穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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祖国の誇り ―アテナイからイギリスへ―

 

アテナイ人には愛国心を教えることを要しない。彼らはただ一目アテネの都を見ることによってこの国に対して恋に陥るであろう」


 ただでさえ偉大であった古代アテネをいよいよ偉大にした男、かの都市国家に繁栄の絶頂を齎せし導き手として人類史に不朽の金字塔を打ち立てた、紛うことなき大政治家――ペリクレスの発言である。


 彼が祖国に対して抱くところの誇りと愛。その二項とが如何に雄大、将に天を衝かんばかりであったか、いとも容易く窺い知れよう。


 しかもその誇り方がまた爽やかで、聞き手に不快な感情をちっとも催させないあたり、名人芸としかいいようがない。彼の演説が二十五世紀を経た今日でもなお色褪せず、欧州政治家の面々からお手本として渇仰され続けている所以がわかろうといういうものである。

 

 

Bust Pericles Chiaramonti

Wikipediaより、ペリクレス) 

 


 ペリクレスの統治下で実現されたアテネ黄金期とはよほどきらびやかであったらしく、史家のトゥキディデスに至っては、


「我等は文明の魁、人類の先駆である。我等のむれに入り、我等の交わりに加わることは、人間として享有し得べき最上の慶福である。我等の勢力範囲に入ることは隷属にあらずして、特権である」


 このような記述を遺してさえいる。
 なんともはや、虹のような意気ではないか。


「特定の国家を贔屓せず、水のように平静な視点から歴史を綴った」と評価されている彼をしてさえこう・・なのだ。


 同時代のアテナイ市民の気分が如何なるものであったのか、おおよそ察しがつくだろう。

 

 

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 実に素晴らしい。征服とは、植民とは、統治とは、これぐらい華やかな心境のもとやるべきだ。


 そうした意味でも、アテネはまったく人類史の手本である。


 手本といえば、のち、デモステネスがみずからの雄弁をみがく一環として、このトゥキディデスの著作物を書写したことは以前に述べた。

 

 

 


 この一節も、おそらくはデモステネスの筆先が書きなぞったことだろう。

 ああまで熱狂的な愛国心の持ち主と化すのも納得である。

 そしてそんなデモステネスの雄弁を、遥かな後年、オックスフォードのとある学生が「発見」し、これに心酔、英訳するわ暗誦するわの岡惚れぶりを発揮するのだ。


 この学生こそ、後に大ピットの名で世に知れ渡る、初代チャタム伯爵、ウィリアム・ピットその人だった。彼もまた、「文明の魁にして人類の先駆である大英帝国の支配圏に組み込まれることは、人間として享有し得べき最上の慶福」と信じつつ、フランスとの熾烈な植民地争奪戦争をやってのけていたのだろうか。

 

 時を超え、受け継がれゆく人の意志。なんと壮大であることか。

 

 

戦史 (中公クラシックス)

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松尾芭蕉の辞世観

 

 松尾芭蕉の面上に、老いの影が深くなりはじめた頃のこと。
 弟子のひとりが彼に向かって、


 ――今まで詠んだ句の中で、辞世にしても差支えのない名吟は幾つありや。


 といった趣旨の問いを発した。
 これを聞いた俳聖は、しばらくその弟子の顔をじっと見つめて、やがて


「さても無益なことを訊くものかな」


 と呟いたという。


「今日の俳句は今日の辞世、明日の俳句は明日の辞世ではないか。わが生涯に云い棄てし句に一句として辞世ならざるはない」


 芭蕉が如何に研ぎ澄まされた死生観の持ち主だったか、刻明にあらわす逸話であろう。


 死を日常のものとして、常に意識の俎上に載せておく。
 新たな一日を迎える度に、「今日が人生最後の日だ」との心構えで臨んで、一分一秒たりとても決してゆるがせにせず過ごす。


 濃い人生を送るための要諦だ。確か葉隠にも類似の下りがあったように思うのだが、どうであろうか。


 いずれにせよ、当時の日本人らしい考え方に相違ない。二日酔いで脳が死に、ろくに読書も出来ぬまま、気付けば茜さす空を呆然と見上げる破目に至った本日只今の私には、なかなか堪えるエピソードである。

 

 

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 もし唐突に今日が人生最後の日になりでもしたら、私はさぞや狼狽し、そして後悔するだろう。
 とても芭蕉のように清澄な心持ちではいられまい。酒は呑んでも呑まれるな、正体をなくすほど呑むべきではないと再三にわたって学習しているはずなのに、何故こうまでも繰り返すのか。

 

 

酔ざめの水飲みたさに酒を飲み

 

酔ひざめの水のあじひ下戸知らず

 


 酒呑みも、この古川柳ぐらいの心境に至れたならば、きっと一流なのだろうけど。

 

 

葉隠入門 (新潮文庫)

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部屋の中のセミファイナル

 

 三日前は蜘蛛だった。


 それが一昨日はヤスデになり、昨日の晩にはとうとうセミが。


 あつかましくも私の部屋に侵入してきた蟲である。


 日を追うごとに、明らかに大型化しているのが見て取れるだろう。このぶんだと今夜あたり何が襲って来るのやら、考えるだに物憂くなる。

 

 

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 蜘蛛とヤスデはその場で潰した。


 てこずったのはセミである。全身あぶらぎったこの昆虫が文字通り飛び込んできやがったのは、夜半、ふとしたことからベランダに通ずる窓を開いた、一瞬の隙をついてのこと。
 この点、私はまったく彼ら虫ケラどもの光に吸い寄せられるチカラの強烈さをみくびっていたとしか言いようがない。我ながら呪詛すべき迂闊さだ。


 そしてセミファイナルがはじまった。


 あたかも死したるが如き風情でごろりと仰向けにひっくり返っているくせに、ちょっとでも刺激を加えられるや即座に息を吹き返し、物狂いしたとしか思えない滅茶苦茶な軌道でそこいらじゅうを飛び回る、セミ特有のあの動作のことである。
 実際に体験してみるとわかるが、心臓に悪いことこの上ない。

 

 

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 これを叩き潰すのは、流石に心理的抵抗が大き過ぎた。


 やむなく厚く重ねたティッシュで以って捕まえて、窓の外に放してやることにしたのだが、ティッシュ越しにもヤツが羽を震わせている、その震動がもろに伝わってきておぞましいったらありゃしなかった。


 これだから夏は嫌なのだ。カメムシ、ムカデ、蛾に蚊柱と、気味の悪い昆虫どもが時を得顔で大発生する。ああ、本当に嫌な季節だとも。

 

 

りんねしゃ 菊花せんこう 標準 30巻入り

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大正皇后の御聖徳 ―関東大震災慰問編―

 

 ――何十年かぶりに、東京からでも富士の高嶺がありありと拝めた。


 古老をして斯く言わしめたほどに、地上物の一切合財を破壊し尽くした関東大震災


 大正十二年九月一日に発生したこの未曾有の災禍を受けて、時の首相・山本権兵衛率いるところの内閣は「復興に勝る供養なし」のスローガンを打ち出すと、それが看板倒れに終わらぬように様々な政策を発動。


 たまたま焼け残っていた、当時の横浜社会館の建物をして「臨時震災事務局神奈川県救済病院」なるものの開設場所に充てたのも、その政策の一環とみて差し支えない。


 震災による傷病者を広く収容したこの病院にて目まぐるしく働く医師たちの正体は、やはり同じく震災によって自分の医院を焼き払われて、まったく無一物の境遇に陥っていた市内の開業医並びに歯科医数十名だった。その纏め役、すなわち院長として抜擢されたのが、先日の記事で言及した野球好きの歌人外科医・渡辺房吉その人だったのである。

 

 

 


 彼の指揮下、医師団は一致団結して治療の道に邁進した。


 そんな彼らの頭上に思いもかけぬ栄誉が舞い落ちてきたのは同年十一月五日のこと。渡辺院長自身の自身の筆跡を借りるなら、「私共の病院へ、畏くも只今の皇太后陛下、当時の皇后陛下の御行啓を仰ぎ奉るの光栄に浴することを得たのである(昭和九年、渡辺房吉著『老医の繰言』280頁)

 

 

Sadako Kujo wedding

 (Wikipediaより、大正皇后)

 


 そも、皇后陛下が被災民慰問を行ったのは関東大震災に於ける大正皇后が初めてのこと。


 九月十五日のその歴史的瞬間から未だ二ヶ月も経ておらず、渡辺院長以下病院関係者一同が受けた衝撃たるや、それが既に常態化した今日の我々には到底計り知れないものだ。


 その日の情景を、渡辺院長は次のように書き綴っている。

 


 院内一同は感激に満ち、御奉迎の光栄と歓喜とに溢れ、前日来病室は更なり、廊下、天井、窓硝子、電燈等に至るまで清潔の上も清潔にし、仮りの御休憩室には殊に細心の注意を払ひ、壁、窓、床面等すべて厳重に消毒せりき。(中略)其の日はまだきより出勤して、更に幾度びか病院の内外を見廻はり万端手落ちなきを確かめぬ。かくて午前九時三十分院内職員一同は長く両列に居並び謹みにも、慎み畏みにも恐みて、至慈至愛なる国母陛下を奉迎しぬ。(同上、282~283頁)

 


 一文字一文字、隅から隅まで感激のみなぎらざるところなき文章といっていい。


 しかも渡辺院長のこの感激に、大正皇后は完璧以上に応えてくれたというのだからもうたまらない。陛下が見せた所作挙動、その悉くが慈母としての哀憐の情の結晶であり、案内を終えた後じきじきに、


「病人の為めに盡くして下さい」


 との御言葉を賜ったときには、爆発する無上の歓喜と誇りの衝撃に、あやうく渡辺の心臓は停止しかけた。

 

 

HIM the Empress' personal visit

 (Wikipediaより、九月十五日、被災者を慰問する大正皇后)

 


 門前に再び陛下を奉送し終えると、未だ粘膜の内側を強く疼かせる熱さに従い、渡辺房吉は猛然たる勢いで筆を走らせ、幾首かの歌を書き付けている。

 

 

あやまちのただになかれと祈りつつ
恐れかしこみておん前に出づ

遠くゐておろがむだにもかしこきを
おん前ちかく我が召されたる

畏くも国つみははのおん前に
我さぶらひてことたまはりぬ

民草をいたはらせ給ふ御言葉に
いらへまつらぬことのあらなく

失ひし家も宝も何ならむ
今日の我が身のこのほまれはも

 

 

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 彼が皇室を礼讃し、その弥栄いやさかを祈ること尋常一様でなくなった淵源は、まったくこの日の感動にこそ見出せる。少なくとも私の眼には、そのようにしか思えない。


 大和男子には古来より、こういう型が確実に存在し続けている。その最大例は、流浪の後醍醐天皇


「われをたすけよ」


 と肩をたたかれただけで感奮し、この君のために死ぬはらを決め、事実そのような最期を遂げた、河内の悪党・楠木正成に他ならぬだろう。


 渡辺院長もまた、大正皇后から直々に玉音を賜った。


 楠木正成と渡辺房吉。両者の脳内で同パターンの電気的作用が発生していたと考えるのは、いささか牽強付会が過ぎるだろうか。

 

 

Kusunoki Masashige

 (Wikipediaより、楠木正成

 


 渡辺はべつに、次のような歌を作ってもいる。

 

 

日本国民のほこり


  一


あまつ日は とはにうらら
やま川は  さらにきよら
うるはしや  我が日の本
あめの下  くにはあれど
かかるくに ほかにありや。


  二


すめらぎの  みいづ高く
あめのむだ  極みあらず
いつかしや   我が日の本
地のうへに  きみはあれど
かかるきみ  ほかにありや。


  三


我がきみは  神のみすゑ
我がくには  神のみくに
たっとしや     我が日の本
いにしへゆ  この国民
神業かむわざの      いさほ立てぬ。


  四


このくには  我らのくに
このきみは  我らのきみ
ぐはしや  我が日の本
このつちに  我らうまれ
この民の   ほこりもてり。

 

 

時代を動かした天皇の言葉

時代を動かした天皇の言葉

 

 

 

 


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野球に熱狂するひとびと ―戦前戦後で変わらぬ熱気―

 

 

戦運我れに拙くて
無残や敵に屠られぬ
つづみを収め旗を巻き
悄然として力なく
いくさの庭を退しりぞきし
今日の悲憤を如何にせむ。

 


 一見軍歌か何かのような印象を受けるが、これは紛うことなき野球の歌だ。

 

 

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 戦前、東大内部のリーグ戦に於いて不敗を誇った法医学チーム。ところがこの「常勝球団」が、ある年の春期リーグに於いて完敗を喫する事態が発生。選手は悲憤の涙を呑み、観客はこぞって色を失くした。


 ――その、顔色を失った観客の中に。


 同校同学部のOBにして、現役の外科医でもある、渡辺房吉という人物がいたのである。


 古巣のチームのまさかの敗北に多大な衝撃を受けた渡辺は、自宅に引っ返すなりたちどころに上記の歌をしたためた。敗北に打ちひしがれているであろう選手たちを、激励する目的の歌である。


 球場を「いくさの庭」と呼んでいたりと、もうこの時点でだいぶ鬼気迫るものを覚えるが、歌は更に二番・三番と続いてゆく。

 

 


ああ事終り中原の
鹿敵軍の手に落ちぬ
いくたび兵を交ふるも
常勝の名をいただきて
敗れを知らぬ我軍の
恨み千秋消え難し。

 


 他校に敗けたわけではない。
 あくまで学内戦のはずである。
 にも拘らず「恨み千秋消え難し」とは、この思い入れの深さはなんであろう。野球というスポーツには今も昔も、人を過度の熱狂に導かずにはおかない魔力が宿っているらしい。

 

 


さもあらばあれ来ん秋の
争覇のちまた雪辱の
いくさに勝ちて勇ましく
凱歌をあげて紅ゐと
黄の大旗を押し立てむ
奮へ法医の健男子。

 


 来る秋季リーグにて思う存分復讐せよ、奴らに目にもの見せてやれ、と背中を張り飛ばす格好でこの激励歌は終わっている。
 そのとき凱歌と共に押し立てるべき「紅ゐと黄の大旗」こそ、法医学チームの旗章に他ならなかった。なんでも紅は血液を意味し、黄色は血清を象徴するものだという。


 このデザインを考案したのは、松橋紋三


 東京帝国大学医学部卒業後、羽志主水ペンネームで幾点かの小説を発表した男である。代表作に越後獅子『監獄部屋』


 松橋にしろ渡辺にしろ、東大医学部の卒業生というのは実に多芸だ。本業たる医の道をおろそかにすることなきままに、文筆の方面でもひとかどの名を残している。

 

 

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 松橋が小説ならば渡辺は随筆、また歌心も豊かな人で、第一次世界大戦でも有数の激戦地、フランス・ヴェルダンの戦場跡を訪れた際には、

 

 

くもでに張られた鉄条網は
錆びて
朽ちて
乱れ
千切れ
秋風にうなりを立てて
ただヒューヒューと鳴つてゐる。

 


 寂寥と無常感とが肌身に沁みる、みごとな詩を詠んでいる。


「はなび」と題する歌にも着目したい。何故かと言うに、

 

 

大空高く打ちあげた
花火は月を砕いたか
かけらかけらが白がねの
いさごと降りて乱れ散り
片割れ月ぞ
空にのこれる。

 


 この詩を読むと、砕月――東方Projectでも屈指の人気を誇るあの楽曲が、自然と脳内再生されるからだ。


 花火を砕けた月の欠片に擬する。思えばあの名曲をテーマ曲とする伊吹萃香も、文花帖にて月を砕く業を披露していた。


 古今を通して、人の考えるところは似るものだ。

 

 

東方文花帖 ~ Bohemian Archive in Japanese Red

東方文花帖 ~ Bohemian Archive in Japanese Red

 

 

 

 


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鉄道王の大激怒 ―小村寿太郎とエドワード・ハリマン―

 

 前回、せっかく小村寿太郎に触れたのだ。


 ここはひとつ、彼と併せて語られることの多いアメリカ合衆国鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンについても語らねば、なにやら勿体ないような感じがする。


 ゆえに、書こう。

 

 

Edward Henry Harriman 1899

 (Wikipediaより、ハリマン)

 


 フロンティアスピリットの権化めいた人格の持ち主であるハリマンは、かねてより極東に熱視線を向けていた。


 まず日本から南満州鉄道会社の管理権を得、ついでロシアから東清鉄道を買収し、それからシベリア鉄道を経由して、やがてはバルト海に面するリバウ港まで到達する。
 この連絡がついたなら、今度はリバウ港及び大連港と、ユーラシア大陸の両端からそれぞれ大西洋・太平洋を横断する汽船路を用意し、ついには合衆国本土に於ける自分の鉄道網に連絡せしめ、以って地球をぐるりと一周する、まことに雄大な交通路計画実現に胸を焦がしていたからである。

 

 

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 日露戦争の際、日本が公債をニューヨークに求めるや、たちどころに五百万ドルを引き受けたのもそれゆえだ。下準備の一環であり、ハリマンは戦争が終わってからにわかに集まってきたハイエナではない。


 よって、1905年8月


 駐日米国大使ロイド・グリスカの熱心な招聘に応じる形で日本を訪れたハリマンは、計画の前途に至極明るい見通しを立てていた。


 自分は日本国の勝利に大きく寄与した恩人である。その恩人に、まさか粗略な扱いはすまい。
 おまけにグリスカムの伝えるところに依れば、日本の廟議は南満州鉄道に対して夥しく消極的というではないか。


 この観測は正確だった。伊藤にしろにしろ井上にしろ、当節日本を動かしていた首脳陣の念慮するところの第一は、ロシア帝国の一大復讐に他ならない。


 確かに日本は勝利した。陸に海に連戦連勝を重ね、その度に国民は快哉を上げた。


 が、こちらの快はあちらの屈辱。


 日本が得意になればなるほど、ロシアはおのれこのままでおくべきかと憎悪の炎を猛り狂わせ、その火で以って爪を研ぐ。やがては復讐戦を企むに至り、第二次日露戦争が勃発するだろうということは、軍も政府も、等しく観測を一にするところであった。


 ――今度はロシアが臥薪嘗胆をやる番だ。


 この恐怖感情の痛烈さは、当時の日本人士になってみなければわからない。

 実際に満洲の大地でロシア軍と殺し殺されを経験した、原田政右衛門大尉などは、戦後『遺恨十年 日露未来戦』なる一書を著し、平和ボケした大日本帝国が準備万端の帝政ロシアに蹂躙され尽くす光景をこれでもかと描き出し、ついには制圧下に置かれた本土に於いて人権人権と騒ぎ立てる市民に向かい、占領軍たるロシア人兵士の口から、

 


「世界は最早日本なるものの存在を認めてゐないのだ、存在の無い貴様達の国民は如何に虐待しやうが一向差支はあるまい。貴様達は今尚自分達の国が世界に存在してゐるなどと思ったら大間違ひだ、日本といふ島は大ロシア帝国の一属地に過ぎないぢゃないか、図々しいことを言ふな貴様達を人間として扱ふてゐるだけで満足しろ。其れが口惜しいなら刀を以て向かって来い、今は口の世じゃない腕力の世だ、貴様の祖国が滅亡したのも結局其れが解らなかったからだ、俺等が何のかのといって持上げるやうな真似をするとい気になりやがって世界中で一番強い国だ、天祐によって戦はずに勝てるとでも思ったらう、莫迦莫迦! 先年貴様達と戦争をしてちょっと負けてやったら油断しやがって世界の強国もないもんだ、あれは悉皆みんな飴をしゃぶらしたんだ…どうだ思ひ当ったかこのたわけめッ」(大正二年、『遺恨十年 日露未来戦』392頁)

 


 こんな台詞を飛び出させるまでに至っている。
 猛烈火を吐くが如しとはこのことだ。時空を超えてこんにちを生きる我々にさえ突き刺さる、見事な警句と評したい。

 

 

Defenders NGM-v31-p369-A

 (Wikipediaより、ロシア帝国の軍歩兵)

 


 とまれ、こうした苦難多き未来図に苛まれる日本政府にとって、ハリマンの来日はむしろ勿怪の幸いだった。地獄の底で蜘蛛の糸を発見したカンダタのような心地がしたろう。


 あのだだっ広い満洲を日本国一手で防衛するなど、もとより無茶な注文なのだ。


 然るにそこへ米国を引き入れることが叶うのなら安心だ、緩衝材としてこれ以上ない効果を果たす。
 更にそうすることによって米人一般の好感を買い、戦後経営の資本を彼に期待せんとする――それが伊藤や桂、井上たちの初期案だった。
 これに則り、来日早々ハリマンは引きも切らぬ歓待を受ける。


 鉄道王がいよいよ前途に希望を強めた矢先、ポーツマス条約の内容が知れ渡るや、あろうことか市民が激昂。暴徒と化し、ご存知日比谷焼打ち事件を演出するなど、にわかに世上が騒然となり、満鉄の談判進行にも不便を来しだしたため、ハリマンは一旦日本を離脱。後事をグリスカムに託し、朝鮮及び清国視察の旅路に着いた。


 この間の、グリスカムの活動ぶりときたら凄まじい。この駐日大使は桂首相や井上馨と暇さえあれば面会し、


南満州鉄道には大規模な改善が必要、しかし時節柄日本としても容易なことではありますまい。然るにハリマンなら、これ位のことは朝飯前に弁じ得ますし、更に彼は銀行家との関係も方も密接だ。日本が必要とする資金調達も、彼の手を通すことで極めて簡単に行えましょう。しかもこの構想は結局は、日米間の経済的、ならびに政治的関係を、いよいよ親密ならしめる所以なのです」


 チョコレートの砂糖漬けみたようなうまい話を、盛んに耳に吹き込み続けた。


 甲斐あって、ハリマンが再び日本へ戻るや、後は彼が一筆署名さえすれば、たちどころに予備契約が成立するところまでお膳立てが済んでいたというのだから、グリスカムの周旋ぶりの凄まじさが窺い知れる。


 契約の要領に曰く、南満州鉄道を買収するため、日米シンジゲートを組織する。シンジゲートは、日本の法律に準拠すべく、最初は日本人の管理に属し、漸次組織を変更し、結局日米代表権が平等となるを以って已む」


 満額回答といっていい。ハリマンはほくほく顔でアメリカへと去った。


 ポーツマス条約を締結した小村寿太郎外相が横浜に帰着したのは、それから三日後のことである。

 

 

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 帰国早々、ハリマンによる満鉄日米合弁構想を耳にした小村は大いに驚き、徹底的な反対を表明。


「二十一万の死傷者と二十五億の巨費を投じて、辛うじて得た南満洲鉄道を、アメリカ資本の利益のために献上せんとするとは何事か」


 斯くの如く主張した。


 威勢はいい。が、これは外相の口にするべき内容ではない。


 市井の壮士が酒瓶片手にぶち上げる、景気がいいだけで後には何も残らない、安花火めいた代物である。イヤ献上するのではない、あくまで合弁、共同経営に持って行くつもりだと説くものがあっても、


「名は合弁なりと雖も、資金は米国、技師も米人と言うのでは、結局米国に満鉄をくれてやるのと何も変わらないではないか」


 と喝破して、とりつく島がなかったという。


 果たして情勢は一八〇度転換した。満鉄の日米合弁構想は風の前の塵に等しく吹き散らされて、ハリマンの二ヶ月余に及ぶ交渉の日々はまったく無意味な行為と化した。


 これで腹を立てない奴がいたなら、そいつはもう聖人君子の列に並べてしまって構うまい。
 イエス・キリストもにっこりだ。
 むろんハリマンはそのような、人間離れした大海にも比すべき慈悲の心の持ち主ではない。


 エドワード・ハリマンは激怒した。


 キレたと言っても言い過ぎではない。
 当然の権利であったろう。彼はまったく、お釈迦様が羊羹片手に挨拶に来ても赦すまじという気勢を示した。


 ほくそ笑んだのは北京の袁世凱に他ならなかった。夷を以って夷を制すは三千年来の支那の伝統。以後、袁はあからさまに米国に対して秋波を送り、日本の利益を侵害するような利権を、かの国に次々と提供してゆくことになる。


 日米戦争の萌芽は、この瞬間から露骨になったといっていい。


 小村寿太郎は国家一〇〇年の大計を誤った。そう誹られても、彼に抗弁する資格はなかろう。

 

 

井村屋 えいようかん 5本

井村屋 えいようかん 5本

 

 

 

 


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小村寿太郎の評価について

 

 いったい小村寿太郎という人物は、外交官として有能だったのか、どうか。


 この疑問を解き明かすには、なるたけ多角的な視点から彼を観察せねばなるまい。差し当たってまず第一に、1905年8月10日以降、アメリカ、ポーツマスにて日露戦争講和条件の諾否をめぐり、小村と激しく鎬を削ったロシアの雄、セルゲイ・ウィッテの眼に依るべきだ。

 

 

Sergei Yulyevich Witte 1905

Wikipediaより、セルゲイ・ウィッテ)

 


 この談判期間中、日本とロシアの外交団は同じホテルに宿泊していた。ひとつ屋根の下で過ごす以上、どうしても接触の機会は多くなる。小村とウィッテ、両国の代表がばったり出くわす機会もあったのだと、ウィッテは後にみずからの『回想録』にて述べている。


 その「機会」のうち、取り立てて特筆大書されているのが食堂に於ける一幕だ。なんでも講和会議の期間中、小村は156センチしかないあの小さな体躯でありながら、日に日に三食欠かさず喰って、決して習慣を崩そうとはしなかったという。
 その姿を、どういうわけかウィッテが「見かね」、食事中の小村に対し、態々忠告を与えたらしい。
 曰く、


「私の立場も苦しいが、君とてそれは同様だろう。こういう時は自然と睡眠不足になりがちで、体も段々弱ってくる。にも拘らず、そんな風に普段と同じ食事を摂っていては必ず悪い。もっと減らした方がいいだろう」


 身長180センチを突破し、小村と比べて明らかに一回りどころか二回りは大きい、まこと立派な体格のセルゲイ・ウィッテが彼から見れば豆粒のような小男に節食の勧めを説くのである。


 奇妙と言えば、これほど奇妙な光景もないであろう。


 こうした健康への気遣いが、結果的に樺太の領有権をめぐる攻防の明暗を分けたのだと、ウィッテは得意気に物語る。

 

 

Treaty of Portsmouth

 (Wikipediaより、講和交渉に臨む日露代表団)

 


 小村が談判の最後の最後でへたばって、樺太の北半分を頑張り得ずに抛げてしまったあの瞬間。実は自分も、樺太の全部を譲渡すると言い出す寸前だったのだ、と。


 それが思いもかけずに向こうの方から折れたから、ウィッテは吃驚して心中密かに欣喜雀躍したらしい。自分の方が小村より一寸長く息が続いたから助かった、まったくあれは体力の勝利に他ならなかったと、それがウィッテの見解だ。

 


 固より回想録である。そこに書かれている内容をすべて鵜呑みにすべきかどうかは計り難い。

 
 だが、まるきり事実無根の創作とも思えないのは、小村寿太郎の特徴として、こういう腰弱な態度を発揮する瞬間が確かに幾度か見られたからか。

 

 

Komura Jutaro

Wikipediaより、小村寿太郎

 


 同年12月、北京で袁世凱と交渉し、ポーツマス条約で日本に譲渡された南満州鉄道の権利を清国にも承認せしめたときのことだ。これに伴い、いくつかの秘密協定が同時に結ばれ、その中には満鉄と並行する鉄道の敷設禁止を取り決めたものもあったわけだが(「清国政府ハ南満洲鉄道ノ利益ヲ保護スル目的ヲ以テ、自ラ該鉄道回収以前ニ該鉄道ニ近ク或ハ之ト並行スル本線、或ハ鉄道ノ利益ヲ害スルコトアル可キ支線ヲ敷設セザル可キコトヲ約ス」)、この条項を作成する際の席上で、小村はだいぶまずい振る舞いを演じてしまった。

 

 

President Yuan Shikai of China

Wikipediaより、袁世凱

 


 それは清国側から「単に並行線という字句では余り茫漠に過ぎるから、マイル数を決めて幾マイル以内には並行線を敷くべからずと定めよう」と提案されたのに対し、あろうことか首を振り、


「もしマイル数を定めてしまえば、日本は他国に支那の鉄道事業を邪魔するものという印象を与えてしまうことだろう」


 と、不得要領な反論を為したことである。


 アメリカの鉄道王ハリマンを満鉄経営から蹴り出しておいて、今更「他国への印象」も何もなさそうなものだが、この点、小村の心理は理解し難い。


 清国側は面食らいつつも、「然らば並行線の規定は欧州の慣行に従ったらどうか」と食い下がったが、小村はこれをも


「欧州の慣行は一致していない」


 として退けている。


 火種を放置するどころか、新たな地雷を埋め込んだも同然だった。

 

 

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 このため禁止せらるべき並行線の距離・種類・性質、すべてが非常に曖昧なものとなり、紛争が起きない方がむしろおかしい、火薬庫同然の景を現出。このあたりの条件さえハッキリ詰めていたのなら、後年張作霖が並行線を敷いたときの展開も、或いは変わっていたやも知れぬのに、返す返すも切歯扼腕の至りである。

 


 結局のところ、小村寿太郎に関しては、

 


 いつの間にか、小村寿太郎侯は、陸奥宗光伯と並び立つ名外交家として定評を得てゐるやうであるが、しかし、当時誰が全権として講和会議に出張したとしても小村以上の働きは出来なかったと同様に、誰が全権であっても、あれだけの事は出来たと云ってはいけないだらうか。(中略)どうせ国力相応の事をやって来ただけで、十の国力を二十に働かせて外交上の勝利を得たのではあるまい。(昭和十七年、正宗白鳥『旅人の心』186頁)

 


 岡山の作家・正宗白鳥のこの評が、もっとも適当なように思える。

 

 

白鳥随筆 (講談社文芸文庫)

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