩後輩と言ってよく、その縁で親しく話を交わすこともあったのだろう。

 

 

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(慶応大学の銀杏並木)

 


 英国紳士と言ふ言葉は、ヨーロッパで男子の典型のやうに考へられて居る。夫れは真面目で、率直で、真剣味のある中にユーモアの気分を湛えて居る磊落型の性格を有する人の事だ。英人をジョンブルの綽名で呼んで居る。ブルとは牡牛だ。剛健にして且つ鈍重味があるところから、斯う言はれたのだ。(『梟の目』90頁)

 


 英国人を評価すること頗る高く、日本人も彼らの長所を積極的に取り入れてゆくべきだとかねてより主張していた波多野である。
 今村繁三の話に随分と感銘を受けたらしく、

 


 英国紳士が男子の典型だと言はれるのは、一は、鈍重なる磊落気分に満ちて居るからであるが、学問は飯を食ふ為の学問ではない、品性を作りあげる為に、イートンにも行けばケンブリッジ、オックスフォードにも入るのだと言ふ観念があるからだ。而してここに所謂品性とは英国特有の家庭を土台として之に公的精神を吹込ませて作りあげられたのだ。此内容を有せずして、徒に英国紳士風を装ふも沐猴にして冠するのだと言ふべきだ。(92頁)

 


 このように自説を発展させている。

 


 EU離脱が承認された欧州議会で衝撃的な――まことに衝撃的な――演説をファラージ党首がぶちかまし、なにかと話題を呼んでいる今日。こうした記述を、改めて掘り返すのもいいだろう。


 波多野や今村を魅了したジョンブルらしさ。その本質と、それが今のイギリスにどれほど残っていることか。じっくりと見届けさせて貰いたい。

 

 

慶應義塾大学の「今」を読む

慶應義塾大学の「今」を読む

 

 

 

 


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給料自粛の不文律 ―官尊民卑の激しき時代―

 

 このころ「官」が如何に強大なりしかを象徴するエピソードとして、「給料自粛の不文律」が挙げられる。


 これがいったいどういうものか。慶応義塾の出身で、実業家にして衆議院議員波多野承五郎の筆を借りてお目にかけよう。

 


 其頃の三菱や郵船は勿論、日本銀行でも重役使用人に対する給与が貧弱であった。夫れは政府の官吏を目安として割り出されたからだ。例へば重役は大臣と同じ月給を貰っては相済まぬ。先づ次官あたりの程度に遠慮して居らねばならぬ。他の使用人は局長以下それぞれ比準する所がなければならぬと言ったやうな、考で、給与が出来て居た。(昭和二年刊行『梟の目』43頁)

 


 たかが民間企業の重役ふぜいが、畏れ多くも堂々たる日本政府の大臣様より高い給料をもらうなど不敬千万、慎みやがれというわけだ。今からすれば馬鹿馬鹿しいにも程があろうが、その馬鹿馬鹿しい内容が正気で罷り通っていたのが明治初頭という時代であった。

 

 

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 福沢諭吉官尊民卑の四字熟語を新たに作り、その弊風を打破せよと絶叫したのも頷ける。

 

 

蒔かぬ果報を寝て待つよりも
起って働け我手足

何をくよくよあのお武家
人の稼ぎを見て暮す

仁義道徳くそでもくらへ
ごじきしながら青表紙

 


 斯くの如き端唄を口ずさんでまで、人々の心に独立自尊の精神を励起せしめんとした福沢だ。
 如何に「立って働」いたところで官吏の給料を越えられぬ、所謂「天井」が設けられている社会など、彼にはどうあっても我慢ならないものだったろう。


 この「給料自粛の不文律」は、やがて三井家使用人の増棒が実現されたのを皮切りに順次打破されてゆくのだが、それでも暫くのうちは猶も政府に遠慮して、あれこれ「特別手当」にかこつけて実質的な増棒を行うところがほとんどだったそうである。

 

 

Mitsui Main Building

 (Wikipediaより、三井本館)

 


 ――斯くも強大な「官」の保護を。


 全面的に受けていたのが陸運元会社に他ならず、経営陣が軒並み案山子程度の頭脳あたまの持ち主でもない限り、同社の繁栄は約束されたも同然だった。


 むろん、吉村甚兵衛佐々木荘助も、無能とは程遠い「切れ者」である。


 政府の保護に甘えるのみにあらずして、これを活用する術を、熱心に研究する勤勉さをも持ち合わせていた。

 


 ではその「保護」の内容を、幾つか詳しく眺めてみよう。

 


 たとえば明治五年九月。政府内のある人物が、


「郵便はなにも書簡に限らず、小包も運ぶようにしたらどうか」


 そのように提案したことがある。
 おそらくは何の気なしのこの発言に、しかし駅逓頭前島密は極めて敏感に反応した。

 


「今陸運元会社をして物貨転送の業を許し、尚ほ駅逓寮に於て小包類の転送を為さば、其の許す所の物貨転送は唯空名のみ。依て是等は一切陸運元会社をして之を輸送せしむべし」(『国際通運株式会社史』86頁)

 


 貨物の運送を独占させるってえな名目で、連中に郵便業を棄てさせたんだ。今更約束を違えられるか――暗にそう言わんばかりの論調でこの提案を封じ込め、同時に次のような建白書を作成し、陸運元会社の特権が今後脅かされぬようはからっている。

 


 郵便事務上に於て、当然支給すべき各地郵便取扱所脚夫賃の運送及び郵便切手鬻売代金の収納は、陸運元会社に命じて之を授受せしめ、連月其の運賃を交付すれば、凡そ郵便の通ずる地は、月々必ず正確なる宰領往復を為すを以て、脚夫賃金の交附、切手代金の領収、金子入書状の転送等、別に費用を要せずして運輸の道を開き、始めて国内一般郵便方法の完全を得るのみならず、会社も亦遍く物貨転送の便法を得るを以て僻陬辺境と雖も、人間交際欠くべからざる小包物転送の利益を興すべし(87頁)

 


 ATMなど影も形も見当たらないこの時代、駅逓寮から各郵便局へ支給金を交付するには、また各地で販売した郵便切手の売上金を駅逓寮が収納するには、やはり人が直接手に携えて、それを運ぶ必要があった。

 

 

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 毎月発生するこの仕事。本来ならば駅逓寮自身が負担すべき任務だろうが、前島密敢えてこれを陸運元会社に委託。その都合上、金子入書状――今で言う現金書留の如きもの――の運送許可すら与えるという、まさに破格の待遇で迎えた。

 


 ――郵便事業から手を引きさえしたならば、代わりに貨物運送業に関して政府は支援を惜しまない。君達飛脚連の独占と為し、駅逓寮からも屡々仕事を回してやろう。

 

 

 


 上の記事にて言及した、前島と佐々木の利権交換。


 あの発言を、前島は律義に守り通したといっていい。この建白書はつつがなく太政官に容れられて、陸運元会社には数多の仕事が、しかも安定して舞い込んで来るようになり、社員はますますその運送技術を習熟させる。


 ずぶずぶの関係とはこういうものであったろう。政商が儲かると言われるわけだ。

 

 

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 前回の記事にて言及した「陸運会社の強制解散」に関しても、陸運元会社の上役連は一年前から耳打ちされて知っていた。


 ――近く政府はこのように動く予定である。


 だからその際、速やかに全国の物流網を掌握できるように準備しておけ。


 そのような内示があったという。


 この官命を全うすべく、会社はたとえば「物貨取扱規則」を制定。今後宙に浮いた数多の人材を吸収する展開が予想されるが、そうなったとしてもサービスの質が低下することなきように、新入社員にも古参連にも二十ヶ条からなるこの規則集を遵守さすべく手配している。


 この二十ヶ条中、とりわけ面白いのは十一番目だ。

 


十一、物貨配達の日、其領受人の不在等を以て、配達再三に及ぶものは、毎度其配達賃の一倍を収むべし。

 


 この時代からもう既に、「荷受人の不在」は重大な問題だったらしい。


 現代の運輸業者の方々も、ひょっとしたらこれぐらいの――その都度、運賃がかさむという――ペナルティは科してやりたいと念願しながら不在票を突っ込んでいるのではなかろうか。

 

 

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社章にまつわるエピソード ―「E」を伝えた前島密―

 

 少々話を先取りしたい。


 前回の末尾でさも華々しくスタートを切った陸運元会社であるが、実際にこの社名が通用したのは明治五年から八年までと意外に短い。


 何故か。


 明治八年四月十三日の令により、内務卿大久保利通の名の下に、日本国内に点在するすべての陸運会社が強制解散に追い込まれたからである。

 


 諸国各道に於ける陸運会社の儀は、多くは官の勧誘を以て結社候より、往々私会の体裁を失し不都合に付、本年五月十一日限り、総て解社申付候に付、此旨布達候事。(『国際通運株式会社史』120~121頁)

 

 

Toshimichi Okubo 3

Wikipediaより、明治五年の大久保利通) 

 


 この災禍を免れた「例外」たるや、ひとり定飛脚問屋の末裔たる陸運元会社のみであった。


 これにて国内の陸運事業はまったく彼らの独占に帰し、それはそれでたいへんめでたい展開なのだが、しかし看板と現実の間に齟齬が生じたのは見逃せない。


「各駅の陸運会社と連合して、其の締めとなりて、大いに陸上交通の便を発達せしむ」という抱負を籠めて設定された会社名だが、その陸運会社がもはや自分達しか存在していない以上、元締めもクソもないであろう。


 ――ここは一番、よろしく社名を一新すべし。


 そういうわけで、この新たな状況に即した名を選定する必要が生じ、最終的に内国通運会社の称が採用されるに至るわけだ。


 一新したのは、社名のみにとどまらない。
 この機に乗じ、社章も新たに整えられる。


 最初内国通運会社では、日ノ丸の中に「通」の一字を白く抜いたデザインを以って己が社章と為す気であった。ところがこの草案を携えて駅逓寮に出頭し、前島密に許可を願うと、意外にも彼は一瞥するなり


「これでは何だか周囲が寂しい感じを受ける」


 と言い出してあからさまに難色を示し、判子を押そうとしないのである。

 

 

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「まあ見ておれ」


 狼狽する社の使いをおもむろに制し、筆を取り上げ、暫らくその穂先を遊ばせていた前島だったが、やがて視線に力がこもると迷いのない手つきでこれを振るって、あっという間に日ノ丸の左右にアルファベットの「E」の字を書き加えてのけていた。


「どうだ」


 莞爾として微笑しながら、前島はこの「E」の由来を諄々と説いた。


 曰く、太平洋を隔てた先の米国では、目下アメリカン・エキスプレス・カンパニーというのが勢い甚だ盛んにして、国家の為に偉大な功績を挙げつつある。


「諸君らが模範とすべき対象として、これより相応しいものはないだろう」


 じゃによって、須らく社章にEXPRESSの頭文字たる「E」を加えて業務に出精、彼らの如く我がくに交通業こうつうぎょうの発展に尽瘁せよ。――前島の説諭を要約すると、大方こんな具合になる。


 なるほど新帰朝組の前島らしい、至極ハイカラな考案だった。イギリスに渡り、列国の郵便・運送事情を皮膚で学んだ彼ならではの発想だろう。

 

 

Maejima Hisoka

Wikipediaより、幕末期の前島密) 

 


 頭取を務める吉村甚兵衛副社長たる佐々木荘助にも異存はない。謹んでこれを押し頂き、斯くて

 

E🔴E


 のマークを印した社旗が、日本全国、至る処の青空に翩々として翻る光景が現出する運びとなった(中心の🔴に白く抜かれた「通」の字は、どうか皆様方の脳内で補完していただきたい。己が技術力の至らなさを憾むばかりだ)。


 以降、半世紀以上に亘ってこのマークは些かの変更も加えられぬまま用いられ、人々の網膜に親しまれた。


 このあたりの機微を『国際通運株式会社史』の古色蒼然たる表現から拝借すると、

 


 仮令たとい欧米列強の国旗を知らざる者といへども、尚ほE🔴Eが当社の社章なることを知らざるものなき程、普く世に知らるるに至れたり。(129~130頁)

 


 ざっとこのような塩梅になり、なんとも誇らしげな様子が目に浮かぶ。
 現在の日本通運ロゴマークにも、明らかに当時の名残りが見て取れるだろう。

 

 

Nittsu logo

Wikipediaより、日通ロゴ) 

 


 前島密が範に採ったアメリカン・エキスプレスはその後金融業へ舵を切り、クレジットカードの草分けとなった。略称のアメックスAMEXで呼んだ方が、或いは理解が早いだろうか。


 これもある意味、「外国に追いつけ、追い越せ」の一典型だ。前島の鼓舞を大いに受けた内国通運会社は、国際通運株式会社日本通運株式会社と度重なる改称を経ながら、しかし荷物を運ぶという根本的な業務内容に変更はなく、今日も忙しく道路上を行き来している。

 

 

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陸運元会社の誕生 ―日本通運への軌跡―

 

 前島密佐々木荘助


 日本物流史に巨頭として名を印せられるに値する、この両名が再び顔を合わせたのは明治五年四月の某日のこと。「司」から昇格を果たした駅逓に、前島が佐々木を招喚するという形をとった。


 目的は、不毛なる郵便戦争終結にある。


 およそ二年ぶりに再会した佐々木荘助の印象を、前島密はその自伝たる『鴻爪痕』で次のように述べている。

 


 此人はやや気力あり、識量もある好男子で、先づ私を見ると、頗る憤激した容子ようすで、二百五十年余、我国の通信に功徳のあった事を述べて、政府は之を賞誉すべき筈であるに、却て其業を奪ひ取らうとするは、不道理の至りであるといふ事を弁明して、郵便の廃止を強請して止まない。(86頁)

 


 この剣幕に、前島密は逆らわなかった。
 あくまで穏やかな顔つきをして、時折


 ――もっともなことだ。


 と言わんばかりに点頭してやる。そうして荘助の鋭鋒がふとやわらいだ隙を衝き、


「それならば誠に政府は君達の請願を容れて、通信の事は一切君等の手に任せる事にしたところで」


 と前措いてから、


「ここに水陸両道のある安房の或村に送る一通の信書があるが、君等は幾らの賃銭で、之を届けることが出来るかね」


 今度は逆に、彼の方から問い詰めた。

 

 

Maeshima

 (Wikipediaより、切手になった前島密

 


「人夫を一人、特発しなければなりませんから、まず一両はいただかなければ」


 質問の意図を勘繰るよりも、反射的に口が動いた。
 荘助の、職業人らしい習性であろう。


「では宛先が鹿児島だったり、根室だった場合はどうだ」


 日本の南端、北端に等しい語感である。
 特に鹿児島に至っては、未だ西南戦争以前で不平士族の坩堝と化しているころのこと。他国人が迂闊に足を踏み入れればどうなるか知れたものでなく、「薩摩飛脚」の四文字にまつわる恐怖感情は現役だった。


「特使を発しても難しいかと。何十両かかるかわかりませぬ」


 そのように荘助が答えると、前島は身を乗り出さんばかりの勢いで、


「一衣帯水を隔てる朝鮮の釜山にはどうだ、支那の上海にはどうだ」
「……」


 ――そんな万に一つの例外を持ち出して、煙に巻こうったってそうはいかねえ。


 腕まくりしてそう啖呵を切れたのならばどれほど楽か。が、荘助は不幸にも、さまで血の巡りの悪い男ではない。そこは流石、前島が「識量もある好男子」と見込んだだけのことはあり、


(これは暗に、これからの世はそういう注文が例外でなくなる、ならねばならぬ、俺がそうすると言っているのだ)


 と、すぐに見抜いた。
 事実、前島はそのつもりでいる。

 

 

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 先年イギリスで目撃したきらびやかな「文明社会」にこの日本国も参画するには、その程度の仕組み、前提として敷かねばならぬ。生涯初の洋行は、彼の郵便への信念をますます堅固にする効果を示した。
 続く言葉に、その気負い込みようがよく表れている。

 


 猶英米にはどうだ、露佛にはどうだと聞くと、茫然として気抜の様になり、どうして達し得るか其道を知らないと言って、大に恥入った様子であるから、私はそもそも通信といふ者は、国際上に貿易上に又社交上に極めて必要な事であって、内国は勿論、外国でも通信の設のある文明国には、遍く達すべき設備が無くてはならない。それを君等の家業のやうに、一地一部を限った通信では、この大目的に適しないといふ事を、徐に言って聞かせ、それから今官で以て郵便を施設しようとするのは、この大目的を達する為であって、(中略)所謂通信自在の域に到らせようとの大計画である。もし君等に能く此事が出来るならば、我は君等に代って、政府に請願しても宜しいのだと言った(86~87頁)

 


 これはもう、立派な演説と看做してよい。


 日本国には長いこと、この演説という意志伝達法が欠けていた。明治維新後、漸く齎された舶来品といっていい。当然免疫など備わっている筈もなく、荘助は不覚にも一大感動を発してしまった。


(負けた)


 男として、志の雄大で、自分はこいつに敵わない。――
 そう実感しつつも、しかし気分がどんどん晴れ晴れとしてくるのはいったいどういうわけだろう。荘助は、己が心に戸惑った。


 そうした心理的動向は、対面している前島密にすぐ伝わる。


(ここだ)


 練りに練った講和の条件。それを呑ませるにあたって今以上の好機はないと、理性と本能、両方が口をそろえて告げていた。


 といって、何も不平等条約を押し付けようというのではない。


 ここで視点をちょっと切り替え、再び『国際通運株式会社史』の筆法を借りよう。本書によると、前島密はこのように持ちかけて来たという。

 


 …此際信書逓送の業には全然断念し、貨物運送の業を専らと為すべし。元来貨物の運送は、郵便事業に次ぎ、人間の生活上必要欠くべからざる事業なれば、政府も其の事業を奨励し、其の発達を保護せざるべからず。同じく保護を加へざるべからざるものとせば、其の方其定飛脚問屋を保護し、当寮の直轄たる御用達会社と為し、郵便に属する貨物運送の御用を請負はしめむと欲す。宜しく政府の意を體して、去就を過つこと無く、転禍為福の道を講ずべし(69頁)

 


 郵便事業から手を引きさえしたならば、代わりに貨物運送業に関して政府は支援を惜しまない。君達飛脚連の独占と為し、駅逓寮からも屡々仕事を回してやろう――要するに利権の交換めいた相談として描かれている。

 

 

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 この提案を、果たして荘助は快諾した。

 快諾していい。実際問題、落としどころとしてこれ以上は望めまい。

 

 早速帰店して仲間一同を招集し、前島密の口吻を伝え、この際我々は彼の内命に従って駅逓寮に直属する貨物運送専業会社を設立すべし、それこそ繁栄の道である――と呼ばわったところ、意外にも反応は芳しくない。


(我々は、勝っているではないか)

 

 この時点で、より多くの国内シェアを握っているのは明らかに飛脚側である。
 にも拘らず、その優勢な我々が、みずから郵便の権利を投げ出さねばならないとはなにごとか。もっと粘れば、あるいはより良い条件を引き出せるのではないか――?


 そうした算盤勘定の外に、単純に先祖伝来の家業から離れたくないという保守的感情も手伝っている。まるでいつかの再現の如く、荘助は孤立している自分自身に気が付いた。

 

 

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 が、かつて・・・とで違うのは、荘助の内に己が意見を支える確たる根拠があることである。


「事、遷延せば」


 暗雲を吹き散らすような勢いで、声を励まし、荘助は言った。


「我々は政府の同情を失い、終いには法律の力に依って家業を取り上げられ、一同分散の憂き目を味わうことになる」


 一喝したといっていい。

 

 脅しではない。前島なら、日本を文明国に導くという信念に狂っているあの男なら、それしきのことはやってのけると誰よりも荘助自身が信じていた。


 その必死の気迫が伝わったのか、不承不承ながらも一同やむなく和睦に同意。荘助は早速その旨を前島密に報告し、翌五月にはもう必要書類を取りまとめ、会社創立の請願を提出している。

 


 事前の約束通り、ほとんど右から左といったスムーズさで許可は下り。

 


 明治五年六月、本店を日本橋区佐内町の和泉屋が店舗内に設置して、ついに陸運元会社は誕生した。


 形態は、五軒仲間一同を株主とする株式会社。「各駅の陸運会社と連合して、其の締めとなりて、大いに陸上交通の便を発達せしむ」という抱負を籠めて名付けられた会社名が、決して看板倒れの類ではないと、間もなく日本中が知ることになる。

 

 

前島密=創業の精神と業績=モノクロ版

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