穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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夢路紀行抄 ―嵐の夜に―

 

 風の音に聾され続けた夜だった。


 台風15号関東平野を舐め上げるように通過していった昨晩の話だ。吹き付ける風雨の凄まじさに家の骨組が悲鳴を上げて、その不吉な音色とひっきりなしな震動に、ともすれば防空壕B-29の爆撃に耐え忍ぶ戦時中の方々の心に僅かなりとも共感できた気さえした。

 

 

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 おまけに雨戸という雨戸をみんな閉め切ってしまったものだから、ひどく蒸して不快指数がみるみるうちに上昇した。かといってあの暴風の中、無思慮にクーラーなんぞをつけようものなら、室外機に自殺を強いるようなものである。


 結局、扇風機を抱くようにして寝るしかなかった。


 台風が襲来した夜というのは、いつも決まってこのこれだ。寝苦しいったらありゃしない。


 その所為か、二十年来の友人から連帯保証人になってくれと頼まれるという、とんでもない夢まで見てしまった。


 急な申し出に私は驚き、かつおそれ、


 ――いくらお前の頼みでも、こればっかりは。


 そう峻拒すると友人は、途端にはじかれたように顔を上げ、


 ――そうか、まあそりゃ、そうだよな。


 頷いて、殊更に明るい声で笑ってのけた。


 声量は大きい。大きいが、その大きさは謂わば風船の大きさで、中身がちっとも詰まっていない。


 虚勢であると一目で知れた。


 今すぐにでも膝から地面に崩れ落ちるか、さもなくば私の胸倉をつかまえて、この人非人の冷血漢と罵りたいのが正直なところであったろう。


 が、そうした本音の噴出を一手に抑え、あくまでいやなものを残さず立ち去ろうとする後姿に、


 ――この男のためならば、判子の十や二十、ついてやっても惜しくないのではあるまいか。


 との想いが、沛然として私の胸奥から湧いた。


 が、それが言葉となって舌の先から滑り出ることはついぞなかった。夢の中であるにも拘らず、理性が、経験が、本来麻痺しているはずの諸々の機能が、私の行動を抑止したのだ。


 そして今なお、あの判断が間違っていたとは思わない。「感動」は危険だ。「快楽」と同じく迂闊に身を委ねると、ついに人生を誤りかねない。

 


 夢はこの一幕だけでなく、他にもクローゼットにぎっしり詰まった竹槍とか、何がしか見たものがあったはずだが、そうしたものはちぎれちぎれの綿雲のように断片的な映像が記憶野にこびりついているだけで、はっきり筋道立てては到底語れそうにない。


 異様な夜には異様な夢を見るものだ。そう結論して終りにしよう。

 

 

 

 

 


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戦前の詐欺広告 ―妙な頓智の効かせ方―

 

 日露戦争後の不景気の只中――。


 井上馨が金を求めて躍起になってる、その裏側で、以下のような広告が某新聞紙に掲載されて、一部界隈の眼をそばだたせた。
 曰く、

 


「一円送ってよこせば、寝て居て楽に食はれる法を教へる」(『修養全集 11 処世常識宝典』118頁)

 


 罠であろう。
 ちょっと考えれば稚児でもわかる。仙人にでもならない限り、そんな都合のいい話があるわけがない。そしてこの広告主が真に仙術を修めているなら、どうして今更一円などというはした金を請求するのか。

 どの方向から突っついても一つも道理に適った部分が出て来ない、布を被せざる落とし穴も同然な見え見えの罠に相違なかった。


 ところがどういう心理の作用だろうか、こうも露骨に見えている地雷である場合、逆に率先してかかりたくなる衝動が湧き上がって来るものらしい。現にこの胡散臭い広告に一円を払った者がいた。
 で、しばらくして届いた回答にはごくごく短く、

 


「餓狼の穴の入口に寝てゐればよい」(同上)

 


 と書かれていたとのことである。


 楽に食われる――楽に、喰われる


 生活して行けるという意味でなくして、そのまま直截に生物の胃袋に収納される。なるほど確かに、意味が通っていなくもない。


 敢えて異議を唱えるならば、狼に食われるというのは決して楽な――つまり、容易に死ねるという意味で――道とは限らず、長時間に亘って惨烈な苦しみの持続する場合の方が寧ろ多いということなのだが、まあ、これは所詮水掛け論だ。自重しよう。

 

 

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 こういう頓智の効いた、禅坊主の講釈めいた詐欺広告はいつの時代も絶えないもので、現に2ch発祥のコピペの中にも、

 


株で大損したので、インターネットで
「株で絶対損しない(秘)方法」という情報を見つけて
3万円で買ったら、送られてきた封筒の中に、
一枚の便箋が入っていて、

 

「株をやめなさい」

 

とだけ書いてありました。

 

これは詐欺で訴えることができるのでしょうか?

 


 と、軌を一にしたものが見受けられる。
 こういう場合、謂わば「元締め」たるオークションサイトなんかがどんな裁定を下すのか、それは私の知り及ぶところではないのだが、戦前の新聞社の対応ならば把握している。


 詐欺広告を掲載してしまった新聞社の対応は一つ、「何もしない」だ。


 欄を取り仕切る広告係は探偵ではなく、それに一々信用調査などしていては、かかる費用も馬鹿にならぬし何より毎日の締め切りに間に合わなくなる。さすれば他社に先んじられることは必定であり、待っているのは経営不振の奈落以外にないであろう。営利を追求する企業にとって最も忌むべき展開だ。


 ゆえに新聞社は碌に取捨選択もしないまま、この種の怪しげな広告をぬけぬけと掲載し続けた。

 


 胃腸病患者の諸君! 一回試みれば食欲を増進さすること神の如く、薬品機械を要せずして極めて簡単なる科学的新療法。悩み患ふものよ、直ちに申込みて神来の福音に浴せよ!

 


「!」マークに「神」に「福音」――。
 なんともはや、華美なる文字が並ぶではないか。
 それにつられて青白い顔をした学生なんぞがうっかり金を送った日には、やはり紙切れ一枚が送られてきて、

 


「三四日断食すべし」

 


 素っ気なく記されているのみだったという。


 そりゃあ確かに絶食すれば、すなわち飢餓に陥って、熱烈に食物を恋うようになるに違いない。
 人体生理学上、なにもおかしなところはないだろう。ということはつまり、「科学的」ということでもある。だが、この釈然としない感覚はなんであろうか。

 

 

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 こうした現象はひとり大日本帝国のみでなく、海を挟んだアメリでもやはり猖獗をきわめていて、

 


 帽子、衣類、その他何でも自由に掛けることが出来て取り扱いは簡便、如何なる場所にも自由に取り付け得る世界一の重宝器具提供。現に全国二千万戸の家庭に使用されつつあり。定価送料一ドル。

 


 との広告を某夕刊の、しかも一面に発見し、これはと思って飛びつくと、送られて来た小包は馬鹿に小さい。


 はてな、と訝しがりながらも開封してみれば、出て来るのは四重五重にも重ねられた包装紙ばかりで、いよいよ首を傾げなければならなくなる。


 そのすべてを、やっとの思いで除き終えると、コロンと転がり落ちて来たのは豈図らんやただ一本の五寸釘

 

 

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 なるほどこれなら場所を選ばず何処にだろうと取り付けられるし、扱いだって簡単だ。コートも帽子もなんであろうと掛けれる。全国二千万戸の家庭で使用されているというのも嘘ではない、むしろ控え目な表現だろう。


 怒りを通り越して、いっそ感心したくなる。智慧の使いどころをあからさまに間違えている輩というのは、なかなかどうして絶えないものだ。

 

 

だましの手口 (PHP新書)

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井上馨と波佐見金山 ―明治四十四年の失態―

 

 昨日紹介した『修養全集 11 処世常識宝典』には、実のところ渋沢栄一翁も小稿を寄せてくれている。


叱言こごとの言ひ方」と題したその中で、翁は明治の元勲・井上馨を引き合いに出し、

 


 叱言をいふ際には、必ず他人の居らぬ処ですべきである。故井上馨侯は偉い人であったが、非常に口喧しい性質で、来客でもあった時に、取次に出た女中が何かヘマな真似でもすれば、ガミガミ叱責し、果ては何の罪もない客にまで怒を遷して無機嫌な様子をされたものであるが、斯ういふ事は客に対して礼を失する計りでなく、叱責される本人にとっても、反省よりも寧ろ反感を抱かしむる場合が少なくないのであるから、是非とも慎む様に心掛くべきである。(44頁)

 


 以上のように評価した。
 まず、反面教師扱いといって差し支えなかろう。
 日露戦争必要論を説きに行った杉山茂丸に対してそうしたように、この井上という人物は、己と政見を異にする相手や何か失態を犯した部下に対して、とにかく雷を落としまくる男であった。


 ついた渾名が「雷じじい」。なにやらドラえもん名脇役を彷彿とさせる響きだが、井上馨の頭部には別段禿げあがった様子もない。

 

 

Inoue Kaoru

Wikipediaより、井上馨) 

 


 ところがこの雷爺さん、井上馨が、お得意の雷を落とす気力さえ失うほどに手酷くやられた事件があった。


 明治四十四年第二次桂内閣時代に起こった波佐見金山事件がそれである。


 大蔵省の大御所として多大な影響力を保持していた井上馨はこの当時、日本が陥っている経済的窮境を鑑みて、これを打破するには内地に於ける金の所有額を増加せしめるより外にないとの結論に至った。
 そのためには、この列島の地下に眠れる金鉱石を掘り出すのが一番手っ取り早かろう。


 以上の経緯から、盛んに産金主義を力説するのが井上馨以下大蔵省の年来の方針に他ならなかった。結果煽てられた民衆が、金、金、金と眼の色を変えて各地の山や渓谷を跋渉してまわる光景が現出する。


 ――長崎県東彼ひがしそのぎ郡の波佐見村に、どうやら一大金鉱があるらしい。


 その報せが齎されたのは、そんな熱っぽい空気中でのことだった。

 

 

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 いや、波佐見金山の発見自体は明治二十九年と、ずいぶん前に済んでいる。翌三十年には開鉱され、以来祁答院けとういん重義なる持ち主のもと、多少の金を産出していた模様であった。


 ところが最近の調査でこの山が、実は遥かに大規模な金脈を底に湛えていると判明し、しかしながら採掘を本格稼働させるには、到底今までの経営体制では覚束なく、何処か銀行からの大規模融資がどうしても要ると、旱天に慈雨を請う百姓そのものの必死さで待ち望んでいるというではないか。

 


 井上にとっては、正しく鴨が葱を背負って来たに等しい話であった。

 


 が、流石にいきなり飛びつくほど思慮の足りない男ではない。井上はまず手元から、崎川幾太郎なる技師を派遣し、実地調査にあたらせた。するとどうであろう、間もなくして「正に有望なり」との報告が送られて来たではないか。


 事ここに至って、井上は敢然腰を上げる決断を下した。電光石火で「波佐見金山株式会社」なるものを設立すると、日本興業銀行――みずほ銀行の前身の一つに相当する――を動かしてこれに三百万円の資本金を投ぜしめ、あっという間に鉱山の直接経営権を握ったのである。

 

 

Industrial Bank of Japan Head Office in 1950s

Wikipediaより、1950年代の日本興業銀行本店)

 


 当時の三百万円といえば、およそ現在の三十億円に相当する。井上馨が如何に黄金を求めていたか、その熱烈さがこの数字からでも伝わるだろう。


 が、いざ本格的な採掘作業にかかってみると、意外や意外、出て来る金はなんとも微々たる量ではないか。


 波佐見金山は大正三年の閉山までに金1トン、銀2.4トンをそれぞれ産出したという。


 比較のために記しておくと、井上がかつて明治四年に悪辣な手管を弄して南部藩御用商人・村井茂平からむしり取ろうとした――尾去沢汚職事件――尾去沢鉱山の産出量は、金4.4トンに銀155トン。


 かの有名な佐渡金山83トン。ことに17世紀前半の最盛期には、年間400キロもの黄金がこの島の地下から湧き出たそうな。


 そして1985年に出鉱開始して以来、またたく間に日本最大の金鉱山の名誉をかっさらっていった菱刈金山の産出量は、今年三月の時点で実に242.2トン。文字通り桁違いといっていい。

 

 

Sadokinzan-doyunowareto 01

Wikipediaより、佐渡金山) 

 


 これでは「微々たる」という表現を使わざるを得ないであろう。少なくとも、井上の期待を大幅に下回ったのは間違いない。むろん、投下された三百万の回収など夢にも及ばず、日本興業銀行にはとんでもない大穴が開けられる始末に至った。


 この穴埋めに、興銀は以降十五年に亘って呻吟させられ続ける破目になる。


 尾去沢汚職事件を秋霜の如き厳しさで以って検断し、井上を台閣から追い払った江藤新平司法卿がこの情景を目撃したなら、果たして何と言うだろう。忸怩たる思いに歯を食いしばり、それみたことか、だから言わぬことではない、やはりあのとき徹底的に葬っておけばよかったのだと呻くだろうか。


 さしもの井上馨とて、晩年に入ってからのこの失敗はこたえたらしく、めっきり威勢を削がれてしまい、雷親父のあの威勢は何処へやら、影も薄まり、まるで死病にでも取り憑かれたようだったと当時の訪客が語っている。

 


 のち、波佐見金山は三菱鉱業の手に移り、大東亜戦争中、大村空廠の地下工場として活用された。

 

 

 

 

 


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昭和四年の「共稼ぎ」八句

 

 安かったのは、背表紙が剥げ落ちていたからだろう。

 

 

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 神保町にて500円で購入した、昭和四年刊行『修養全集 11 処世常識宝典』を読んでいたときのことである。


「共稼ぎ」を主題に詠まれた短歌を集めた頁という、一風変わったものを発見した。夫の部と妻の部とにそれぞれ分かれ、これがなかなか趣深いので紹介したい。
 まずは夫の部から。

 

 

洗濯もしよう御飯も焚きませう
共稼ぎして貰ふ身なれば

 


 男子厨房に入るなかれという考え方は、このころ既に崩れはじめていたようだ。

 

 

共稼ぎさせる夫の禁物は
邪推嫉妬に無駄な干渉

 


 妻を「外に出した」場合に夫が強いられる焦慮というのはただごとではない。畜生蟲がたかりゃアしないか、ちゃんと追っ払うだろうなあいつはよ、といった具合だ。特に妻が器量よしであればあるほど、その心配は指数関数的に高まってゆく。


 うろ覚えだが、ノモンハンで戦った兵士の戦記物にもよく似た描写があったと思う。


 部隊の中にやたらと見目麗しい嫁をもらった奴がいて、そいつがよく他の兵隊からからかわれるのだ。
 さだめし後ろが心配だろう、女房殿が空閨孤独に堪えかねて、なんぞ火遊びに手を出すまいか。あの美貌なら遊び相手にゃ困るまい、それこそ引く手あまただろうぜ――確かこんな調子だったはずである。

 あわれその兵隊は、毎度毎度顔を赤くしたり蒼くしたり忙しかった。


 ままならぬのは自分の心。如何に禁物と言われても、制御しかねるものは必ずあるのだ。

 

 

交際も欠けまいけれど女房に
稼がせてゐて酒も飲めまい

たまたまに二人揃うた休日を
顔見合わせて暮らす楽しさ

 


 続いて妻の部に入る。

 

 

ありのまま良人に話出来ぬこと
をりをりあるが悲しかりけり

 


 辛くとも、守秘義務は全うされねばならない。
 立派な職業意識ではないか。

 

 

ツンとしてゐると言はれりゃ無難なり
冗談口はわざはひのもと

 


 夫の部の「共稼ぎさせる夫の禁物は 邪推嫉妬に無駄な干渉」に対応した句であろう。
 ちょっと愛想よくされただけですぐ自分に気があるものと思い込む、馬鹿な男は古今を分かたずいるものである。


 彼らに夢を見させてやるべきではないのだ。

 

 

共稼ぎする目的は生計を
助ける為と貯金するため

女房は稼がずとても貯金をば
上手にするが共稼ぎなり

 

 

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 以上八首が「共稼ぎ」主題の短歌として掲載されていたモノである。


 本書にはこれ以外にも、なかなか秀逸な警句が多い。例えば612ページから始まる「子供の躾け方二十五箇条」なるものには、

 


(11) 愛で導き涙で叱れ。

 


 という頂門の一針そのものな教えが含まれているし、更に目を転ずれば、

 

 

生まれた日
母が死なうと
した日なり
(559頁)

 


 出産の苦痛をかつてないほど鋭く抉った十七文字に出くわしたりする。


 これが500円は、やはり安い。素晴らしく割のいい買い物をしたと評してよかろう。

 良書との遭遇は、何度経験してもいいものだ。

 

 

修養 (角川ソフィア文庫)

修養 (角川ソフィア文庫)

 

 

 

 


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ペルーのコカ・チューイング

 

 西洋文明とコカの最初の接触は、1533年、スペインの軍人であるフランシスコ・ピサロが200名弱の兵を率いてペルーを征服したときだった。

 

 

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 原住民たるインディオにとって、コカほど神聖なものはまたとない。その葉を噛めばたちどころに悲しみは癒え、もう一歩も動けないほど蓄積していた疲労感さえ溶けるが如く消え去るのである。
 魔術的なまでの薬効に、信仰が生まれるのは必然だった。彼らは墓前にコカの葉を置き、神々への捧げものにもあてがうなど、祭事の方面でも大いにこの植物を利用した。


 当然、新たなる支配者がこれを見逃すわけがない。


 数多くの探検家がコカの葉を噛み、結果得られた快感についてあちらこちらで吹聴し、「コカの葉を噛んでいる瞬間こそ、わが生涯最良の時」と放言する詩人まで現れた。


 やがてコカの葉が単に快楽をもたらすだけの代物でなく、人体を深刻に蝕む性能をも併せ持つことが判明すると、流石に文明社会の表舞台から引っ込みはしたが、「原産地」での使用は相も変わらず行われ続けた。


 何故か。


 彼ら西洋人にとって、新たに獲得した領土を切り拓き、植民事業を推し進めて行く上で、その方が都合がよかったからだ。


 なにせ原住民たちときたら、どんな重労働を強いられようが劣悪な環境下に置かれようが、コカの葉さえ与えておけば大人しく言うことを聞くのである。人道に配慮する必要がまるでなく、効率だけを唯一絶対の価値基準と看做していいなら、誰だって同じ選択をするだろう。

 

 

Erythroxylum coca - Köhler–s Medizinal-Pflanzen-204

Wikipediaより、コカ) 

 


 かくして南米のコカ・チューイング事情は何百年もの間放置され、ピサロが目撃した当時とほとんど何も変わらぬまま、ある意味平和で幸福な日々を送った。


 その様子を、1930年に現地を旅したリヒャルト・カッツなる人物が、詳細に書き残してくれている。

 


 ペルーにはコカノキが野生しているので、1ポンド2~3シリングという安い値で売り捌かれている。野生品の産出額は、毎月の彼らの消費量たる一人当たり1~4ポンドを遥かに超え、彼らは折に触れそれを噛んでいる内に、だんだんやめられず、しまいには年がら年中、これを手放せなくなってしまう。彼らはそうすることで「毒」が消えると信じて、コカの葉に石灰を塗りつけている。

 


 補足しておくと、1ポンドはおよそ450グラムに相当する。
 毎月毎月2kgものコカの葉をしゃぶっていれば、そりゃあ中毒にもなるだろう。それぐらいやらなければ現実が辛すぎて堪えられなかったとも受け止められるが、さて。

 


 この地方の人々は、今も土人たちがコカの葉を噛んでいる風習を、喫煙より悪いとは考えていない。コカの葉の与える刺激がなければ、いかなるインディアンも、200ポンドの袋を運ぶことは出来ないという事実を、ここの地主たちはよく心得ているし、公平な科学者さえ同意している。

 


 昨今の日本社会でも、よく大麻が人体に及ぼす害毒を、煙草のそれと比較したがる人々がいる。
 そういう運命なのだろうか、あの嗜好品は。

 

 

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 コカの葉を噛む風習は、紛れもなくやむにやまれぬものとなってしまった。
 何も履かない裸足の年老いたインディアンは、その日その日の食糧に持参した二つのサトウキビをコカの葉以外のものとは交換しようとしない。
 コカ葉売りの女は、年老いたインディアンのサトウキビを手にとって臭いを嗅いだり、指先でいじくったりして見、それからコカの葉を一掴みぐらい、彼の差し出した帽子の中へ投げ入れてやるのである。ところが年老いたインディアンは、やにっぽい眼をしょぼしょぼさせながら、もっと下さいとせがまんばかりの風情をし、憐れにも差し出した帽子を引っ込めようとしない。
 いちに集ったコカ葉売りの女たちは、それには目もくれず、仲間の方を向いて世間話を始めてしまう。
 ところが時には、コカ葉売りの女の背に、ショールでおんぶしている小さい女の子が、そーっと母親の肩ごしに手をのばし、可憐な手つきでコカの葉を取り出しては、憐れにも年老いたインディアンの差し伸べている帽子の中へ投げ込んでやる。するとはじめてインディアンは満足げな顔をして、そこから立ち去ってゆくのである。
 もはや彼には食うべき何物もないが、噛むべきコカの葉があり、これこそは彼にとって三度の飯よりも大事なのである。

 


 人間世界の悲惨に絶句するべきか、それとも幼子の無垢なやさしさに感じ入ればいいのだろうか。読んでいるこっちが混乱してくる情景であろう。

 


 無加工の葉の段階で、既にここまで人を虜にして離さぬ力が存在している。


 況してや化学的工程を踏んで、薬効を爆発的に引き上げられた白い粉コカインに於いてをや。世に不幸な出会いは数あれど、コカの葉と有機溶剤、この組み合わせに勝るものはまたとなかろう。

 

 

 

 

 


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欧州大戦下のウィンストン・チャーチル ―アスキス首相の日記から―

 

 彼は歴史の梶をその手に握った男であった。


 ハーバート・ヘンリー・アスキス。


 第一次世界大戦勃発当時、大英帝国首相を務めていた人物である。

 

 

Herbert Henry Asquith

 (Wikipediaより、アスキス)

 


 結果的には彼の指揮するところによってイギリスはドイツに宣戦布告するのだが、この決断は、並の神経で下せるものでは決してなかった。


 なにしろ、世論どころか内閣までもが和戦をめぐって真っ二つに割れている。


 平和論の急先鋒は自由党の長老株にしてアスキス個人としても敬愛するところの深いジョン・モーリー枢相。開戦となれば彼は即刻辞表を叩きつけるに違いない。


 かといって、モーリーの意見を容れて絶対不干渉を貫くと言えば、今度は「政治家としての」アスキスが最も頼りにした男――エドワード・グレイ外相に絶縁状を叩きつけたも同然になる。


 ロンドンの銀行団は平和論に傾いている。


 闘争心の権化たること火の玉の如きウィンストン・チャーチルは、今すぐにでも開戦しようと気焔を上げまくっている。


 とてつもない板挟みを強いられたアスキスの心労たるや、まったく想像の外である。

 最後通牒を突き付けられたドイツ国民は呆然とし、やがて立ち直るやイギリスの奸智を口々にののしり、書店を襲って英語の本を引っ張り出しては街路で滅茶滅茶に引き裂くというパフォーマンスで自分達の怒りを表現したが、この決断はアスキスにとっても我が身を引き裂くに等しい苦痛の伴うものだった。


 案の定、最後通牒を送ると同時に、モーリーを含めた四人の閣僚が辞表を携えてやって来た。アスキスは懸命にこれを慰留せんと試みて、うち二人の説得には成功したが、モーリーと労働党出身のジョン・バーンはあくまで己が所信を貫き、この内閣から去っている。

 

 

John Morley, 1st Viscount Morley of Blackburn by Walter William Ouless

Wikipediaより、ジョン・モーリー)

 


 平和派は去り、いよいよアスキス内閣は戦争遂行に邁進してゆくこととなる。


 ところがこれで閣内の意見衝突が終熄したわけではない。見方によっては、ますますひどくなったとさえ言える。


 新たに起用されたキッチナー陸相、及びフィッシャー第一海軍卿の両名が、閣内の「ある人物たち」と深刻な性格的対立を惹き起こしたのが主な原因であったろう。


 その人物とは、まず蔵相のロイド・ジョージ


 そして何より、狂犬よりも狂犬らしいあの男、ウィンストン・チャーチルその人だった。

 

 

Sir Winston Churchill - 19086236948

Wikipediaより、チャーチル) 

 


 この頃のアスキスの日記には、よくチャーチルの姿が登場する。


 アスキスは自分より一回りも若いこの猛烈な性格の持ち主を常にウィンストンと呼び捨てにして、恰も長兄が末弟に接するが如き雅量を以って記したという。


 試みにその部分を抽出すると、

 


八月四日 最後通牒をドイツに送る。その期限は今日の夜半をもって終る。(中略)ウィンストンはもうすっかり戦争気分で、明朝早晩ゲーベン号を撃沈しようと手ぐすねを引いている。

 


 ドイツ海軍の巡洋戦艦モルトケ級の二番艦たるゲーベン号。
 ドイツ地中海艦隊の旗艦たるこのフネこそが、開戦当初に於けるチャーチル第一の獲物であったようである。

 


八月五日 キッチナーを陸相とす。(中略)ウィンストンはゲーベン号のことを考えて、涎を垂らしている。しかし同艦は未だ所在不明だ。(後略)


八月十一日 長き閣議。その大部分はウィンストンとキッチナーの話で占領された。ウィンストンは軍略の専門家の如く語り、キッチナーはアイルランド問題の専門家のごとく語る。


八月十七日 ウィンストンは戦意勃々、ダータネルス海峡に水雷艇を送り、トルコ港に逃げ込んだゲーベン号を撃沈せんと息巻く。

 


 この「ゲーベン号のトルコ港逃げ込み」の一件こそ、ドイツがオスマントルコを自陣営に引き込む決定的な要因となった。

 


八月十八日 ウィンストンは只今、水雷艇二隊を以って、北海海上のドイツ艦隊を追い廻し中なり。日没までに全部撃沈の計画。

 


 この下りからは、一心不乱に骨の玩具を追いかけ廻す飼い犬を見守る飼手のような温情味ある雰囲気が、どこかしら感ぜられるものである。

 

 

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八月二十六日 ウィンストンは陸戦隊をベルギー海岸に上陸せしめて、ドイツ陸軍と戦わんとて閣議にて大騒動す。


九月九日 冒険好きのウィンストンは、只今出発フランス海岸ダンケルクに赴く。彼の飛行根拠地視察のためなり。

 


 極めて運命的な地名が出た。
 ダンケルク
 二十六年後、この地に於いて押し寄せるナチスドイツからの大規模撤退作戦が、しかも首相たる自分の命令で執り行われることになろうとは、よもやチャーチルとて夢にも思わなかったに違いない。

 

 

British gunner ship dunkirk

 (Wikipediaより、ダンケルクから撤退するイギリス軍)

 


十月五日 今日二個の悲喜劇起こる。ベルギーの陸戦隊視察中のウィンストンより電報あり、内閣を辞して、陸戦隊司令官として従軍したしとの懇請である。彼の精神を謝し、その申出を拒絶す。

 


 ブルドックの異名に不足なし。普通なら脚色を疑うところでも、チャーチルならばと素直に納得出来てしまう。
 前線の匂いを嗅いだあまり、血が騒いでどうにもならなくなったのだろう。如何にもチャーチルらしい突飛さだ。

 


十月(日付無し) キッチナーの新編成軍の話を聞きて、ウィンストン涎を流す。彼は、おおよそ二十五年前の旧知識しかない士官達にこの大軍の指揮はとても安心してまかせられぬとて、旧式軍人を罵り、警句奇句、口を衝いて迸る。英語にもかかる不思議なる悪口の数々あるものかと驚嘆す。速記者をして一々書き止めざりしことを悔ゆ。彼の即席の雄弁は全く天下一なり(後略)

 


 こんな男が重鎮であれば、そりゃあ衝突の一つや二つ起きるだろう。
 まったくこの時の「悪口の数々」を書き止めておかなかったのは惜しい限りだ。そうすれば今頃、チャーチルの言行録がもっと分厚くなっていたに違いないのに。

 

 

チャーチル150の言葉

チャーチル150の言葉

 

  

 

 


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都都逸撰集

 

 

赤い顔してお酒を呑んで
今朝の勘定で蒼くなる

 


 人の営みの普遍性に感じ入るのはこういうときだ。人間とは似たような愚行を性懲りもなく重ねつつ、歴史を編んでゆくものらしい。


 人情の機微を赤裸々に、しかも陽気に表現する術として、都都逸どどいつは川柳に劣らない。七・七・七・五の音律から成るこの歌で、殊更私の琴線に響いたものを幾つか紹介させてもらおう。

 

 

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今年世の中稲刈りそめて
神と君とに重ね餅

女蝶男蝶の盃よりも
好いた同士の茶碗酒

こなた思へば野も瀬も山も
藪も林も知らで来た

こなた思へば千里も一里
逢はず戻れば一里が千里

 


 宴会の座で芸者の鳴らす三味線の音に合わせて歌われることが多かっただけに、都都逸にはこの種の男女の情のこまやかな交わりを表現したものがかなりある。

 

 

ぬしを帰して跡見送れば
エエイ邪慳な曲り角

ほれてわるけりゃ見せずにおくれ
ぬしのやさしい気心を

 


 なんともいじらしいことではないか。
 これぞ女の深情けというものだ。

 

 

星の数ほど男はあれど
月と見るのは主ばかり

 


 この歌は、「男」の部分を「女」に換えてもまず問題なく機能しよう。
 だが、あまり調子のいいことばかり言っていると、

 

 

これが嘘つく舌かと思や
噛んでやりたいことがある

 


 思わぬ火傷を負うおそれがあるので注意されたし。

 

 

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切れてしまえば他人ぢゃけれど
人がわる云や腹が立つ

 


 社会関係は紙一枚ですぱりと断てても、心の方は容易にいかぬ。別れたとは言え、かつての女房。ナーニ、どうせあんなのは癇癪持ちのろくでもねえアマっ子でえ、歳喰っていよいよ鬼婆の本性を現すより先に手を切れて、お前さんむしろツイてたぜ、などと言われれば、いくら善意からの発言であろうとぶん殴りたくなって然るべきであるだろう。

 

 

二度と行くまい丹後の宮津
縞の財布が空になる

 


 今となっては跡形もないが、丹後の宮津――すなわち京都府宮津市には、宮津新浜遊郭なる一大花街が存在していた。


 その規模、その繁盛ぶりは祇園に匹敵したと言えば、おおよその雰囲気は掴めるだろうか。


 そしてこの歌のようなことをほざく奴ほど、ほとぼりが冷めればすぐまた財布を厚くして、意気揚々とこの街に乗り込んでいったものである。

 

 

Amanohashidate view from Mt Moju02s3s4592

Wikipediaより、宮津市

 

 

人に物云や油の雫
落ちて広がるどこまでも

 


 まこと、口は禍の元。


 一度漏らした秘密というのは、どんなに固く口止めしても不思議な力でいつの間にやら世間の皆が知っている。


 ゆめゆめ警戒を怠らぬことだ。

 

 

 

 

 


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