穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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教祖みなこれ雄弁家 ―oratory―

 

「雄弁」を意味する英単語を捜索すると、oratoryオラトリ―に行き当たる。


 ラテン語Oratoriaオラトリアから派生し来った英単語だ。


 更にこの「Oratoria」を遡ると、その淵源がorareオラレという、やはりラテン語にあることが判明する。


「orare」とは「祈祷する」の意であって、その昔の欧州に於いて祈祷所をOratoriumオラトリウムと呼び習わしていたのもここからだ。


 一連の経緯を俯瞰した場合、若干論理の飛躍は要るが、雄弁の起源は宗教にありと看做すことも可能であろう。なるほど確かに釈迦といい孔子といいキリストといい、古の教祖と呼ばれる連中は、みな押しなべて際立った弁論術の持ち主だった。

 

 

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 日本人でこのことに逸早く気付いたのが鈴木正吾という代議士であって、彼は特に釈迦とキリストを選んで自らの演説道の師匠としている。

 


 私は始めて演説の門に入りました時、此の道の奥に達せんと欲すれば、宜しく斯道第一の達人を師と仰ぐべしと思ひました。而して私はこれを現代の雄弁家に求めて得ず、これを史中の雄弁家に求めて得ず、全く我流の選択ですが、私は釈迦とキリストこそ、古今独歩の大雄弁家なりと断じ、これを師と仰ぐことに決めて、二聖の雄弁遺稿ともいふべき経典とバイブルを教科書とし、時々味読して居ります。(昭和十二年、『新時代卓上演説集』370頁)

 


 独創的な試みと言える。
 聖典を「心の平穏」のみならず、処世のためにも活用したのだ。
 この試みが如何に効果的であったかを、鈴木は身を以って証明している。1932年、第18回衆議院議員選挙に無所属で立候補して初当選を決めて以来、計七度の当選を記録。ことに1942年の翼賛選挙に於いてなど、大政翼賛会の推薦を受けていないにも拘らず当選を決めた。

 

 

Japanese General election, 1942 ja

Wikipediaより、第21回衆議院議員総選挙結果)

 


 この85名の非推薦議員の中に、鈴木も名を連ねていたことになる。
 彼が如何に深く人心を得ていたか、おおよその雰囲気は察せよう。
 では、具体的にどのような演説を行い、上記の成果を招来したか。再び『新時代卓上演説集』から引いてみる。

 


 私が、一杯の水、これを毒蛇に与ふれば毒となり、これを牝牛に与ふれば牛乳になるといふ、仏典中の一比喩をかりて、選挙権の作用も亦斯の如し、これを良き候補者に投ずれば善政の乳となり、これを悪候補者に投ずれば悪政の毒となると述べた演説が、当地に於てかなり広く流行したことは、諸君御承知の通りであります。若し諸君が活眼を開いて仏典を読破せられるならば、現代社会の諸問題を演説せらるるに当り、一般聴衆を首肯せしむるに足る好個の話材、絶妙の比喩、破的の論法を意に随って発見せられるでありませう。私は諸君が世界最高の雄弁教科書として、仏典に親しまれることをお勧めします。(同上、372頁)

 

 

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 温故知新とはこういうことだ。鈴木正吾、人物である。


 しかしながら戦後の彼は、その資質に相応しい扱いを受けたとは言い難い。

 

 GHQによって公職追放を喰らい、1951年に解除されはしたものの、かつてのような常勝ぶりは発揮できず、当選と落選を繰り返し、なかなか議席に留まり続けることが叶わなかった。


 最終的には第31回衆議院議員総選挙の落選をキリに政界からの引退を表明、十年後の1977年に世を去っている。


 日本は未だ、この人物に正当な評価を与えていない。

 

 

密教経典 大日経・理趣経・大日経疏・理趣釈 (講談社学術文庫)
 

 

 

 


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春月による「自然愛」分析

 

 感傷の詩人・生田春月は自然愛の源を大きく二つに分けている。厭離の心と、人間憎悪だ。

 


 厭離の心は、人間憎悪の心では決してない。けれど、自然愛は、人間憎悪の反動である場合もある。例へば、バイロンの如きである。そして、西洋の詩人には、この方がむしろ多い位ではあるまいか。そして、その心はいかに自然に遁れようとも、厭離ではなくして、より多くの執着を残す。(『生田春月全集 第八巻』9頁)

 


 非常に的を射た観測と言わねばならない。
 捕鯨反対のためならテロ行為も辞さないグリーンピースや、事あるごとに熊を射つなと猟友会に噛み付いてヒステリカルにわめき散らす、一部愛護団体の連中に対して、常々感じていたいかがわしさの正体が、春月のこの一文に触れることで、鮮やかに暴露された気分であった。


 なるほど、人間憎悪の反動としての自然愛


 道理で連中の顔付きが、自然を愛しているはずだのに、ちっとも自然に溶けてゆかず、反対にますます醜悪な、般若面の如き鬼相を呈してゆくわけだ。


 有名どころでは手塚治虫の自然愛も、多分に人間憎悪の反動としてのケを帯びていると私は看做す。

 

 

Osamu Tezuka 1951 Scan10008-2

 (Wikipediaより、手塚治虫

 


『白縫』という短編が、その特徴をよく顕している。
 Wikipediaからあらすじを引用すると、

 


 伸二は学校の郷土研究で不知火を調べるために故郷を訪れたが、かつての砂浜は空港建設のために変わり果てた姿となっていた。伸二の兄は地元の顔役となり、開発事業に邁進していたが、そこに奇妙な少女が現れる。

 


 結局この「少女」は以前兄が狩りをしている時に見逃してやった雛鳥であり、自然からの復讐を告げるために遣わされた存在であり、開発途中の埋め立て地は大地震によって発生した大津波に呑まれて海の藻屑と消え去るのである。
 伸二の兄もこの波によって哀れ還らぬ人となり、最終的に再び水平線に浮かぶようになった不知火が見開きで描かれて、この短編の幕は下りる。


 空港建設予定地に「団結小屋」なるグロテスクな「砦」をおっ建て、機動隊員に向って盛んに火炎瓶を投げつけていた赤色学生連中は、さだめしこの短編に勇気づけられたことだろう。

 

 

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 自らをあしたのジョー矢吹丈に擬し、空港を以って「海外侵略のための空の玄関」と糾弾して憚らなかった彼らのことだ。まんざら的外れな空想でもあるまい。

 


 資本主義にとって交通網は動脈であり血管である。GNP大国になり上った日本帝国主義にとって、海外侵略のための空の交通網=国際空港を建設することは、その肥大化した巨体を支えるために不可欠となった。支配階級はこれを国利=国策というオブラートにくるんで、強引におしすすめてきた。そして、この空港建設は海外侵略のための空の玄関であるという、外に向けられた凶器であるとともに、地元住民に対して生活破壊や環境破壊をもたらす、内に向けての凶器でもある。

 


新左翼二十年史 叛乱の軌跡』と銘打たれた書籍からの抜粋だが、250ページにも満たないこの一冊を読み切るまでに、私は何度深刻な頭痛に襲われたかわからない。

 

 

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「国利をいうものは人民のみなごろしを厭わない」だのなんだのと、斯くも荒唐無稽な戯言が、最初から最後まで一貫して続くのである。
「電波」という言葉の意味を、本当に教えてくれたのはこの本だ。
 しかも苦笑してばかりいられないのは、当時の多くの青年が、本当に多くの青年が、この「戯言」を戯言と思わず、大真面目に真に受けて、国家転覆の熱情に燃え、全国各地至る処で闘争に精を出したということである。


 まさに狂気の時代であろう。


 その狂気の卸問屋たる共産党「漫画の神様」が親密な関係にあったことは、今日に至っては常識だ。


 手塚は『白縫』以外にも、軍用機地建設のため立ち退きを命ぜられた山村の一家があくまでこれに抵抗し、敗北寸前まで追い詰められるがそこで不思議な山崩れが起き、一家を除いて軍基地も兵隊たちも皆土砂に埋もれ消えてしまうといったような、これまたわかりやすい「自然からの復讐」物語を描いていた。

 


 だが、自然が、地球が、人間相手に復讐など企てるだろうか?
 この憎悪は自然の代弁などでなく、手塚自身の精神にこそ端を発するものではないか?

 


 子供の頃は無邪気に同調していられたが、年を経るにつれて、私は手塚の作品、その多くを楽しめなくなってしまった。


 今の私の心には、柴田ヨクサルエアマスターで語ったような、開き直った自然認識こそが快い。

 


 自然破壊だ何だと言っても
 地球の"実"の部分は超巨大でぶ厚いマントルです
 その超巨大なマントルの上のほんの ほ~んの薄皮の上に ぞろぞろと暮らしているのが私たち人間さん達です
 散々自然を破壊して戦争だ平和だ勝手に人間が絶滅したとしても
 薄皮の部分の出来事です 
 ほんの一ミリの出来事です
 人がいなくなろうと何がいなくなろうが
 地球は相変わらず元気に50億年も生きていく事でしょう
 言ってる事は当り前の事だけど
 たまにデカイ声で誰かが言ってもいいだろう
 心配ばっかすんな
 人間ってそうじゃないだろう
(『エアマスター』26巻)

 

 

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 生田春月は人間憎悪の反動としての自然愛を批判して、

 


 ――執着ならば、むしろ人間を愛するやうになりたい。人間もまた、自然の一部として抱擁し得る自然愛でありたいと思ふ。

 


 と、なにやらGガンダムを先取りしたようなことを述べている。


 人間の思想とは、進んでいるのか退っているのか、まるでわからない。

 

 

 

 

 


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「いよいよ敗戦国らしくなってきた」 ―二つの「戦後」を見た男たち―

 

 大東亜戦争の激化につれて上野動物園で飼育されていた猛獣たちが殺処分を受けたことは、土家由岐夫の『かわいそうなぞう等によって有名だが、同様の事態は欧州大戦当時のドイツに於いても起きていた。


 貴族院勅選議員、大阪商工会議所会頭、稲畑勝太郎がそれを見ている。


 この人は終戦からわずか一年後にドイツを訪ね、戦争によって変わり果てた各都市を巡歴しているが、その中にハンブルクも含まれていた。


 ハンブルクには、かつて規模に於いて「世界一」を自任していたハーゲンベック動物園がある。


 以前の記事でわずかに触れた、豹が産んだばかりの我が子を喰ってしまわぬように、暗室での分娩法を確立した、カール・ハーゲンベックその人の設立した園である。

 

 

Tierpark Hagenbeck 2012

Wikipediaより、ハーゲンベック動物園、旧正面入り口) 

 


 この動物園を再訪した勝太郎は驚いた。あれだけいた動物たちが、たった三匹の猿を残してみな居なくなっていたのだから当然だ。以前彼の眼を愉しませてくれた豹も虎もライオンも、まったく影も形もなくなっている。
 何が起きたのかと手ごろな係員に訊ねると、いよいよ驚愕すべき返答が来た。


 喰ったのだと言う。


 戦争が長期化するにつれ、食料が極度に欠乏した結果、ハンブルクの市民たちは猫も犬も鼠でさえも、市街に息づく動物達、その悉くを喰い尽くし、それでも足りず、ついにはこの動物園の猛獣たちにさえ手をつけてしまったのだと言う。


 そこまでやって、それでも彼らは敗北した。


 稲畑が、戦後ドイツの言論界を圧倒した、


「我々の敗因は、一に宣伝の、プロパガンダの下手さに依る。宣伝下手が災いして、気付けば思わぬ多数を敵に廻して戦う破目になってしまった。これに比べて連合国のやつばら共めは宣伝に妙を得ていたので、どんどん味方を増やし、陸海共にドイツを封鎖して、武器、弾薬、食料の道を断ってしまった」


 という敗因論を全面的に肯定する気になったのは、まさにこの瞬間に他ならなかった。

 


 悲惨といはうか、痛恨といはうか、よくもドイツ国民は、ここ迄辛抱したものであって、全く馬倒れ、剣折れて、どんづまり迄行って、致方なく連合国に降伏したのであります。(『時局大熱論集』285頁)

 


 稲畑は当時の回想を、このような言葉で締めくくっている。
 更に彼は筆を進めて、当時のドイツと現下――昭和八年――の日本の情勢を引き比べ、

 


 日本国民は、幸にして敗北の経験をちませぬ。しかし、私は悲観説を述べるやうですが、いざ事あるに時に於いて、必ず勝てるといふ余裕ある考へを有つことは、危険であると信じます。(同上)

 


 と、明確に壮士論を戒めさえする。


 昭和八年という、大日本帝国国際連盟を脱退し、全権松岡洋右が英雄の如く持て囃されている、壮士論全盛の時節にあってこのような論を述べるには、よほどの覚悟がなければならない。


 稲畑の信念のほどが窺える。


 彼の危惧が見事に的中したことは既に書いた通りだが、だからといって稲畑は、まったく嬉しくなどなかったろう。

 

 

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 日本とドイツの類似点はこればかりでない。


 敗戦間もなくの日本に於いて、最大の人気商品の一つに覚醒剤ヒロポンが入っていたことは広く知られたところであるが、欧州大戦後の旧ドイツ帝国に於いてもやはり、薬物が大流行を来していたのだ。
 もっとも商品はヒロポンではなく、専らコカインの方であったが。


 こちらの様子は稲畑ではなく、秦豊吉こそが実見している。
 彼の丸木砂土随筆』に曰く、

 


 敗戦後の東京が、ヒロポン時代であったとすれば、第一次大戦後ベルリンは、コカイン時代であった。(中略)ナイトクラブというと裸踊りばかり見せるのでなく、コカインを吸わせるのが、大きな商売であった。そういうのに案内されると、穴蔵から家の裏に入って、真暗な路地を回り回って、急に立派な部屋に出る。そこがコカイン部屋である。
 コカインの愛用者の特徴は、酒の場合と同じように、好きな連中を招待して「コカインの夕べ」を催したがる。秘密に仕入れてきて「今晩の品は飛切上等だ」とか「正真正銘の保証付逸品だ」とか品評する。煙草好きが葉巻の批評をするようなものである。(『丸木砂土随筆』186頁)

 


 それゆえ秦は、アプレやパンパンが巷にあふれ、ヒロポンが飛ぶように売れる乱れに乱れた東京を見て、


 ――敗戦国の都は、敗戦国らしく、芯の崩れかかった、本当の形になってきたようである。


 と、彼らしい、ニヒリスティックな皮肉を籠めて書いている。

 

 

Toyokichi Hata 01

Wikipediaより、秦豊吉) 

 


 まったく、よくここから立ち直れたものだ。


 ドイツの場合、「芯」の崩れ去った空隙に、アドルフ・ヒトラーが新たな心棒を通して復活せしめ、そして再び木っ端微塵に砕かれた。


 では、戦後日本に芯をぶち込み、今日まで続く国家の基礎を築いたのはいったい誰であったのだろう。


 敗戦直後から以後数十年にかけての政治史について、私を含めた現代人はあまりに無智だ。そろそろこの辺りを入念に掘り返すべき秋かもしれない。

 

 

〈麻薬〉のすべて (講談社現代新書)

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神秘なるかな隠れ里 ―霧中衆・風波村―

 

 デンマークの文芸史家、ゲーオア・ブランデスはその名著『ロシア印象記』に於いて、ロシア人の放浪好みな性癖に触れ、その淵源を、この国の自然のあまりにも雄大な単調さにこそ見出した。「茫漠とした曠野に断えず彼方へ彼方へと人を誘う魅力がある。限りなき空想を起させ、漂泊の欲を誘い、新しい渇きを呼び出して行けども尽きない野末を追い極めさせようとする」、と。


 その国の自然的特徴が民族性の形成に資するところの巨大さを、ブランデスは説いている。


 ならば四境を海に囲まれ、何処まで行っても山また山の重畳し、水は一ツ処にとどまらず、絶えず岩を噛んで奔流する、わが日本国の国土はそこに棲まう人々をして如何なる民族性を育ませたのか。


 少なくとも、ロシアのそれとはまるで異なるモノであるのは間違いない。


 ロシアにあっては地平線こそ胸を焦がす憧憬の対象に他ならなかった。対して日本人が浪漫を託した対象は、多くの場合「人も通わぬ山奥」だった。

 

 

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 天を縁取るあの山々の奥深く、緑の魔境の何処かには、人間のちっぽけな常識ではとても計り知ることの出来ない神秘的な「何か」が息づいているに違いないと。――想像の翼をたくましくして、妖魔や神仙、桃源郷を想ったものだ。


 隠れ里もまた、そうした興味の範疇に入れてしまっていいだろう。


 麓からではどうやっても見通せない、地形的に隔絶された何処か深みに、時代から切り離された人々が、今も古式そのままの生活を営んでいるに違いない――。
 これまた日本人好みな想像であって、近いところでは『隻狼』が、その欲求に応えてくれた。「源の宮」など、まさに山中異界の極みではないか。


「源の渦」と呼ばれる巻雲によって絶えず包まれ、仰ぎ見る葦名の人々にすらその姿を捉えることを赦さない、いと貴き方々の坐する場所。それが「源の宮」である。


 これと似たような伝説が、現にあった。信越の国境を成す山岳地帯の何処かには、一年の半分が雪に鎖され、もう半分は決まって霧の溜まり続ける、猫の額ほどの狭隘なる高原地域が存在し、そこには代々、「霧中衆」と呼ばれる一団が独自の生活を営んでいたというものだ。

 

 

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 彼らは一様に鼻梁が高く、目がぱっちりと開いていて、それに何より皮膚の色が透けるほどに白かった。
 また、米のめしをあまり好まず、よしんば稲作をしたとしても売ってしまって銭に変え、自分達の食膳に上せることは滅多になかったそうである。


 これらの特徴は聞く者をして、ある種の漂流伝説を想起せずにはいられぬものだ。


 ただ、この「霧中衆」については大正年間までその存在がまことしやかに囁かれてはいるものの、例えば柳田国男のような、歴とした民俗学者が実地に赴き史料採集を行ったということがなく、つまりは実在を証明できない。


 今となっては口碑や伝承によってのみ朧な輪郭を投影し得る、半ば伝奇上の存在へと化してしまった。

 


 親不知の風波村に関しても、このあたりの事情は同一である。

 


 親不知といえば例の大雪崩があった、山肌がいきなり海面に向って切り落ちている、とてつもく険阻な道だが、この途中に僅か三戸だけ、他の村々からまったく隔絶された部落があった。
 それが風波だったのである。

 

 

Oyashirazu tenkendangai

Wikipediaより、親不知の天嶮断崖) 

 


 たった三戸きりといえど、彼らがここに居を構えたのはよほど昔であったらしく、周辺地域のどんな古老に訊ねてみても風波村が存在しない親不知の景色を見たことがない。
 この証言は昭和の初期に相馬御風が聞きこみを行って得たもので、ここから彼は風波をして、「いつの頃に出来た部落であるか、今では全くわからぬほどに古い歴史を持ってゐる(『人生行路』437頁)と結論している。


 一説によれば風波の先祖は親不知一帯を「狩り場」にしていた山賊で、ここを通る旅人を殺して所持品を奪うのを生業にしていたとか。
 しかしこの伝承の顛末は、ある時いつものように殺害した旅人が、その実親分の生き別れの娘であったというもので、昔話としてあまりにありきたりな筋書きであり、信憑性には疑問が残る。


 おそらくは、適当に後付けされた噺ではないか。


 相馬御風が実際にこの三戸の家を訪問してくれたなら、このあたりの事情もあるいはハッキリしていただろう。が、彼はついにそうしなかった。

 


 私はまだあの村の人に逢ったことはない。又あの村へわざわざ立ち寄って見たこともない。時にさうした好奇心に駆られては見るが、何といふことなしにそれを決行する気になれないのである。(同上、438頁)

 

 

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(相馬御風、昭和十年撮影)

 


 興味はある、しんしん・・・・だ。
 ところがいざ実行に移す段になると、なんとなく厭な心持がして後回しにしてしまう。
 このなんと・・・なく・・とは、あるいは本能からの警告だったか。

 

 風波は如何に人口が上下しようが、頑なに「三戸の村」であり続けたと云う。その数字に、彼らはなにかしらの意味を見出していたのだろうか。


 数多の謎を抱えたまま、風波村も歴史の中に消えてしまった。今となっては地名に痕跡を残すのみ。かつて三戸の家があったとされる場所には、何を慰めるものか、石地蔵が草に埋れて佇んでいる。

 

 

 

 

 


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医療教会垂涎の逸材、小酒井不木

 

 医者にして哲学者たるものは神に等しい。


 ヒポクラテスのこの言葉を引用し、小酒井不木は医師のみならずあらゆる学者・研究者はなべて哲学を備えねばならぬと力説した。そうであってこそ学問の発達は促され、人類全体の幸福が増進される結果にも繋がるのだと。


 では、当の不木自身が抱懐していた哲学とは、果たして如何なるものであったか?


 その答えは、次の記述にありありと浮かび上がっている。

 


 私は真の医学者たるには、現に存在する疾病を研究するだけでなく、進んで、新しい疾病を創造しなければならぬと思ふのである。(中略)園芸家がどしどし眼新しい新種を作るやうに、同じく「植物」に属する病原細菌を適当な方法で培養したならば、色々の変種を生じて、その性質を変化し、例へば脳脊髄膜を冒す細菌を適当に培養して後には記憶の中枢だけを冒すやうにするとか、或は又、チフス菌を適当に培養して、骨質を冒すやうにするとかいった風にすることが出来はしないかと思ふのである。かういふと、中には、医学なるものは疾病を人類から除くのがその目的であって、かりそめにも疾病を殖やしたり、疾病の性質を変化させたりすることは人道上許すべからざることだといふ人があるかも知れないけれど、私は、その人に向って、さういふ考をもって居るから医学は進まないのだと言ひたいのである。(『小酒井不木全集 第十五巻』91~92頁)

 


 小酒井不木東京帝大医学部出身。優れた文筆家でありながら同時に医学者としての顔まで兼ね備えた男であって、そうした意味では「漫画の神様」、手塚治虫とも似通っている。

 

 

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 当然、医学知識も豊富に具備していたと看做してよかろう。そうした背景を踏まえた上でこの発言を眺めると、いよいよ以って興味深い。


 特に秀逸なのは人道を振りかざして批難してくる手合いに対し、「さういふ考をもって居るから医学は進まないのだ」と真っ向からやり返している点だ。


『Bloodborne』医療教会関係者が聞いたなら、我が意を得たりと膝を打ち、君は実に見どころがある、どうだ、仲間に加わらないかと勧誘に来かねないセリフであろう。

 

 

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 昨今の映画でも小説でも、こういうことをのたまう輩は大抵悪役として配置され、実験が制御できなくなって大災害を招いてしまう役割として存在している向きがある。


 しかし私はかねてより、そういうキャラクターにこそ面白味と魅力とを見出してきた。こういう人種がいなければ、人間世界はなんとつまらぬ、味気ない、粗末で寂莫としたものになるであろうか、と。


 実際問題、現代に於ける医学薬学の繁栄とて、ナチスドイツが、或いは冷戦下に於ける米ソ両国が、それぞれ血眼になって生物兵器の開発に尽力した、すなわち「新しい疾病を創造」しようとした結果拓かれた境地ではないか。


 不木の思想は過激だが、よく真実の一面を穿っていたと言える。

 

 


 少し前、豚の体内で人間の臓器を作成し、これをヒトに移植して病の治療に役立てようとする研究が大いに進捗をみせていると報じられ、随分世間をにぎわわせていた。
 我が国でも東大などの研究チームがこれに取り組み、年内にも実施を目指しているとか。


 不木が聞けば、さぞ喜悦するニュースであるに違いない。案の定、この研究にも「倫理」を盾に批難を加える勢力があるが、彼の「哲学」はこの連中を容赦なく蹴散らすことだろう。
 頑迷固陋、度し難し。斯くなるものは駆逐せよ、進歩こそ何にもまして望ましけれ。
 好奇の狂熱とは、或いはこのようなものであるか。

 


 身体が闘争を求めていた件といい、小酒井不木フロムソフトウェアの世界観との親和性の高さには驚かされる。

 

 

Bloodborne: The Death of Sleep

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夢路紀行抄 ―軟体動物―

 

 夢を見た。
 山の中の夢である。
 ふと気が付けば私は独り登山に勤しんでおり、強烈な斜度の鎖場を、滑落の恐怖と闘いながらひいこら喘いで攻めていた。

 

 

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 やっとの思いでそこを越えると、千古斧鉞を加えざる老樹の緑のその中に、ひどく不似合いなものがある。


 白く明るいなまこ壁が目に鮮やかな、堂々たる武家屋敷である。


 鋲が打たれた、これまた立派な門の横の看板は、しかしながら主人の正気を疑わずにはいられぬものだ。


「なめくじ博物館」と、そう記されているのである。


 金を貰ってもこんなところに入りたくはない。ないが、残念なことにここを潜らねば頂上を踏むことは叶わぬ様子。
 ゲームに於ける強制イベントのようなものだ。諦めて入館することにした。


 そこで見たものの詳細を、ここに書き並べたくはない。書いてる途中で、おそらく私の精神力は限界に達する。筆を投げ出すこと請け負いである。


 ただ、起床してからしばらく経って、思い出したことがある。そういえば私の故郷の山梨県はその地誌に、地方病の大猖獗という陰惨な過去を持っていた。


 言わずと知れた、日本住血吸虫のことである。


 ミヤイリガイというごくごく小さな巻貝を中間宿主として発育するこの寄生虫はかつて甲府盆地で猛威をふるい、数えきれないほどの住民の体内に潜り込んではその血管を卵だらけにしたものだ。


 卵はやがて門脈をはじめ各所の血管を詰まらせる。当然、宿主は無事ではいられない。栄養障害、消化器障害を来し、手足は棒の如く痩せ細る。そのくせ腹ばかりが腹水により異常なばかりに膨張し、ちょうど地獄絵巻の餓鬼そのものの姿を呈する。

 

 

Edema abdomen by Schistosomiasis Japonica

 (Wikipediaより、この地方病の重症化患者)

 


 最悪なのは、この寄生虫が皮膚からでも易々と人体に侵入して来ることだ。
 ミヤイリガイの棲息している水場に素足で踏み込もうものならば、ほぼ確実に入り込まれる。
 そして当時、すなわち山梨がまだ「果樹王国」でなかった頃は、甲府盆地一帯でミヤイリガイのいない水場を探す方が難しい――否、いっそ不可能事に等しいといっても過言ではない有様だった。


 なにしろミヤイリガイ一合につき五十銭という賞金が「官」によってかけられて、大正六年から八年かけてのべ三十八石五斗――米俵にして九十六俵――もの貝が集められたにも拘らず、総体としては一向に減る気配がなかったと記録にあるから馬鹿げていよう。

 


 私は山梨県立博物館で、パネル上に固定されたミヤイリガイの実物を見た。

 


 あんな小さなものを、いったい何万匹集めれば米俵一つぶんに届くのか。下手をすると何十万が要るかもしれない。しかもそれを九十六倍してなお、総体から俯瞰すれば雀の涙というのだから、完全に想像の埒外である。

 

 

Yamanashi Prefectural Museum

Wikipediaより、山梨県立博物館) 

 


 寄生虫のみならず、その中間宿主まで桁外れの繁殖力とはなんたる悪夢か。


 七十年以上に亘る悪戦苦闘の歴史の果てに、今でこそミヤイリガイは撲滅されて、日本住血吸虫も山梨県から姿を消したが、私の親世代には未だに当時の恐怖が色濃く残っていたらしく、命が惜しけりゃ水場に入るなと、平成生まれの私でさえも口を酸っぱくして言い聞かされたものである。


 こういう梅雨時、カタツムリに触ろうものなら、それはもう入念に石鹸で手を洗わせられた。


 そうした経験の積み重ねが、自然と私の精神の内部に軟体動物全般に対する苦手意識トラウマを形成したのは間違いない。
 ミームは受け継がれたといってよかろう。教育の効果を実感している。


 連日の雨が、記憶のそのあたりを刺激したのか。いやはや、ひでえ悪夢を見たものだ。

 

 

 

 

 


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戦い続ける歓びを ―身体が闘争を求めた男、小酒井不木―

 

 

「闘争を喜ぶのは人間の本性であります。人間の筋肉や骨格の如きも、みな、闘争に役立つやうに作られて居ります。闘争のない所に人間はなく、又人間の進化もありません。
 闘争には、勝利と敗北が付随します。さうして、勝利は嬉しいものであり敗北は厭なものであります。然し、よく考へて見ますると、人間の喜ぶところのものは、勝利ではなくて闘争そのものであります、勝つことは嬉しいにちがひありませんけれど、勝った後は、すぐその勝利にいて、寂しい思ひを致します」


「ところが世の中には闘ふことに興味を持たず、ただ勝利をのみ希ふ人が少くはありません。それ等の人は闘争の興味を知らぬのでありまして、勿論、勝利の物足りなさを経験しないからであります。さうしてもとよりかやうな人は勝利を得ることが出来ません。それ故人は闘争そのことに興味を持たねばなりません。即ち受難を喜ぶ覚悟がなくてはなりません。
 闘争のための闘争、それで人間は快く暮して行くことが出来ると思ひます」

(『小酒井不木全集 第十五巻』85~86頁)

 


 杉村楚人冠『山中説法』によれば、昭和八年九月に実現した一高対三高の野球試合に際して、インタビューに答えたある選手が、


「これは学校と学校との真剣勝負であって、そこらのスポーツマンシップの名によって美化された軽はずみな試合とはわけが違う」


 と、大気焔をぶちあげたそうだ。


 楚人冠はこのことを、たいへん好意的な出来事として書いている。


 小酒井不木がもしこのセリフを聞いたとしても、やはり大喜びしただろう。天晴れ見事、向こう見ずな蛮勇こそ望ましけれ。若者とはこうであってこそ清々しい、と。


 もっとも不木はこのインタビューから四年前、昭和四年の四月一日に既にこの世を去っているため、聞ける道理もないのだが。

 

 

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(左の男性が小酒井不木

 


 死因は、急性肺炎だったという。
 二十五歳で発病してから十四年間、三十九歳のこの命日に至るまで、不木の日常は肺病との絶え間ない闘争の連続だった。


 病はついに彼の命を奪ったが、その猛々しい闘争心を掻き消すことは叶わなかった。

 いやむしろ、病状が悪化すればするほどに、不木の胸底からは「なにくそ」という青白い炎にも似た想いが湧いて、あくまでもこの病魔めを征服し屈服させてやらんとする鋼の意志が鍛冶たんやされた趣きすらある。


 彼がその苦しみの中から見出した「死の覚悟」に対する解釈は、一世紀を経た今日に至るも依然通用するものだ。

 


「死を覚悟する」といふことは何事につけても必要なことでありますが、死を覚悟するといふのは「死ぬ程の苦しみを覚悟してまでも、尚ほ且つ・・・・生きよう・・・・と思ふ心」をいふのでありまして、「どうせ死ぬにきまってゐる」と思ふのは死を覚悟するのでなくて死を希望するのでありますから、従って希望通りに死は参るのであります。(同上、6頁)

 


 冒頭の「世の中には闘ふことに興味を持たず、ただ勝利をのみ希ふ人が少くはありません」と併せて、なにやら現在放映中のジョジョの奇妙な冒険 Parte5 黄金の風を彷彿とさせる単語の羅列だ。時を吹っ飛ばして「結果」のみをこの世に残すキング・クリムゾンの能力は、小酒井不木「もとよりかやうな人は勝利を得ることが出来ません」と指摘した在りようそのものではないか。

 


 病弱者の中には、病に罹ったことそれ自身を、すでに世の中に敗北したものと考へて居るお目出度い人がある。そんな人は到底世の中に打ち勝つことも出来ねば、また病に打ち勝つことも出来ぬのである。
 思ふに慢性病に罹った時ほど、心を錬磨するに好都合な機会はないのである。自分の心を強くならしめることによって、如何に見事に病を退治することが出来るかを実見するに最も適当な時機である。(同上、77頁)

 


 小酒井不木の闘病観は、つまるところこの部分に尽きている。
 私はこれを「空元気」とか「虚しい強がり」とか見たくはないし、昭和四年四月一日の死を以って、不木が病に敗れたとも考えたくない。


 彼は最期まで立派に闘った漢であった。血反吐と共に吐き出された虹のような意気の数々は、未だに色褪せることなく仰ぎ見る者たちをして勇奮措く能わざらしめている。
 男子の本懐、その体現といっていい。

 

 

戦いの中にしか、私の存在する場所はない。

好きに生き、理不尽に死ぬ。それが私だ、肉体の有無ではない。

戦いはいい。私には、それが必要なんだ。

 


『ACVD』ラストミッションに於けるこのセリフが、今改めて思い出される。 


 涯てしない闘争の渦中にあってなお、否、闘いずくめであればこそ、不木の心は爽やかだったに違いないのだ。

 

 

 

 

 

 
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